マタイによる福音書6章9節  『御名をあがめさせ給え』主の祈り(1) 2012年2月26日

 マタイによる福音書6章9節 『御名をあがめさせ給え』主の祈り(1)

 私たちの信仰の中心的営みの一つに「祈り」があります。ある神学者は「祈りは宗教の精神であり、また脈拍である」と言いました。宗教における最も奥深く、深遠なる本質こそが「祈り」によって表されると言っても良いでしょう。つまり祈りを知る事こそが、その宗教の本質を知る事に他ならないという事です。

 これは私たちキリスト教信仰においても同じです。しかし祈りには多くの危険と誘惑がある。それが偽りの祈りであると先週の箇所で主イエスは言われました。あなたは誰に対して祈るのか。人間を思い浮かべて人間のおもねって祈るのか。それとも真実の主に対して主に向かって祈るのか。それが最も重要だと言われていたわけです。
そこで主イエスは「だから、こう祈りなさい」と前置きして私たちに言われます。その真実な祈りとは次のようなものであると前置きして、私たちに「主の祈り」を教えられたのであります。「主の祈り」はギリシャ語にすると、たった57語から成る小さな祈りです。しかも日曜学校の小さな子どもたちでも出来る簡単な祈りです。しかしこの祈りこそが、主が「だから、こう祈りなさい」と言われるほどの、信仰の最も深淵な事柄を祈り、また最も身近な事柄を祈るものとして、私たちはこれをいつも口にするのであります。

 このように「主の祈り」は、私たちの財産と言って良いものでありますが、しかし私たちクリスチャンはこの祈りを、実はあまり理解していないのではないかと思うのです。毎週毎週、祈っている筈のこの祈りが、実は本来の意味が忘れられて、形式的にそらで暗唱する事が目的になってしまっているのではないかと思うのです。一語一句、噛み締めるというよりも、これを諳んじる事によって主の祈りを祈っている、そのように思うのです。宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト教の歴史における最大の殉教者は、『主の祈りである』」と、大変皮肉を込めて述べております。つまりキリスト教の歴史の中において主の祈りが、本来の祈られ方をされておらず、「抹殺された」という事を言っているわけです。つまり私たちクリスチャンこそが、主の祈り殉教させているわけです。そのような自己反省とルターの皮肉を受けつつ、この祈りの本当の意味を一つ一つ読み解いていきたいのであります。

 今日から5週にわたって、「主の祈り」について学びたいと思います。形式的に繰り返される祈りとしてではなく、心から搾り出される祈りとしてこれを祈る事が出来るならば、主の祈りの居場所を確保し、殉教の身から「主の祈り」を救い出す事が出来るのではないでしょうか。

 主の祈りの構造について少し説明します。簡単に言いますと、「前の三つ」の祈りが「後の三つ」の祈りを支えていると言えると思います。「天にまします~」から「地にもなさせたまえ」までが最初の3つの祈り、「我らの日曜の糧を~」から「悪より救い出だしたまえ」までが後の3つの祈りであります。

 前の三つは、御名、御国、御心の三つについての祈りです。この三つによって、私たちの全てが神に支配されるという事、神の主権によって私たちへの約束が果たされ、私たちの願うあらゆる類の願望と、希望が支えられる、という事です。

 従って、自分のために、日曜の糧、つまり毎日のパン一つを願い求める際も、神の御名、御国、御心を考えないでは、まことに相応しい態度をもって願う事が出来ない、という意味を持つわけであります。つまり主の祈りと言うのは、単に私たちの願望を羅列した祈りなのではなく、神が中心におられる事を前提としながら、極めて人間的なパン、赦し、試練に関する人間中心的な祈りでもあるわけです。主の祈りは、神中心であり、同時に人間中心の祈りであると言う事が出来るのであります。
 その中で今日は、「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせ給え」という、文言について深めていきたいと思うのです。


