1月17日~22日の集会

 ◇聖書の学びと祈りの会   1月19日(水) 19時30分~

 ◇    〃        1月20日(木) 10時00分~

1月23日の礼拝

 ◇説教題:『異邦人の光』

 ◇聖 書:使徒言行録13章42節~14章7節

 ◇説教者:三輪地塩 牧師

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記27章46節-28章22節 2011年1月13日

 創世記27章46節-28章22節 2011年1月13日
 41節~45節の内容によって、エサウの怒りの様子が分かります。45節’「1日のうちにお前たち二人を失うなどどうしてできましょう」とは、殺された者は当然のこととして、殺した者が死罪にあたる、という当時の風習に習っています。
 そのためリベカは、ヤコブを守るために、46節のようにイサクに言って、ヤコブを逃亡させる口実を作ります。あるいは、26章34節-35節にあるように、本当にリベカはエサウの妻のことで、嫌な思いをしていたのかもしれません。いずれにしても、このような逃亡が成立するということは、神様の計らい、ということになるのかもしれません。
 聖書はエサウが選んだ事柄が、すべて軽率であったことを暗に示しております。つまり祝福を弟にレンズマメの煮物で譲ってしまったことも、異教の女性を結婚相手としてさっさと決めてしまったことも、それはエサウの軽率な行動が招いた間違いである、という意味であるのでしょう。
 28章に入り、イサクはヤコブを呼び寄せて、結婚相手をカナンの地で見つけてはならない、ということを伝えます。そしてパダン・アラムに住んでいる、べトエル(リベカの父)のところに行き、その息子ラバン(リベカの兄)の娘の中から結婚相手を探しなさい、ということを命じたわけです。
 そしてヤコブは旅立に出るわけです。これによってエサウの怒りの手から免れることができ、またヤコブの人生は、新しい局面に向かって進んでいくことになります。
 しかしここで面白いのは、エサウのとった6節以下の行為であります。つまり、イサクがヤコブに対して命じたことに関して、エサウはそれを気にしているということです。8節「エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかに、もう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹にあたるマハラトを妻とした」とあります。大した意味を持たずに書かれたのであろうと思いますが、しかしこのようにしてまで父ヤコブの意向に沿って生きようとするエサウの姿を見ますとき、何とも言えない健気さを感じてしまいます。
 これに対して小泉達人氏は、次のように言います。「いかにも単純率直で、物事を簡単に考えるエサウらしい対応です~しかしこれに対して聖書は厳しいのです。~何とか父親の好意を得ようとする~いじらしい努力に対して、聖書は一顧も与えようとしません。むしろいまさら無駄なことを、という嘲笑しているかのようです。~(それは)聖書は~神の恵みに対する軽率さに我慢ならないのです。~エサウは神の恵みを、バーゲンセールの買い物のように簡単に考えています。(それに対して)聖書は批判を止めません」(「創世記講解説教」224ページ抜粋)
 このように厳しい論調で語っています。
 しかし私は、そう簡単にこのエサウの好意を簡単に批判してよいものかと感じます。
 エサウは、ヤコブに対しては怒りと憎しみに駆られて殺そうとまでしていたわけですが、しかし一方で彼は、自分の人生を悔いて、新しい命に向かって歩み始めていた、ということがここで言われているのだと思うのです。そもそも人間とは、決して罪を犯さない者ではなく、罪を犯した後に、どうそれを悔い改め自分を見つめ直して、如何に再出発することが出来るか、ということにかかってくるのではないかと思うのです。
 間違いは犯す。しかしやり直せない人生はない。軽率な行動によって、祝福が自分の手からすり抜けて行ってしまった。しかしそれですべてが終わったわけではない。もう一度再スタートを切ることが出来るのだ。そう聖書は言っているように思います。
 さて、ヤコブは、ラバンのところに向かう道の途中にあったわけですが、この旅の途中で夜を明かします。「石を枕に夢を見る」というのは、大変印象的な一場面であります。多くの画家がこの場面を描いています。ここでヤコブが見た夢は、ヤコブの祈りが天に届いていることを示しています。彼はこのとき、孤独でした。ベエル・シェバからハランまでの道のりは、直線距離にして750キロもありました。東京から下関までの長距離です。もちろん徒歩であったでしょう。しかも彼は全てに別れを告げて、いま孤独の中を歩んでいるのです。
 何度もご紹介していますが、日曜学校誌にはこの時のヤコブの心がうまく表現されています。低学年用の説教例です。
「~この時のヤコブさんの心の中は、寂しさや、悲しみでいっぱいでした。お父さんとお兄さんを騙してしまってごめんなさい、という思い、やさしいお母さんに会えない寂しさ、自分はこれからどうなるんだろう、というふあんなで思い出、泣きそうになっていたのです。そうこうしているうちに日が暮れてしまい~ました。旅館もホテルもありませんから野宿です。寒かったことでしょう。」
 このように書かれています。また、小泉達人さんは、次のように語ります。
「これは恐らく、ヤコブノ祈りの象徴でしょう。天地にただ一人、孤独と不安の中で、生まれて初めて真剣に神に祈ったヤコブ。その祈りが神に達し、また神のかえりみがヤコブに届くことを、天に届く階段と、それを上り下りする天使の姿でイメージしています。祈りの象徴として、これほど深く、これほど美しく、またこれほど壮大な象徴はないと思います。」
 このように語られているとおり、ヤコブの祈りは聞き上げられ、彼に一つの約束の言葉が与えられます。13節~15節の言葉です。特に15節には、「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」
 このように、神はヤコブに語りかけます。逆境と孤独の只中で神と出会う様子が示されています。これは私たちに与えられた祝福の言葉であります。私たちの人生においても、まことの神と出会うのは、幸せの真っ只中ではなく、むしろ逆境であり、困難であるときの方が多くあります。順境のとき、私たちは、自分の力と知恵とを信じ、それが自分を立たせる最善の力であると、自信にみなぎります。しかしそのようなとき、神は私たちの前にその存在を現されることはありません。し
かし、挫折と痛みと、弱さの中で、自らの力を過信していた自分に気づいたとき、初めて神さまは、私たちと出会ってくださるのです。
 そこには真剣な祈りがあります。「わたしはあなたと共にいる」とお語りになる「インマヌエルの神」は、まさに私たちと共にいまし給う方でおられます。この世と共におられ、私たちの弱さと、また強さの裏にある傲慢と共にいて下さいます。
 ヤコブは神の祝福を兄弟エサウから奪い取りました。それは彼と彼の参謀であり助言者であった母リベカの知恵と力の為した成果であったと言えるかもしれません。けれども彼が本当の意味で祝福を受けるのは、自分への過信を通り超え、肉親である兄からの殺意から逃げ、親からも離れ、初めての場所に行く、不安の只中にいることそれ自体が、神の祝福の場面であったのです。
 アブラハムとイサクの神が、自分の神であることが宣言された。それは、帰る場所が定められた、ということに他なりません。今ヤコブは、行き場を失っています。ハランに行く道すがらですが、しかしそれは一過性の、一時しのぎ的なものであることは、ヤコブの目にも明らかです。それが彼の不安となっていたのです。帰る場所がない。それはあの放蕩息子が、どこにも帰る場所を持たなくて、町中を一文無しでウロウロしているあの孤独にも似ています。自分の撒いた種であることは分かっていても、帰る場所を、つまり希望を喪失していたのです。
 しかし今やアブラハム、イサクの神が、私の神であることが明らかとなった。喪失と失望が、希望と歓喜へと変えられた。それが神との出会いに示されているのであります。
渡辺信夫著「イサクの神、ヤコブの神」では次のように語られます。
「ヤコブに与えられたのは、単に神が共にいます、という安らかさや気強さではありません。将来が与えられ、したがって希望が与えられたということであります。ですから、ヤコブはどんな所へ行っても大丈夫だという自信ではなく、将来があるという希望を持ちました。この地を離れて去って行くのではなく、また帰って来る将来が希望によって見えて来たのです」(同書101ページ)
 私たちの希望はここにあります。いつでも主のもとに帰ってくる安心。いつでも主の下に帰ってきても良い、と許可されている確信。それが私たちへの祝福なのであります。

