2022.1.1.16 の週報掲載の説教

2022.1.1.16 の週報掲載の説教
<2020年8月2日の説教から>

ルカによる福音書8章1節~15節

『百倍の実を結んだ』
 
この話はよく知られた「種蒔きの譬え」であるが、「種」が御言葉を表わしているのか、聞き手を表わしているのかは明確でなく解釈する側に委ねられていると言って良い。イエスが譬え話を使う時、分かり易く伝えることが多いが、この箇所ではそうではない。「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは・・・・・・『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」と述べられている通りである。

「見ても見えず」「聞いても理解出来ないようになるため」というのは、よく考えると衝撃的な言葉である。イエスの意図は、「全ての教えや説教、譬え話が、皆すべて実りある物とはならない」と言いたいのであろう。それは聞く耳の有無の問題かもしれない。つまり人間は「聞きたいことしか聞かない」ということである。神の御言葉が、人間の罪深さや、キリストの救いを語っても、それを聞こうとしなければ、「石地」「鳥」「いばら」に落ちた種となるとイエスは忠告している。

では、我々が聞く耳のある者になるためには、どうすれば良いのだろうか。ということである。それこそがこ譬えの4つ目の種が蒔かれた場所「何もない土地になる」ことに他ならない。「何もない」ということから実を生じさせるわけではなく、「何もない」ことの中に存在する「ある」ことに気付くべきなのだ。決して人間の罪を度外視して性善説的に言っているのではない。「良い土地」には「石」も「いばら」もないため、塞がれることがない。だが、「何もない土」には、厳密には、良い養分が含まれる。カリウム、リン酸、窒素、カルシウム、堆肥などの有機物がほどよく混ざっていないと育たない。15節には「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」とある。重要なのは「忍耐して実を結ぶこと」であろう。御言葉を聞く行為は、スポンジが水を吸収するように、自然とスーッと入り込んで来るのではなく、時に御言葉は忍耐と共に受けるものである、と言われている。種が芽生え、育ち、実を結ぶには、余計な混ぜ物が無い「良い土」と「忍耐」が必要なのだ。