 祈りというのは、ちょうど手紙のやり取りと同じであります。手紙を書くとき最初に「誰々さんへ」と、宛先を明記いたします。宛先の名前がなく、突然手紙の本文から始まったとしたなら、この手紙が誰に読まれる為に書かれたのかが不明瞭です。祈りもこれと同じです。最初に宛先についてはっきりと述べる事が必要です。主の祈りではこれを「天にまします我らの父よ」と言っております。つまりこれは神に対して宛てられた祈りである、という事です。祈りとはそもそも神に対するものであり、人間に対するものではありません。そんな事を分かり切った事であると思うかもしれません。しかし私たちの祈る祈りとは、決してそうではない事を、先週の箇所から学びました。つまり神を神とする祈りではなく、人間からの評価を受ける為に行う祈り、すなわち人間を神とする祈りが偽りの祈りとして存在するのだ、と主イエスはおっしゃいます。ですから決して「そんな事、分かり切った事だ」と簡単に読み飛ばす事は出来ないのであります。もしこの大切な文言を読み飛ばす、もしくは意識なく諳んじるならば、神不在の人間に向けられた祈りとなる危険が迫る瞬間がそこにあるのかもしれません。だからこの最初の文言は大切です。
 
 しかしここで注目したいのは、「神」が「父」と言われている事です。この事はルカ福音書15章11節、「放蕩息子の譬え」に言い表されている意味での「父」であります。このルカの箇所は、一般に「放蕩息子の譬え」と呼ばれますが、しかし実は放蕩息子がテーマではありません。この話の主人公は、「放蕩息子の弟とそれに嫉妬する兄に対して、父が愛とは何であるのかを教える話」と言うのがテーマであります。言い換えるならば、天の父とはどのような方であるのかについて語られた譬えなのです。「父の家から離れていき、放蕩の限りを尽くし、飲み食いなど散財を重ね、一文無しになり、誰からも失われた者となった、その失われた者を「失われたままである事を欲し給わない方」。それが私たちの父である、という事なのです。

 もう一箇所、マタイ福音書20章1節以下、「ブドウ園の労働者の譬え」と言うのがあります。あるウ園の主人が、から晩にかけて数名の労働者を雇い、ブドウ園で働かせた。その労働者の勤務時間はまちまちであった。しかしその主人は12時間働いた者にも、1時間しか
働かなかった者にも、同じ1デナリオンの賃金を支払った。勿論多く働いた者たちから抗議を受けました。しかし主人は言います。「私の気前の良さを妬むのか」と。この主人が神であり、父である事は言うまでもありません。そのような気前の良さと、ご自分の誠実さと自由さに基づいて、全ての者を同じだけ慈しみ愛して下さる方。それが「父」であると聖書は言います。

つまり「主の祈り」で語りかける「父」とは、こういう方であると聖書は言うのです。「失われた者を、失われたままにされない方」。そして自分自身に誠実であり、全ての者に対しても誠実な方」であります。その父に対して私たちは、「天にまします我らの父よ」と呼びかけるのです。このように呼び掛ける時、私たちは、全ての権利と全ての支配を、この父なる神に明け渡すのであります。

 そしてこの父は私だけの父ではなく、「我らの父」として呼び掛けています。私たちは決して神を独占する事は出来ず、また独占できる方でもない、という事を意味します。そして同時に、「我ら」は同じ「父」を中心にした被造物であり、又、信仰共同体の一人である事を、公に告白する事も意図されています。アメリカ南北戦争の時に、北軍も南軍も、同じ神に勝利を祈った。そのような矛盾に対しても、神はご自分の義を行い賜う方なのです。誰も神を独占できない。我らの父とはそういう意味を含むのであります。

 そのように宛先を明確にした後、私たちは「願わくは御名をあがめさせ給え」と祈ります。「御名」と言うのは、単に観念としてではなく、実体そのものとしての神の名を指します。すなわち「御名」とは、「神御自身そのもの」という意味です。
 モーセが出エジプトの命令を神から受けたとき、神は御自分の名を「私はあってある者」と言いました。ヘブル語でハーヤーという言葉は英語のbe動詞と同じような意味ですが、ハーヤーは「ある」とか、「いる」というような存在を示す動詞です。そのハーヤーから派生して出来た名前が「ヤハウェ」つまり「私はあってある者」と、御自分をお示しになられた通りの名がそのまま「神の名」として認知されたのであります。

 十戒でも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められるように、神という存在は、私たちに簡単に呼び出され、私たちの都合によって如何様にでも出来るような存在では無い、という事を示します。

  「御名をあがめさせ給え」と言うのは「神の御名が聖とされますように」という意味です。「聖とされる」というのは、尊ばれるとか、敬われると言う事ではなく、「分離される事」を示します。つまり神と人間の絶対的な隔絶性、相容れる事の出来ない神という意味であります。イザヤ書6章でイザヤが預言者としての召命を受けたとき、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と告白いたしました。そしてイザヤは自らの口の汚れと、神の言葉の聖さのあまりの違いに、自らが預言者として相応しくないと思い尻込みする、という一場面が描かれております。「聖とされる」というのは、それほどの意味で神が罪ある私たちとは隔てられた存在である事を意味するのです。

