4月29日~5月5日

4月29日~5月5日の集会

◇聖書の学びと祈り        5月2日(水) 午後  7:30
  箴言25章26節

◇聖書の学びと祈り         5月3日(木) 午前 10:00
  出エジプト記32章15節~34節

5月6日

  2012年5月6日(日)の礼拝

◇日 時:5月6日(日)午前10:30~

◇説 教:「神なのか、富なのか」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイによる福音書6章24節

マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (後半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

≪前半からの続き≫
 しかしこのような人間の思いは主イエスの時代にまで続いて行きます。主イエスの時代、ファリサイ派などの律法の専門家たちが、民の信仰の中心となって指導しておりました。私たちは聖書を読んでいると、どうしてもファリサイ派を悪者として理解しがちであります。確かにイエス様がファリサイ派たちの事を「偽善者」と呼んでおりますから、そこからイマジネーションされるのであろうと思います。しかしそれには様々な歴史的事情があります。セレウコス帝国と呼ばれる国によって支配されていたユダヤ人たちは、律法を厳格に守る事を信仰上の重要な要素として再確認したそのような時代がありました。その中で律法に関して厳しく、忠実に、信仰的行いとして、これを守る事が大事にされてきたのです。それが紀元前160年頃以降の話ですから、イエス様の時代のファリサイ派たちは、そのような時代の要請から、律法をしっかりと解釈し、厳しく取り扱っていたわけです。ですからファリサイ派を悪者とか偽善者というステレオタイプに区切ってしまうのではなく、時代の産物であると考えてよいのではないでしょうか。そして彼らが当初厳格に信仰的行いとして律法を守っていたのに、あのような偽善者的な行為を行うように堕落していった様を知る私たちは、ファリサイ派を馬鹿にすることは決して出来ないのであります。つまり最初は純粋で、高尚な行為であっても、それは偽善的になる要素を「私たち人間が」持っているからであります。つまり私たちには、ファリサイ派的要素がある、という自覚を持たねばならないのではないでしょうか。

 私たちは人に見せ、評価される事によって、それが励みになったり、やる気が増したりも致します。それが私たちのモティベーションとなるわけです。しかし殊、信仰に関して言うならば、それは信仰を立ちもし倒れもする、あなたの信仰それ自体を決定的に価値付ける要素となってしまうのが、「他人からの評価である」と主イエスは言います。つまり信仰が、他者に信仰深さを見せることや、他者からの評価を得るための偽善的なものとなってしまったら、それは既に信仰ではないと主イエスはおっしゃるのです。音楽作品や小説などの文学、テレビドラマや、サービス業、役者や、演奏者、お笑い芸人などに至るまで、他者からの評価によって価値付けられる物は多くあります。視聴率や、発行部数、批評家からの評価などが、それらの力となります。しかし信仰はそうではないのです。あなたの信仰は素晴らしい、と言われる事が第一義的な目的になったとき、その信仰は最も核心的な部分を取り去られたのと同じことになるのです。

 これまで2か月に亘って主の祈りを詳しく見て来ましたから忘れがちなのですが、マタイ福音書6章1節~18節は、一つのまとまりを持って、一つのテーマを持っています。真の施し、真の祈り、そして真の断食、という真実の信仰の3つの要素について語られてきました。真の施しとは何か。人にこれ見よがしに見せて善行をしたフリをするな。人前で恭しく信仰深そうに祈るフリをするな。そして、さも悔い改めたようなフリをして、信仰深そうにするな、という、どれもこれも、大変厳しい言葉であります。しかしこの6章を通して主イエスは、表面的な行いに沈んで行きがちな私たちを支え、励まそうとしているのであります。

 聖書の中にはレプトン銅貨をたった2枚捧げた貧しい女性の献げ物こそが、真の献げ物であると主イエスは言うのです。それは貧しさの象徴であり、それ以上を献げる人がずらずらと立ち並ぶ中で、本当に哀れで、失笑を買いそうな献げ物であったかもしれません。しかし彼女は周囲の目による評価によってではなく、自らの信仰を通して、あの小さな物、たった2枚を献げたのであります。これを主イエスは目に留めて下さったのです。

