日曜学校夏期学校

 日曜学校夏期学校 8月2~3日 ネーブルパーク(茨城県古河市)
   題「信仰に生きたヨセフさん」
   参加者 こども8名、おとな14名の予定
 

世界の教会を覚える日

8月1日は「世界の教会を覚える日」です。
  今年はキリバス共和国の教会を覚えます。
  地球温暖化による海面上昇で国土の半分以上が50年後に
  水没の危機にあると言われています。
  そこはかつての日本帝国が占領した所でもあります。
  改革教会世界共同体に属するこの国のために、祈りを合わせましょう。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記13章1節-18節

創世記13章1節-18節  2010年7月29日
 エジプトでの出来事を経てアブラハム一向は、カナンに向って帰る事になりました。2節に「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とありますが、これは恐らくエジプトで与えられえた財産の事を言っていると思われます。決して喜ばしい形で得た財産ではないにせよ、飢饉の中を生き延び、その後の生活を支えるに十分な必要な物を手にした彼らは、結果的に裕福な豪族の一人としてカナンに戻ることとなったわけです。
 ネゲブ地方からベテル、ベテルとアイ、という地名は、彼らが12章で辿った道筋を逆から辿っていることになります。彼らはもう一度この約束の地での生活に戻ることが示されているのでしょう。
 甥のロトもアブラハムたちと共に行動を共にしていたので恐らくは財産の分与を受け、かなりの物を持っていたと思われます。当時の財産というのは、ご承知の通り、家畜の数によって表されます。金や銀というのも確かに財産なのですけれども、定住しない遊牧民族は商品の取引によって生計を立てているわけではありませんから、実質的に自分の生命維持に繋がるものとして家畜が財産とされたのです。日本において牧畜というのは、ご存知の通り、近代酪農業のシステムですから、狭い牛舎や豚舎に囲って、食料を整えて毎日世話を欠かさずして育てていく、という形態をとっております。つまり広さが必要ではなく、ある一部分の土地があればそれで十分なわけです。しかし当時は放牧によって飼育する方法がとられていましたから、家畜の食料としての草が生えているだだっ広い草原が必要になってきます。家畜の頭数が増えれば増えるほどその面積の必要になりますから、誰が越えた土地を使うか、草の生い茂った場所を確保するか、という諍いが起こったことは容易に想像できます。また、水の確保という問題もあります。カナンの荒れ野においては井戸水が主流でありますが、これも日本の井戸と違い、いつも水が湧き出るわけではありません。一旦汲み上げると、水が枯れてまた溜まるまでに一昼夜、時には1週間近く待たねばならないといった井戸ですから、誰が先に汲むかは大問題で、これもまた争奪戦になるということです。
 これがアブラハムとロトとの諍いの原因でありました。人間は財産を得る為に一生懸命に働き裕福に生きることを目標にするのでしょうけれども、しかし「財産が多すぎたから、一緒に住むことが出来なかった」という6節の言葉は、人間の罪がもたらす皮肉を言い表しているものと言えるでしょう。
 アブラハムとロトが問題を回避しても、雇用人たちが争いを起こし、問題となったため8節でアブラハムは言います。「私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか」。このような提案をし、彼らは別れて生きることを選択したのです。
 バベルの塔での物語りでは、一緒に生きる事によって罪を犯すことがあれば、主は別々に生きる選択をお与えになるということがありました。それは別々という一見ネガティブな選択でありながら、ここに神の恵みがある、ということです。使徒言行録15章では使徒会議が行なわれたことが書かれていますが、ここにはアンテオケ教会のパウロと、エルサレム教会の主の兄弟ヤコブが別々の宣教の歩みを行なうことに合意したことが記されています。このように別れて生きることが主の御心であることがありますが、この時のアブラハムたちも恐らく諍いを起こすことはお互いにとって得策ではないと見て、踏み切った計画であっただろうと思います。
 しかし問題は誰がどこに行くか、という問題です。普通ならばアブラハムは年長者ですし、ロトがこれだけの財を成したのも彼のおかげなわけですから、アブラハムに選択権が合ってよいはずです。しかしアブラハムは、お前が好きな土地を選びなさい、私たちは逆の方へ行こう、と言ったのです。