 しかしそんな事は分かり切った事である筈です。何故主の祈りでは、「御名が聖とされますように」という分かりきった事を敢えて祈らなければならないのでしょうか。それは神の御名が「聖とされていない」現実があるからです。先ほど言及しましたマルティン・ルターは主の祈りの講解の中で、「この祈願ほど私たちの生活を打ちのめす教えは無い。なぜなら、私たちがこの祈りを祈るのは、私たちが神を絶えず冒涜し、聖としないで生きているからだ」と、このように言っております。
また、リュティというドイツの神学者は、この祈りについて次のように言います。

 「神の聖なる御名は受難の時を過ごしている。神の名は、ちょうど一個の貨幣(コイン)のように、人の指の間を巡り巡って、完全に使い古され、もう見分けがつかぬほど磨り減ってしまう。すりつぶされ、きたなくなり、ベトベトした貨幣を手にした後、手を洗いたくなる衝動を感じるに違いない。その貨幣は信仰者の間では、神の名に置き換える事ができる」。このように言っております。つまりリュティは、神の名はあまりにもみだりに唱えられすぎている、と危機感を募らせているのであります。

 私たちがもし主の祈りを形式的に、ただ何となく唱えているのだとするならば、それは完全に使い古された貨幣のように、御名をみだりに唱える事になるでしょう。ですから主の祈りは唱えるのではなく、唱和するのでもなく、主の祈りは祈られるべきものなのであります。

「御名をあがめさせ給え」という祈りは、私たちは本当に真実な方を真実な方としているのか、という懺悔と、悔い改めの祈りであるのです。この神の名が全世界にとっての真の聖なる名とされるために、私たちはその生活を通して、生きる様子を通して、自らの態度を通して、神の証人となる事が求められているのです。「御名をあがめさせ給え」。この祈りによって私たちは、神ではない者を神とする世に「否」と言い、唯一の神を聖とする事に「然り」と言いつつ、真の神を証しする者である宣言をするのです。主の祈りは、単に私たちの願望の祈りではなく、極めて明確に、私たちの歩みの道しるべとなる祈りであります。その事を思いつつ、これからも私たちの礼拝において、主の祈りが真の主の祈りとなるべく、祈り続けたいものでございます。 

 (浦和教会主日礼拝説教 2012年2月26日)
          

マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』  2012年2月5日

 マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』 2012年2月5日

 3.11以来、日本では国内外から莫大な金額の募金が集められいますがその中でも驚いたのは、ある篤志家である某企業の社長が100億円のポケットマネーを寄付したという報道でした。ポケットなどに入り切る筈もない莫大なマネーであります。これが発表されたのが4月初旬でありまして、その1月半後、まだ一円も入金されていない事が話題になり、メディアはこれを二つの見方で捉えました。

 一つ目は、株の売る時期を見計らっていると言うものです。この社長には6800億円の資産があると言われますが、勿論現金で持っているわけではなく、その大半が自社の株であるという事であります。その株を100億円分まとめて現金化しますと、株価が大暴落してしまい、この企業自体の存続に影響しかねない。それで少しずつ換金をしていくため、その時期を見ているのだ、という肯定的な見解であります。

 そしてもう一つの捉えられ方は、そもそも100億円など出す気はなく、一種の企業戦略であり売名行為に等しい、という批判的なものでありました。見せガネとして100億という莫大な数字を見せ世論を味方につけるという戦略であるというものです。そもそもこの社長さんは、東日本大震災をビジネスチャンスと捉えているのではないかという事も言われる事があるそうです。
 このような報道は、一部のメディアで言われている、いわば三面記事的な内容でありますし、その情報ソース自体がどこに由来するのか分からないものでありますから、今お話しした内容も話半分でお聞き下さればと思うわけです。しかし善意というものは、面白いもので、ある一つの善意が行われた時、それが善意であるのか、偽善であるのかという正反対の見方があり、どちらの内容にも真実味があるように思われます。彼が行なった莫大な募金が、完全な善意であるなら、後者の報道は全く事実無根であり、名誉棄損にもなりかねない見方でありましょう。しかしこれが、売名行為やビジネスへの足掛かりとして行われていたのなら、それこそ企業の存亡に関わる問題であろうと思います。私はこの事に対してどちらなのかという事は申し上げられませんし、この資産家である彼自身しか、本当のところが分からない、というのが事実であろうと思うのです。しかし人は、それをああでもない、こうでもないと言う。今ここでお話ししている事も、その類に属するのかもしれません。

