8月9日の礼拝

主 日 礼 拝    午前10:3
奏楽
 
<神の招き> 
招 詞   ローマの信徒への手紙121  
*讃 詠   546
*罪の告白と赦し 交読詩編10216節~29
*讃美歌  
 
<神の言葉>
聖 書   創世記11節~5(旧約P.1)
     ルカによる福音書2413節~35
                         (新約P.160)
祈 り             河 郎                                                     
     
                                                                                                                                 
*讃美歌   88
 説   「夕闇の迫る時にも」     

                   (日本キリスト教会

                  東京中会引退教師 )

        <神への応答>

*讃美歌   39
*ニカイア信条
公 告
*献金感謝                     
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  544
*派遣と祝福
後 奏    
     
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。

7月5日の説教から 『わたしだ、恐れることはない』 ヨハネによる福音書6章16節~21節

                                  <75日の説教から>

             わたしだ、恐れることはない
              ヨハネによる福音書616節~21        
牧師 三輪地塩
 V.フランクル『夜と霧』の一節。「いつガス室に送られるか分からない、ギリギリの精神状態の中にあって、食欲や睡眠欲のような生物レベルの生きるための欲求以外、高次の欲求は全て消えていった。しかし「政治」と「宗教」への関心だけは失われることはなかった。とりわけ感動したことは、居住棟の片隅で、あるいは作業を終えて、ぐっしょりと水がしみ込んだぼろをまとって、くたびれ、おなかをすかせ、小声ながらも、・・締め切った家畜小屋の闇の中で体験する、ささやかな祈りや礼拝に(感動を覚えるの)であった」。そうフランクルは回顧している。また彼は、自分の命を繋いだもう一つのものが「愛する者の存在であった」と言い次のように語る。「愛する者(妻)が同じ収容所に「いる」という現存(Dasein(ダーザイン)[])、この愛する者がいるという現存の中にこそ、自分の生きる意味があり、その愛する者の微笑みを思い浮かべる時、人間の命の愛おしさを覚えたのであった。・・多くの思想家たちが、生涯の果てに辿り着いた真実。何人もの詩人たちが歌い上げた真実、(つまり愛)という真実が、生まれて初めて骨身にしみた。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだという真実。いま私は、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきことをしてきて、究極にして最高の事の意味を会得した。愛により、愛の中へと救われること。人はこの世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛するひとの面影に思いをこらすことこそが、究極的な至福の境地となるである」。
 つまり、究極的絶望の中、愛する者(妻)の存在が彼の命を繋いだのであった。一人の愛する者の「実存」「現存」「Dasein」が彼の心に生き、その面影と彼女の存在が共に彼の内に生きる時、命は保たれ、収容所を出るまで希望失うことなく、希望を持ち続けることが出来たのであった。
「愛する者の現存」という言葉の中に我々は「キリストの現存」を見出すものである。しかも我々が愛する、より以上に、「我々を愛して下さる方がいる」というDaseinが、我々の中にあるとき、我々は希望と共に生きることが出来るのである。その存在は我々に語る「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ620節)と。

 つまり、荒れ狂う湖上に現れたキリストの「わたしだ」(エゴーエイミ)という実存、現存、Daseinの中で、すなわち人間が如何ともしがたく抗う事の出来ない、無抵抗にも押し流される不幸や、痛みや、究極的な悪の中にさえも、神は現存し、私を愛する神がいるというDaseinの中で、私は「私の希望」を失うことなく、この命が神と共にある命として生き続けることが出来るのである。人間社会の暗闇の中で、人間関係の難しさの中で「我れ」と向き合う私の心の中、そしてアウシュビッツの中でさえも、主は我々かたわらに立たれる。それがキリストなのである。

 荒れ狂う湖上にキリストは立つ。それは私たちと共にキリストが立つ事のしるしであり、実存であり、キリストという現存の表れである。おそれを沈めるキリストは、恐れと共に生きて下さるキリストとなって、私たちと共に歩んで下さるのである。

『5つのパンと2匹の魚を持つ少年』 ヨハネによる福音書6章1節~15節

             628日の説教から>
          『5つのパンと2匹の魚を持つ少年
           ヨハネによる福音書61節~15
                                  牧師 三輪地塩
  あるミッション系の大学の教員が、朝礼拝の奨励の中で次のような話をしている。
1デナリオンは当時の1日分の労働賃金だと言われます。もしパンではなく1日分のアルバイト代を持っていたとしたらどんな風に話が続くのか考えてみました。弟子は言います。「ここに1日分のアルバイト代を持っている人がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」そこでイエスは言われた。「日本では普通、1食分の食費がいくらかかるか知っていますか。」弟子は答えた。「約400円です。」「では、アフリカのチャド共和国では1食分の食費はいくらですか。」「1円です。」「1日分のアルバイト代で何食分用意できますか。」「1日分のアルバイト代は8000円です。8000食分用意できます。」「そしたら、その8000円をチャドに送ってパンに換えなさい。そうすれば、5000人、それ以上の人がお腹いっぱいになるでしょう」。
 これは大変示唆に富んだ面白い読み方であろう。最貧国はアフリカのみならず、アジア・中央・南アメリカにいくつも存在する。日本は円安が続いているとはいえ、海外の貨幣に比べると今でも強力な貨幣価値を持っている。
 この教員は最後にこう語る。「私たち日本人は、聖書にあるような奇跡を起こすことも可能かもしれません。例えばアジアやアフリカの医療支援を行っている海外医療協力会などの団体に支援をするとか、使用済みの切手を送るとか、何でも出来るのです。私たちとしては、「こんなものが何になるか」と思われるような、捨ててしまいそうになるほどの小さなものが、大勢の人たちの幸せのために変化する、ということも起こります。」
 極端な解釈かもしれないが、「こんな小さなものが何の足しになるのか」というようなものを「差し出す」というこの少年の行いが5000人の命を繋ぎとめたという奇跡を現代的な祈りのもとで考える良い話である。
 一人の小さな者が「捧げる」ことによって大勢の人が救われるという奇跡。そこに十字架が立つのである。

7月26日の礼拝

主 日 礼 拝    午前10:3
    奏楽
<神の招き> 
招 詞  ヨシュア記15  
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編5112節~21
*讃美歌  (21)16【13
 
<神の言葉>
聖 書   イザヤ書5413節~14 (旧約.1151)
     ヨハネによる福音書641節~51
                         (新約P.176)
祈 り              子                  >                                                                                                                                                                           
*讃美歌  (21)411
   「つぶやき合うのはやめなさい」     
                
 
<神への応答>
*讃美歌  (21)432
*十 戒
公 告
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏    
 
 
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。