2022.10.9 の週報掲載の説教

2022.10.9 の週報掲載の説教
<2022年8月28日説教から>
『神は唯一だからです』

ローマの信徒への手紙3章29節~31節

牧 師 鈴木美津子

 
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました(27)」。何らかの誇りがなければ生きていけないのが人間である。プライドと言い換えたほうがわかりやすいだろうか。私たちは、それにしがみつきながら生きている。誰かにプライドを傷つけられた、と言っては怒り、また意気消沈したり、また落ち込んでみたり・・・。それが人間である。

ユダヤ人たちは、自分たちが神の民、選ばれた民であるということを誇り、神に与えられた特権としての律法に、そして選民の象徴である割礼に、しがみついて生きていた。そのように生きてきたユダヤ人たちにとって、「律法によって救われるのではなく、信仰によって救われる」、というパウロの言葉は、彼らの「誇り」要するにプライドを、ズタズタに傷つけたのだ。「信仰によってのみに生きる」ということは、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、がっしりとしがみついていた「誇り」が取り去られることである。キリスト教信仰に一歩足を踏み入れたならば、学歴、経歴、職業、経済的な豊かさ、知識の深さ、人柄の良さ、行いの豊かさなどなどを誇ることが、取り去られるということである。ところが信仰生活が始まっても、誇りがなければ生きていけないという人間の性は、なかなか死なないのが現実である。それでもパウロは、「誇りは取り去られた」、と言う。では、一切の誇りが取り去られた私たちは、どのように生きていくのか。パウロは、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(コリント二12:9)」と語る。信仰者の生きる力の源は、主イエスの十字架にある。あらゆる誇りを取り去られて、ただ主イエスの十字架から力をいただき、自分の弱さを誇る者になることである。キリスト者が誇るとすれば、自らの弱さである。誇りなど何もない、まったくない、それが主イエスを信じる者の生き方、それが真に信仰に生きるということだからである。

唯一の神が備えられた救いの道は、イエス・キリストを信じることによって義とされることのみ。その神の御前に私たちは唯一誇れること、それは神が私たちを正しい者とするために、愛する御子を十字架の死へと引き渡してくださったことのみである。

 
*先週8月28日説教としましたが、9月4日説教の誤りでした。

掲載が前後してしまいましたことをお詫びいたします。