 小泉達人氏はこの箇所に関して次のように言っています。「現在私たちは若者の事をドライだとか新人類だとか言って珍しがりますが、若者がドライであることはアブラハムの昔からだ、と聖書は語ります。ロトが私の今日あるのは伯父さんのおかげです。伯父さんがまずお好きな土地をお選び下さい、といえば美しい物語となり、その人柄が偲ばれることとなったでしょうが、ロトはそう言いませんでした。ヨルダンの低地、その青々と草が茂った土地をためらいもなく選び取って、さっさと移って行きました。」(小泉達人著「創世記講解説教」新教出版 88頁)
 結果的にこれがソドムとゴモラの滅亡の出来事の布石となっていくのですが、ここで注目すべきことは、ロトの選択とアブラハムの選択の決定的な違い、ということでありましょう。10節にあるように、ヨルダン川流域の低地一帯は、「主の園のように~見渡す限り良く潤っていた」ということです。これが人間的な判断の結果であるというのです。低地ということは、ほどよく川が氾濫し、上流からの良い土が運ばれて肥えた土地となったことが予想されます。そのように目に見えて素晴らしい場所は私たち人間の目には、本当に良く映ります。しかし結果的にそこは目に見えない審きの場所、罪の場所であったというのです。つまりその判断は空虚なものであった、という事が出来ると思います。ロトの判断の中に、主は居られたのでしょうか。ロトは恐らく神なしでこれを選択し、神の判断を考慮せずに自分の判断で土地を選んだということなのではないでしょうか。
 ではアブラハムはどうだったのでしょうか。ここで彼は選んでいません。残った物をただ受け取っているだけであります。ここに広がるのは単なる荒地であったかもしれません。ヨルダン川流域の肥えた土地は、食物も豊富で、草木も生い茂る最高の場所です。しかしその後ろを眺めてみると、ゴツゴツした石に囲まれた小高い岩場が広がります。これのどちらが幸福な人生を歩むことが出来るのか、というのは、人間の目から明らかであります。つまりロトの方が有利で、ロトの方が祝福されている、それが私たちの目に明らかな幸福の姿でありましょう。
 しかし14節で主は言われます。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。この「さあ、目を上げて」という言葉に注目したいのです。炉とは最
初から目を上げて昂然と将来を見渡したのに比べて、アブラハムは「目を上げよ」と言われるまで上げることが出来なかったのです。彼がこの時何を考え、どのような将来を見据えていたのかは分かりません。老年期に差し掛かっていたことを鑑みて、自分の将来よりも若いロトのことを思って最初に選ばせたのかもしれません。しかし結果として与えられた場所はあまりにも不毛な大地で、ここに夢や希望があふれ出る、と言った場所ではなかったのです。そのため彼は目を上げることが出来なかったのではないかと思うのです。
 しかし「ここから見渡せ」と主は言われます。7節に「カナン人もペリジ人も住んでいた」とあるように、敵対する者たちが住む、この不毛な山地でどう過ごせばよいのか、その事に悩んでいる姿が想像できます。敵に囲まれ細々と暮らすことを覚悟しているアブラハム。自分の将来の繁栄ではなく、むしろ少しずつ衰退していくであろうとことを予測し、覚悟を持って目を伏せているアブラハムがここにいたのではないかと思います。
 しかし主は「目を上げて」と言うのです。「見える限りの土地を全て私は永久にあなたと私の子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。」このような約束をなさるのです。子孫が増えることは、当時の価値観で最も祝福を受けることを意味します。それがアブラハムに与えられた約束の言葉であったわけです。あなたは目を上げて、立って歩きなさい。地にかがみこんではならない。下を見て思いにふけるのではなく、小さくなってもいけない。その与えられた地を縦横無尽に行き巡れ。主の約束が確かであることを、目で見て承知するだけでなく、その足で踏んで確認せよ。このように主は仰るのです。
 しかしこの話しがいう事は、結果的にアブラハムには「残り物には福があった」ということではありません。そうではなく、「アブラハムは選んでいないが、しかし神がアブラハムを選んでいる」ということなのです。「ロトは人間の思いから選び、アブラハムは神の思いから選ばれている」ということです。
 言い換えるならば、アブラハムはこの時、選びの確信を得ることが出来たのであります。つまり目に見える自分の状況や環境によって一喜一憂する人生ではなく、神さまが与え給うた土地は、如何なるものであっても私にとってそれは最善のものである、という確信に導かれたのであります。与えれらたものは、苦しさと困難さであったかもしれない。目の前に広がるのは不毛な大地であるかもしれなし。決して乳と蜜は流れ出ず、草木一本すらままならない状況であるかも知れない。しかし目を上げよ。あなたの前には私の約束がある。このことを聖書は語るのです。
 