使徒言行録12章18節-24節 『神に栄光を帰す』 (新年礼拝)

 使徒言行録12章18節-24節 『神に栄光を帰す』 (新年礼拝) 2011年1月2日

 新しい年が明けました。今年もまた主の恵みを一身に受けて、御言葉によって導かれる日々を過ごしたい、そのように願っていることと思います。
 さて昨年2010年の日本は、GDPが世界第3位に後退したことが示すとおり、経済的な問題が浮き彫りにされた1年でした。不透明な経済情勢、とりわけ年間通しての異常な円高は、私たちの国が今後どうなっていくのかという不安感を煽り立てました。夏の猛暑は、私たちの健康を脅かすと同時に、不作を起こし、物価の高騰を招き、経済不況に追い討ちを掛けました。

 さらに「口蹄疫」の問題や、一昨年から流行した新型インフルエンザ、そして今後発生し流行するであろう、もっと強毒性のウィルスへの恐怖など、私たちの生活が脅かされたとき、国がどう対処するのだろうか、という不安感を募らせました。

 尖閣諸島の所有権問題。海上保安庁の船と中国の漁船の衝突事故と、映像の流出。。それから非核三原則を掲げながら、米国の核の傘に守られることの条約を秘密裏に結んでいた、という国民の知らない驚愕の事実。自衛隊の問題と、沖縄米軍基地の移設問題。これらは国家の安全保障上の問題でありました。

