2021.6.13 の週報掲載の説教

<2020年1月26日の説教から>

『イエスの系図』

     ルカによる福音書3章23節~38節

牧師 三輪地塩

この系図に記された名前はほとんど分からないと思う。聞いたことはあっても、有名な「あの人」とは限らない。例えば3章24節の「ヨセフ」は、我々の知っているどのヨセフとも違う人である。25節の「アモス」も預言者ではない。29節の「ヨシュア」もモーセの後継者ではないし、30節のシメオン、ユダ、ヨセフは、ヤコブの息子達ではない。つまりこの系図に書かれている名前は知らない人たちばかりなのだ。

だが後半の31節以下になって「ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ」など、聞いたことのある名前が出てくる。ダビデはあのダビデ王、エッサイはあのエッサイである。

マタイ福音書にも似た系図が掲載されているが、比較するとヨセフからダビデに至る14代にわたる名前が全く違っていることに気付く。だがそこはさほど問題とはならない。どちらも「ダビデ」に行き着いており、それが待ちわびてきたメシアの証拠となるからだ。

系図は34節でアブラハムが出て来る。「信仰の父」アブラハムは、創世記11章以降に登場する。彼は「行き先も知らず」約束の地カナンに向かった。「行き先を知らない」という不安な気持ちを乗り越えて、神の言葉に聞き従うことを優先した生涯だった。系図は旧約の義人ノアを経て、最後には「神に至る」。神の子イエス・キリストの系図は、非の打ち所のない立派なもののように見えるがそうではない。例えば33節の「ユダ」と「ペレツ」は創世記38章で大きな罪を犯している。

ルカとマタイの決定的な違いは、家系図を下るのか、遡るのかの違いである。マタイ福音書はアブラハムから下り、ダビデを通ってイエスに至るという時系列、ルカはその逆である。イエスから遡って、ダビデに至り、最後に「アダム」に続く。神は自分の姿に似せてアダムを造り、鼻に息を吹き入れて彼を生きる者とされた。「それは甚だ良かった」と、神の創造の素晴らしさが語られた。キリストはここに繋がっているとルカは言う。罪を犯したアダムではあるが、同時に「甚だ良かった」神の創造まで遡る。この罪の代表者アダムは、人間全体を象徴している。このアダムの(つまり我々の)罪を背負い、神の「甚だ良かった」ことを成し遂げたのがキリストだった。この意味を込めてルカの系図はアダムまで遡るのである。