 つまり何が言いたいのかと言いますと、人間は善意も悪意も、人に見られるという事によって受け止められ、それによって行われた行為は善意にも悪意(もしくは偽善)にもなるということです。言い換えるならば、善意の行動は、往々にして人に見られる事の中で評価され、批判される、という事であります。

 今日与えられた箇所は、この戒めが私たちには厳しい言葉であることを示します。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」このように厳しい言葉が示されます。そしてここで言われている善行とは、2節にあるように「施し」である、というのです。

 当時のユダヤでは、一般的に施しが行われていました。彼らの生活は、日常生活と信仰生活が分離されていない、一体化したものであり、信仰者としての行為として、神の憐れみを他人に分け与える具体的な行為として施しが行われていたのです。これは律法に基づいており、申命記15章11節にその事が示されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」このように律法で命じられる事によって、ユダヤ人たちは貧しい人々への施しを一般的な行為として行っていたのです。そう考えますと、当時のユダヤ人たちは大変立派であったと思います。今日の箇所が偽善的な行為の戒めなので、どうしてもユダヤ人たちの大半が自分の行為を誇っていたというイメージで読んでしまうのですが、しかしこれらの行為自体がもし偽善であったとしても、何もしないよりは随分立派な事ではないかと思うのです。アジアのある国で、5歳の男の子が車に轢かれて血を流しているのに、何十分もそのまま放置されて死亡した様子が、防犯カメラに全て写っていたという事件が起こりました。人通りの少なくない道で倒れている子どもを、我関せず、と素通りしていくという事が往々にして起こり得る世であります。このような現状が現代社会であるとするなら、主イエスの生きられたユダヤ人社会は、律法に根差した大変立派な心掛けであると思うのです。

 この立派な行いが当時も評価されていた事でありましょう。しかしこのような立派な行為は、得てして「人に見られる事を好む」と主イエスはおっしゃるのです。立派な行為の中には隠された誘惑があり、善意は偽善となる可能性を秘めていると言うのです。

 善意と悪意という事を考えてみます時、それが決定的に異なるのは、見られたいか否か、に尽きると思います。例えば、空き巣はそれを悪い事と知っているから人目に付かないように犯行を行います。悪い事をしていると自覚する者は、人に見られたくないと思い、隠れて行動します。世の中で起こる殆どの悪い事は、人に知られたくないと思われて行われているはずであります。

 しかしそれと正反対に行われるのは、「善意」です。良い事をしている、というのは見られても良い、否、見てもらいたいと思うものなのです。あの100億円の募金者も、究極的には、誰にも知られずに募金する事も出来たはずですが、しかしそれを公表する事によって、善意を公に知ってもらいたいという思いがどこにも無かった、とも言い切れません。勿論そうではない人もいるでしょう。誰にも知られないで良い事を行なう。多額の募金という事だけではなく、ひっそりと行われた慈善的行為、隠れてなされたみんなの益となる助け。それらは実はこの世で行われている筈なのです。しかしそんな事があったかどうか、誰も知りません。そのような慎み深い良い行為であるなら、それこそみんなに知られて欲しいと私たちは願います。しかしそんな事は起こり得る筈がありません。なぜなら誰にも気付かれずに行われるからです。

 ここに一つの矛
盾が生じます。「誰にも知られない」という事は、その知られなかったという事自体が評価されるべきなのですが、しかし「誰にも知られない」という事は、誰からも評価されない、という事になるのです。つまりここに今日の箇所の示す意味があります。それは「評価の問題」です。

 どうして人は、自分の良い行いを見てもらおうとするのでしょうか。口語訳聖書ではその事が明確に示されます。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」。「自分の義」それは自分自身の正義であり、自分自身の正しさであります。自分の正しさを人に見てもらいたい。そのような心の働きが起こるのであります。先ほどの悪い行為と表裏一体です。悪い行為は誰にも見られたくない、しかし良い行為はみんなに見てもらいたい。それが私たち人間の本質にあるのだと言うのです。