 このように、昨年は様々なことがありました。それは同時に、私たちには様々な問題や課題があることをも示しています。このような問題を解決するために、私たちはこの国がどう動いてくれるかに期待すると思います。景気の回復も、円高の解決も、安全保障や、広がりつつある凶悪犯罪に関しても、その解決を国家に委ね、国家に期待すると思います。医療に関しても、年金に関しても、戦争や、災害が起こったときも、私たちは国家に期待し、全能でさえあると思われるこの国家権力が、全てを解決できると感じると思うのです。
 国家と国家権力は、国民にとってあたかも全能の神のようであり、時には自分の命を投げ出してでも守り続けることを義務付ける教育を施し、国民の意思をコントロールし、自分自身の存在意義さえも、この国家との繋がりの中で見出すことさえあります。

 今日与えられた聖書箇所は、国家もしくは国家権力者が、神のようになり、神と同じ存在として、民衆に先立っている様子が記されております。ヘロデは「神の声だ。人間の声ではない」と民衆に叫び続けられたとあります。ここではヘロデが神として崇められている有頂天な様子が伺えます。

 ヘロデ王という人物は、権力的であり、独裁的であったようであります。12章1節以下には「そのころヘロデ王は、教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのをみて、更にペトロをも捕らえた」とあります。ヘロデは自らの考えに賛同しない者を投獄し、時には民衆の人気を得るために、世論を意識した行動にも出ております。ですから非常に政治的な人物であると言えるのです。単なる暴君ではなく、ある意味冷静に状況を判断し、大局的に物事を捉えながら、多数者の満足が満たされることを考えているし、民衆からの人気を得ることに力を注いでいる、と言う点において、彼は現代的に言っても優れた政治家なのであります。ユダヤ地方は小さな国でありますが、しかしこのヘロデの名声は天下に轟き、民衆の尊敬を集めていたのだと思われます。ヘロデの着ていた衣服は、神々しいばかりに光り輝き、それが印象的な彼の姿であった、と古い歴史家たちが伝えております。その神々しさ、光り輝く衣服によって、彼はあたかも神であるかのような崇拝を受けているのであります。

 ヘロデは当時のユダヤ地方を治めておりました。ユダヤはティルスとシドンに対して、食料を供給しておりました。ユダヤはこの二つの国に対して優勢な立場にあり、この国々はユダヤに頭の上がらない従属関係に近いものがあったと考えられます。

 ヘロデ王は何らかの理由で、このティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていることが記されています。何に憤慨していたのかは、ヨセフスなどの聖書外資料や歴史資料を紐解いても知ることはできません。いずれにしても「何らかの理由」ということ以外はわかりません。

 今日の箇所で言われていることは、ティルスとシドンの人々が、怒り心頭のヘロデのところに出向き、国家の存亡を賭けて、ヘロデの侍従ブラストに和解調停役を願い出たということであります。しかしこの和解の申し出が受け入れられたのかどうかについても、ここには書かれておりません。とにかく、この箇所から分かるのは、彼こそが当時のユダヤとその周辺都市を掌握し、生殺与奪の権利を持っているということなのであります。

 このようなヘロデが演説をしたのに対し、民衆は「神の声だ。人間の声ではない」と、ヘロデを神であるかのように祭り上げ、媚へつらう民衆の様子が記されております。ヘロデは自らが神であると呼ばれることを否定することもなく、それを受け入れているのです。しかし「するとたちまち、主の天使がヘロデを打ち倒した」のであります。

 私たちの生きるこの世の中には、神ではない者、神ではない事柄を、神として崇め奉ることが大変多く起こります。特定の人間自体を直接的に神だとすることはあまりないかもしれませんが、しかし私たちは、国家や国家権力といったものに対し、あたかも神であるかのように考えることは多くあると思うのです。私たちは自らの生活の保障を、国家に求めます。私たちは自分の身の安全や、社会福祉、保護、を国に求め、期待します。日の丸・君が代を崇拝対象的に扱い、民族の存在根拠をそのシンボルの中にこめて、忠誠心を植え付けられる教育が施されつつあります。私たちがもし、自分を守り、保護し、この身を保障する最終的な力が「国家にのみぞある」と捉えるならば、それは神ではなく、人間を崇拝することになるのです。

 冒頭で申し上げましたような、様々な問題や課題が、今年も私たちと私たちの社会を包むでしょう。経済不安や、犯罪の増加など、それらを解消できる最終的な手立ては国家にしか持ち合わせていない、とするならば、そこには神不在の、国家崇拝が存在することになってしまうのです。