 また、ナルドの香油を注いだ女性の話も同じであります。非常に高価なナルドの壺を惜しげもなく叩き割って全ての香油を主イエスに注いだあの女性は、人に見せようとしたために行った行為ではありませんでした。むしろあの場面では、評価されるどころか、イエスの弟子たちからの痛烈な批判を浴びているのです。しかし女性は一切語らず、自らの思った通りの信仰の表し方をしたのであります。それは十字架の葬りの準備でありました。もし彼女が名声を得たかったのならば、それを換金し高額な金額として献げ物にしたでしょう。そして主イエスと弟子たち皆からの評価を得るために大判振る舞いしただろうと思います。しかし彼女はそれを惜しげもなく、主イエスの為に使い切ったのです。そこには、十字架と葬りの為の準備、偽善によってではなく、真の信仰からの思いがそうさせたのです。だからこそ聖書は、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)と言われているのです。

 預言者イザヤは、真の行い、真の断食とはこれである、と言って、次のように語ります。
 (イザヤ書58章3節-10節)
58:3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。58:4 見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。58:9 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、58:10 飢えている人に心を配り、苦し
められている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。


 真の断食とは、自分が苦しい思いをするだけではなく、飢えた人にパンを与える事だ、とイザヤは言います。本当に断食したいなら、つまり本当に信仰者として生きるなら、自分自分と、自らを主張する事を止め、他者に施し、他者を生かし、他者を愛して生きる事。それが主の示される信仰者の生き方であるのです。

 何よりも主イエスは、多くの律法学者たちからは猛烈な批判を浴びましたが、人を生かしました。特に蔑まれた者、生きる気力を無くした者、生きる価値がないと言われた者、粗末に扱われた者、呪われていると言われた者、そのような者たちの苦しさと共に生き、その痛みを共に痛んだのであります。それは十字架の痛みによって示されます。主イエスの痛みによって私たちには、恵みが与えられた。主イエスの断食とは十字架の事であり、真の断食とは、人を生かす、つまり私たちを生かすための痛みの断食であったのです。その十字架の光に照らされる我々は、どのように生き得ましょうか。イザヤは58章10節で言いました。58:10 飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 それは、人の為の施しではなく、私たちを包む闇を晴らす光となるというのです。私たちの信仰が曇る事があるとするなら、他者を忘れ、自らの光に没頭する時である。聖書はそのように語るのです。
 復活節の第3週目のこの時、私たちの信仰がキリストの十字架と復活の光に照らされるものでありたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月22日)

マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (前半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

 一昨日の金曜日、宮城県の東松島市に行ってまいりました。これは中会連合婦人会の働きの一環として、東松島市の仮設住宅の方々への支援をしようと取り組み始めた事によります。私は今回が初めてだったわけですが、高速道を降りてすぐの工業団地内に小さな仮設住宅の集落がありまして、ここに8世帯の方々がお住まいになっております。

 仮設というぐらいですから仮に設置された住宅でありまして、この住宅は様々な問題を持っておりまして。印象的だったのは、この住宅の構造が、阪神淡路大震災の時と同じような構造で建築されている為、温暖な気候が前提にされている造りになっている事でした。薄い壁と一重の窓からは、冷気が入り込み、冬場は大変に寒かったそうです。途中から作り変えて二重窓と断熱材を入れたとはいうものの、完全な寒冷地仕様ではありませんから、はやり問題も多い。特に壁一面が結露して水滴がびっしりとついてしまい、寝ていると天井からぽたぽたと水滴が落ちてきて、顔がびしょびしょになるという話はその大変さを語るお話でした。壁が薄いため、隣の声が丸聞こえであるという事や。一人暮らしの方の場合、4畳一間に住むことを余儀なくされる事など。本当にご苦労なされていると感じました。奥尻島の津波の時は義捐金の金額に対して、被災者の世帯が少なかったため、全て新築で新しい家が賄われたそうです。しかし今回は何万人という人が被害を受けている為、今の義捐金では、人世帯数百万が配られただけで、流された家は帰ってこないという事でありました。