 今日の言葉の確信はここにあるのだと思います。つまり誰が評価するか。誰の下で行為するかが問われているのです。人に見られて人の評価の中で自分が善行を行う時、その評価の基準は人であり、人が自分を如何に見ているかが重要になってきます。人からの評価の高さがその行為の高さであり、その人自身の高さになっていく。人からの評価が低い場合、その行為がどんなに素晴らしかったとしても、そこには意味が無くなって来るのです。
 言い換えるならば、誰のための行為となるかという事です。人から評価を受ける事の中で自分を律していく者は、人を重んじ、人を敬い、人を尊重して生きていく。その行為自体は決して悪くありません。しかしそれは突き詰めていくならば、行為の内容そのものではなく、人がそれをどう見るか、人がこの行いをどう評価してくれるのか、という、他者の胸三寸で決まる「善意」となってしまうのです。それは「あなたにとって神とは誰か」という問いになります。人からの評判、人からの噂を神にするのか。それとも真の神を真の神とするのか。その事が問われているのです。

 人は、得てして、どんな評判でも流します。ある事ない事、作り話に至るまで、実しやかに流します。そして人は、その事に一喜一憂し、嘆き、落ち込むのです。立派な行為を、人知れず行っていたとしても、それは見えないので、行っていないのと同じなのです。だから人は、評価してもらおうと見せようとする。その事を言っているのであります。人の評価とは、適当なものであります。莫大なポケットマネーを募金したとしても、その評価は全く正反対になるのですから。

 だから誰がその行為を見ているのか。その事をいつも念頭に置きなさい、と聖書は言うのです。「評判」と言う神。「人の評価」という神ではなく、真の創造主なる、御子イエス・キリストの父なる神、その方こそが、あなたの行為を知っておられるという事であります。ディケンズの『クリスマスキャロル』の中で、主人公スクルージが回心したのも、自分の行為が主に見られているという恐れに気付かせられたからであると語られます。聖書の中にも、レプトン銅貨2枚を献げたやもめの行為が神に見られている事が語られ、ニネベに行く事から逃れようとした預言者ヨナの行為は神に見られていたことが語られ、カインとアベルの思いの違いを主は見ておられ、使徒言行録5章のアナニアとサフィラの夫婦が貧しい者たちへの施しをごまかした事を主に見破らその場で主の裁きを受けた事など、主が我々を見ておられると多くの箇所で語られているのです。
 誰が見ているのか。人を主人にしてはならない。主イエス・キリストの父なる神こそ真の主人とせねばならない、この事が言われているのであります。

 そして最後に、山上の説教全体を通してこの言葉を考えてみたいと思います。それは5章16節であります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」という言葉と、見せることなく善行に励めという言葉は矛盾するのではないか、という事であります。あちらでは立派な行いをしろと言い、こちらでは人に見せるなと言う。これは矛盾なのでしょうか。否、良く読んでみるとそうではない事が分かります。それは「あなた」と「あなた方」という2人称単数か、複数かの違いであります。つまり、あなた自身の善行は、独りよがりのものになりかねない危険を孕んでいるけれども、しかしそれが複数で行われる、共同体的行為である時、その責任はその共同体にあり、その責任の下で、その善行を吟味し、世にある共同体としてあり続ける意味を持つのであります。つまり言い換えるならば、そこにキリストをかしらとする教会の意味があるのです。2人もしくは3人いるところに私は居るのである、と主はおっしゃいました。それは複数の信仰の友らの交わりと祈りの中で行われる主イエスを中心とした行為こそが、その光を輝かしなさいと言われる行為であります。そこに教会形成の意味があり、そこに教会がこの世に存在する意味があるのです。

 今日は新任の長老と執事が任職式を迎えます。この浦和教会が、主によしとされた良い教会形成をし、良いしもべとして導かれる事を、主は望んでおられる。それはこれ見よがしに自分の善行を世に知らしめる行いではなく、慎み深く、人を慈しみ、隣人を愛する中で行われる行為であり、見えない行為を見ておられる神の名を崇める事になるのです。
私たちの行いが、主によって良い者とされますように祈る者であります。

 
(浦和教会 2012年2月5日 主日礼拝説教)

3月4日

  2012年3月4日(日)の礼拝

◇日 時:3月4日(日)

◇説 教:「天と地に生きる」(主の祈りⅡ)

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイ福音書6章10節

2月26日

  2012年2月26日(日)の礼拝

◇日 時:2月26日(日)

◇説 教:「御名をあがめさせ給え」(主の祈りⅠ)

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイ福音書6章9節

2月26日~3月3日

2月26日~3月3日の集会

◇聖書の学びと祈り      2月29日(水) 午後 7:30
  イザヤ書6章

◇聖書の学びと祈り      3月1日(木) 午前 10:00
  出エジプト記24章