 安全保障のことに関しては特に顕著でありま
す。私たち人類は、核の脅威に晒されながら、そこから脱却することが中々出来ない者たちです。核の脅威に晒され、世界で唯一の被爆国となった日本でさえも、アメリカの核の傘に守られることを前提として密約が、しかも戦後20年のうちに締結されていたという事実が意味することは「軍事力こそが我々の命を守り、命を保障するものである」という軍事力崇拝的な思いが人間の中にある、ということであります。

 しかし人間が国家の力を信奉し、そこに神の姿を見出すのであるならば、私たちは今後、核弾頭をこの世から消し去ることなど出来ないどころか、核弾頭の力を信じ、それをせっせと作り上げることに精を出して行き続けるのであります。むしろ私たちは、人間の作り出したものの無力さ、つまり核弾頭がいかに無力であり虚無であるか、という事実の中に身を投じてゆかなければ、私たちは本当の神に出会うどころか、私たちを本当に支配なさるのがどなたであるのかを見失うことになってしまうのであります。

 つまり私たちは、ヘロデ王の神々しい姿の中に「神のように見える輝き」を見出し、その輝きの中から「神の声のように聞こえる言葉」を見つけ出してしまうのであるならば、真の神を見ることはできないのです。しかしその反対に、ヘロデの神々しい服装や佇まいに、何の魅力も、何の輝きも見出すことがないならば、本当の神が如何なる方であるのかという真実に到達することが出来るのであります。
 面白いことに聖書は、ヘロデ王の演説それ自体には、全く関心を持っていません。使徒言行録は数多くの演説や説教が出てまいります。使徒たちの説教集のようにすら感じられるこの使徒言行録という書簡の特徴から鑑みて、ヘロデの演説と言葉に一切注意を払っていないことの意味がここにあります。つまりヘロデそれ自体は「神とは無縁な存在であった」ということです。シドンとティルスの人々は、食料援助を得るために、ヘロデの憤慨を宥めて和解するために、媚へつらって、又、お世辞の一つでも言えば何か良い事があるに違いない、と理解して「あれは神の声だ。今まで聞いた演説の中で、神にも劣らない最高のものである」と大喝采を送ったのです。

 私たちはこの御言葉を受けて、我々は真の神を見出すのか、それとも神以外の神のように振舞うものを見出してしまうのだろうか。そのことが今問われているのです。現代社会において、特に今の日本において、独裁者や暴君のような者は存在しにくい世の中であります。だから私たちは、ヘロデは出現しないと考えがちであります。しかしながら、ヘロデに象徴される力を信じることは往々にして起こり得るのです。

 ヘロデ流の救いは、人々を制圧し、威厳を示し、権力を誇示することによって頭を下げさせ、人々が犠牲になることによって、民衆の満足を得ていくというものでありました。失敗した番兵が処刑されたという19節の記述も、使徒ヤコブの殺害と、ペテロの投獄が民衆に喜ばれたため行なわれた、という記述も、ヘロデ流の救いの姿であります。つまり人々の犠牲の中で成り立っている、ということです。それは私たちの生きる現代社会にも言えることであります。国や組織というものは、往々にして私たちに犠牲を求めます。誰かが我慢し、犠牲になることによって、国は国としての体裁を守り、安全が守られるのだと信じられるからです。しかし主イエス・キリストの国は、我々の犠牲によってではなく、主ご自身が十字架の犠牲によって打ち立てた新しい国なのであります。私たち人間は、もっぱら強さと大きさの中に神の姿を見ようとしますが、しかしそれはヘロデの中に神を見るのと同じ事であります。むしろ私たちは、弱さと小ささの中にこそ、神が降り立ってくださったことの中にある、新しい神の国を見出すときにこそ、そこに真の救いが存在するのであります。

 私たちの救いは、私たちの信仰の内にあるのです。「国さえ何とかなれば、政治さえどうにかなれば、私たちの生活は救われる」と考えがちな私たちであります。神以外の中に全能性を投影し、それを神であるかのように扱い、その神が、私たちを守ってくれるように考えるのであるならば、そこには神ではない神を信じる姿、ヘロデの中に神を見出す私たちの姿を見つけるのです。

 しかしヘロデは主によって打ち倒されました。その理由が「神に栄光を帰さなかったからである」と書かれております。つまり私たちはヘロデに栄光を帰すのではなく、神に栄光を帰すこと、国家の安全保障と、軍備増強、政治的手腕と権力に栄光を帰すのではなく、神に栄光を帰すことが大切なのであります。人間は、神に代わる全ての代用品に対して、そこに何らの神的な信頼も、信仰も持ってはならないことを今日の聖書は私たちに伝えているのであります。

 21世紀に入りますます混沌としてきた現代社会であります。新しい年を迎えて心新たな思いをもって、この年を歩みだそうとしております。どうか私たち一人ひとりが、真の神を見続け、真の信仰が養われていくものでありたいと願うものでございます。