 アブラハムの信仰は、私たちの信仰のモデルです。私たちは祈りの中で、良い土地が与えられることを願うわけですが、しかし神への信仰がもたらす最も大きな力は、良い土地が与えられることではなく、不毛の土地でさえも、それが神の与え給うた約束の土地であると信じ、確信を持って生きる力に変えられる、ということであります。
 渡辺信夫は次のように言います。「神は今日も私たちに言っておられます。目を上げよ。あなたの貧しく醜い現実、あなたがたの教会の狭さ。小ささ、不毛、無力・・。それが全てではないのだ。いや、それらに目を落とすな。目を上げよ。キリストにおいてあなたに約束されているいっさいの恵みを見よ。あなたがたの希望の視野の広がりは永久にあなたがたへの恵みなのだと。私たちは、私たちのいるところからしか眺めることが出来ないのです。なぜなら私たちの現実は、そうやすやすと変えられるものではないからです。私たちは、依然として罪に取り巻かれています。私たちは今なお深く病んでいます。けれどもこのままでも、私たちは目を上げて、恩寵の大きさをあるがままに見渡すことが出来るのです。キリストの義、キリストの聖、キリストの主権、キリストの栄光は、私たちの目の前に、私たちの受け入れられるように、差し出されています。私たちは自らの敗北の現実に目を注がず、キリストの勝利の現実に目を注がねばなりません。」(渡辺信夫著「アブラハムの神」新教出版61頁)
 私たちは、主の選びに対して常に確信をもって歩むことが出来るようにと祈り求めたいものであります。

7月26日~31日の集会

◇聖書の学びと祈りの会 7月28日(水)19時30分~
            奨励:関口安義 長老 
            聖書:箴言2章1節~3章12節

◇聖書の学びと祈りの会 7月29日(木)10時00分~
            奨励:三輪地塩 牧師
            聖書:創世記13章

◇結婚準備会      7月31日(土)14時00分~


※防災設備点検     7月26日(月)9時30分~

8月1日の礼拝

 
◇説教題:「神に逆らうことなく」

◇聖 書:(旧約)ナホム書1章1節~4節
     (新約)使徒言行録5章33節~42節

◇説 教:三輪地塩 牧師

※[聖餐式執行]