 このような現状に対して、県庁、政府筋の人たちの対応が遅い、という事が問題点として挙げられていましたが、驚いたことに、岩手県では県知事が仮設住宅に1週間住んだという事でありました。宮城県知事はやらなかったようですが、岩手県知事は、この仮設住宅に住んだ場合、どのような問題があるのかを肌で感じてみよう、という事を考えてそのように行ったのであろうと思います。それは大変あっぱれな事であるなと思います。造りっぱなしではなく、そこには生活が続くわけですから、自分の体で感じてみよう、というのは、住民にとっては良くやった、という思いはあるかと思います。

 しかし裏を返せば、1週間という期限が付きますから、ゴールがあるわけです。この一週間何とか耐え凌げば、元の生活に戻る事出来るのです。その間だけ、目に見えて分かる機関だけ我慢すれば良いのです。ですから、本当の意味でそこの住民と同じになる事はできません。むしろキャンプ感覚で、少し不便な経験をすることで、むしろ周囲から「よくやった」という言葉をもらえるという、政治家としての株を挙げ、「支持率」という十分な報酬を頂けるよいパフォーマンスともなり得ると思うわけです。大変穿った、ひねくれた考え方だと仰るかもしれません。この知事にそのような意図が微塵もないのでしたら、大変申し訳ない事を言っているのかもしれません。しかし期間限定の苦しみというのは、そういうものだと思うのです。事柄が本質から離れ、周囲からの評価の問題にすり替わってしまう。あの人は良く頑張っているのね。良く耐え忍んでいるのね、という言葉が自らの行為の意義そのものになってしまうのです。

 何が言いたいがお分かりかと思います。今日の箇所で与えられましたのは、断食の話です。本当の意味での断食とは何か、その事を主イエスは問うておられます。断食という信仰的行為が、その純粋性を失い、その事によって本当に表そうとした断食の意味ではなく、見苦し顔をしてあたかも私は信仰深いのですよ、という事を周囲にアピールする事が第一義的な目的になるのだとするのならば、その断食の意味とは何なのか。本当に断食をしようと、信仰心からするならば、顔をきれいに洗って、人に見えないような仕方でそれを行いなさい、という趣旨であります。

 断食という行為は、そもそも「あるもの」を、「無い物」としてそのように生活することでありましょう。元々目の前にある食料を「あたかもない物」として生活する事が断食であります。断食とは飢えて苦しんでいるから食べられないのではなく、あるけど食べない行為の事を言うのです。それによって悲しみや苦しみを信仰的に共有するという目的として行うのであります。

 そもそも断食とは、聖書の古い記述の中に見られます。モーセ五書であるレビ記16章に既に登場し、使徒言行録27章の時代まで、これが行われた事を示します。これはイスラエル共同体が悔い改めを告白し、神の助けを願うために行われて来たものであります。又信仰行事として国の記念日に行ったり、バビロン捕囚期には年4回これを行い、エルサレム陥落と神殿崩壊の悲しみを覚えて行っていたものであります。またサムエル記では共同体ではなく個人的にこれが行われていた事が示されますし、ある預言者は病の癒しを願って断食したというように祈願として行っていた事も記されております。

 このように断食という習慣は、信仰的なものとして定着しておりました。ですから悔い改めの断食、悲しみを表す断食、記念の断食、神への祈りとしての断食など、これが全て神に対して行う行為として守られてきた事が分かります。

 しかしその目的が人に見せる事に変質した時、それは信仰的な行いから、偽善的な行いへと変化していくのです。信仰的な行いが、形骸化し空洞化した時、その行いは真実な行いから離れ、偽善へと変わっていきます。その事も又、聖書で何度も語られています。

例えばエレミヤ書14章12節 「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」

ゼカリヤ書7章5節-6節 「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」

 神はこのような痛烈な批判をイスラエルの歴史のあらゆる箇所で浴び
せてきたわけであります。

≪後半に続く≫

4月22日~28日

4月22日~4月28日の集会

◇旧浦和市教職者会打合せ  4月23日(月) 午後 1:30

◇大戸集会(志賀宅)       4月25日(水) 午後  1:30

◇聖書の学びと祈り        4月25日(水) 午後  7:30
  ヤコブ書2章1節~13節

◇聖書の学びと祈り         4月26日(木) 午前 10:00
  出エジプト記32章

4月29日

  2012年4月29日(日)の礼拝

◇日 時:4月29日(日)午前10:30~

◇説 教:「天に富を積みなさい」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイによる福音書6章19節~23節