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記12章10節~20節

創世記12章10節-20節 2010年7月22日
 信仰の父と呼ばれるアブラハム(この当時はまだアブラム)ですが、この箇所では大変な試練のときをを迎えています。10節に「その地方に飢饉があった」とあるように、約束の地カナンは、何もかもが満たされた裕福な場所なのではなく、飢饉が起こり人が生きる事をも妨げられる土地でもあることが示されています。
 この時アブラハムは本当の意味で信仰の試練を受けていたのです。彼らがウルを出てハランを経由し、カナンに向かって行ったあの旅路を考えるとき、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブル書11章1節で言われているあの従い方こそが信仰の本質であるように思えてしまうのですが、しかしこの時のアブラハムこそが本来の意味で信仰の問題が本格化していたと言えるのではないでしょうか。
 創世記は、彼はが信仰を傾けて熱心に神に呼ばわっても、飢饉を乗り切ることができないという現実に直面させられる状況を描きます。このような非情な現実の前では、優しさとか、人情とかは全く意味を持たず、私たちは現実の中に生きることに身も心もすり減らすのであります。このような非常な現実に直面したアブラハムは何と惨めな存在でありましょうか。このとき彼は信仰の父ではなく、弱々しく頼りない惨めな一人の信仰者でしかなかったのです。
 アブラハムの事情は複雑でした。彼はカナンという約束の地を示されましたけれども(12章1-4節)、「この地を与える」という主の御言葉にすがってここに踏みとどまるならば、飢えて死ぬしかありませんでした。創世記12章2節以下の「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」という祝福の約束が吹き飛んでしまうかのように、彼の現実はあまりにも苛酷であったのです。アブラハムにとってこの飢饉は試練ではなく、信仰の躓きであったことでしょう。神の言葉と現実、神の祝福と実際の飢饉、この狭間に立たされた彼は、信仰を揺さぶられる中を生きていたのであろうと思います。
 この飢饉を乗り切るために彼はエジプトに下ることを余儀なくされます。エジプトというのは、ご承知の通り、ナイル川の肥沃なデルタ地帯にあり農業が発達していました。周辺諸国のような砂漠ではなく、定期的に静かに氾濫するナイル川は多くの恵みをもたらしました。ですからエジプトには殆ど飢饉がなく、いつも豊かな収穫に恵まれていました。ですから周辺の人々は飢饉になるとエジプトに流れ込み、食料にありついて命を保ってきたと言います。アブラハムも同様に、エジプトに流れ込んできたのであります。
 
 さて私たちが今日の箇所でもっとも腑に落ちず、嫌悪感と共に読む箇所は、続き11節から13節の言葉ではないかと思います。このアブラハムの言葉の中に、彼の人間としての浅ましさと強かさ、そして自分の命を救いたいと思う利己的な思いが看取されます。そして私たちはこのアブラハムの行いに絶句し、「妻を売るとは何ごとか」「妻を出しにして利益を得るとは何ごとか」と憤慨してしまうのであります。
 
 しかしアブラハムの立場になって考えてみると、彼の命はこのとき危険に晒されたのです。美しい人妻を見ると、その夫を殺して妻を自分のものにするということは、当時の権力者がしげく行なった罪であり、あのダビデ王でさえも同じようにウリヤの妻を自分のものにしている通りです。ですからその命の危険から免れるためにこのように嘘を言ってくれといったのであろうと思います。それが12節に記された言葉の意味であります。
 しかし同時に彼は「あなたのゆえに幸いになり」と言われておりますから、サラが召し入れられ宮廷から多くのご褒美を受け取ることが前提となってこのように嘘を言わせたと考えることも出来るわけです。
 そして妻のサラはファラオに召し入れられます。彼女は絶世の美女であったようですから、その美しさゆえにファラオの家臣の目にとまり早速宮廷に召し抱えられるのです。サラの待遇は恐らく側室であったでしょうから、労働による賃金や、身売りによって得る金銭とは全く違う、破格の財産を手にすることになります。実際アブラハムは16節で「彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」とあるように、多くの財産をサラの対価として受け取ることになったのです。
 ここまでの筋書きをアブラハムが仕組んだものであるのかどうかは分かりませんけれども、少なくとも彼は、自分自身を救うためにサラを危険に晒し、そのことを厭わなかったという事だけは確かであろうと思います。ではこの事実を私たちは、信仰の父としてのアブラハムから何を読み取ればよいのか。このことが問題になってまいります。
 
 しかし良くこの箇所を読んでみますとき、本当にアブラハムがそこまで強か(したたか)に、サラの美貌を釣り餌にして宮廷から財産を受け取ろうとしていたのでしょうか。彼は嘘をつき、サラを自分の妹であるとしたことは確かです。命ごいのために嘘をついたという事実は確かなのです。
 彼は、妻サラが召し入れられるというところまでは想定していたのかどうかは分かりません。むしろ彼の中でそれは想定外のハプニングであったのかも知れないのです。そこまで浅ましく考えておらず、単に命を奪われないようにということで夫婦間で申し合わせをしていただけかもしれません。しかし自体は急変し、サラは召し入れられてしまいます。「『妹です』と言ったのは嘘でした」などというと、間違いなく処罰されると思い、取り返しのつかない事態となったことに彼は悶々とした日を過ごしていたのかもしれません。サラが召し入れられてから解放されるまでが何日ほどであったのか分かりません。それは推測の域を超えないのですが、数日・数週間ではないだろうと思います。もしかすると飢饉がなくなるまでとすれば、数年間ここに滞在していたとも考えられます。その間アブラハムの気持ちを考えると、逆にいたたまれない思いになってしまいます。自分は町にいて、それまで連れ添っていたサラが宮廷の中でファラオの妻、側室となっている。確かにあの時は大飢饉が襲い、何でも良いからどんな手を使ってでも良いから食糧を得ようと思っていた。そして首尾よくそれが適った。しかも妻のサラは宮廷に入り込み、多くの
財産分与を得ている。生活としては何も不自由もないし、あの時自分が望んでいたことに近いのかもしれない。しかし、しかしそれは取り返しのつかない事態であったと。
 妻の身代金を受けることによって一家が存続することのみを考えていた彼は、しかし自分のはらわたの断ち切られるような思いを払拭することのできない数ヶ月もしくは数年間を過ごしてしまったのでありましょう。あの時はそうだった。あの時はそう生きる事が自分のためであると信じていた。しかしそれは過ちであった。取り返しのつかない過ちに身を投じてしまった。このようにアブラハムが悶々と苦しみ、耐え難い痛みを負っていたとするならば、これは私たちにも身に覚えのある苦しみなのではないでしょうか。あの時はそうだった。だから人を欺いた。その欺きと嘘によって起こした今がある。それはかき消すことは出来ない。このことは私たちが信仰者として生きることにおいて度々起こることであります。
 しかしそのような状況の中で、「ところが主は」(17節)彼らを救い出すのです。過ちに身を投じた彼を救うのです。恐らく疫病が流行したのでしょう。どういう経緯でなのか分かりませんがその疫病がサラの事であると判明した。ファラオは人の妻を娶ってしまったという罪が疫病の原因であると悟り、サラを解放したというのです。
 アブラハムは、自分の生き延びることだけをはかって妻を切り離しました。しかしその事は彼を後悔しつくしてもし尽くせないほどの痛みに変えました。彼はその不運を自分の責めとし、諦めようとしていたのではないかと思うのです。もうこうなってしまった以上、どうすることも出来ない。これが彼の中にあった諦めの思いであったと思うのです。しかし神は「ところが主は、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気に罹らせた」。これが主の解決でありました。「人間の弱さと利己心のために犯した罪」「心の邪悪さのためにしでかした事件」「自ら収束させるには絶望的に無力である事態」でありました。しかし神はこの絶望的状況に終止符を打つように「神が立ち上がり、神が乗り出してこられた」のです。
 この箇所は夫婦の生き方あり方を示す教訓物語ではありません。また神さまは最後にはハッピーエンドをもたらして下さる、という甘く単純な期待を神に掛けてよいというお話でもありません。アブラハムの試練は自らの無力と虚無の最たるものであったことでしょう。サラの試練もそれを上回るものがあったかもしれません。しかし私たちは自分自分と、自分の心の内、自分たちの状況の中に目を留め続けることの中にではなく、一筋に神に向き直って生きることの中に、信仰の歩みが備わっているということなのであります。「結果的に神さまのなさることは良かった」ということがメッセージなのではありません。莫大な財産を得て妻と一緒にエジプトを出ることにはなりましたけれども、妻は一度ファラオの妻になってしまったこととそのわだかまりは、それが本当に神の恵みと言えるのか、と思ってしまいますが、人間がどう思ったとしても、人間の目にはどう映ろうとも、それが神さまの示した結論なのだ。それが神さまの与えられた人生なのだ、という事を、私たちは信仰によって受け入れていく、それこそが信仰者に与えられた人生なのではないかと思うのであります。苦しみがなくなることが人生の喜びではなく、苦しみをどう受け入れられていくかが、神に与えられた人生の恵みなのであります。
 
 そしてこの箇所の通奏低音として流れているのが、12章1節~4節の約束、であります。「~わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように~」。アブラハムたちは、如何なる状況に遭遇しても、この祝福から離されることはなかったのです。罪も咎も、その全てをひっくるめて、彼らは神の祝福の下で、生かされた信仰者であったのです。