9月6日~11日の集会

◇北関東牧師会    6日(月) 11時00分~15時00分

◇大戸集会(遊馬宅) 7日(火) 13時30分~15時00分

◇杉戸集会(田端宅) 8日(水) 13時30分~15時00分

◇聖書の学びと祈り  8日(水) 19時30分~21時00分

◇聖書の学びと祈り  9日(木) 10時00分~11時15分

◇婦人会委員会     〃    11時30分~12時00分

◇トレインキッズ   11日(土) 11時00分~13時30分 ※(教会集合 別所沼公園で遊ぶ)

9月12日の礼拝

  <秋の伝道礼拝・壮年会主催講演会>

  9月12日(日)                     午前10時30分

 説教:「ラザロの復活 ― 主イエスの霊の憤りの意義」

 聖書: ヨハネ福音書11章1節~44節
          
 証し:「この小さい器をも」                 午後1時00分
    
 講演:「荒野に水は流れる」 ― この生きにくい世の中で ―  午後1時30分

 講師:阿久戸光晴(あくど・みつはる)氏 (聖学院大学学長・日本基督教団滝野川教会協力牧師)


 ※秋の特別伝道礼拝です。多くの方々のご参加をお待ちしています。

使徒言行録7章1節-53節

使徒言行録7章1節-53節 『ステファノの説教』 2010年9月5日

 使徒言行録にはたくさんの説教があります。その中でも最も大きなスケールで相当な分量で書かれているのがこのステファノの説教です。今日の箇所を簡単に整理して見ますと、2節から8節まではアブラハムの事について話されています。9節から16節まではヨセフ物語。そして17節から43節はモーセと律法について。44節から50節までは幕屋と神殿。51節から53節は聴衆に対する言葉。これがまとめの言葉ということになっているわけです。この区分から分かるように、量の多さから言って最も力点が置かれているのが、モーセについてです。ここが今日の焦点になっていきます。私たちは、ステファノの躍動する肉声を聴く思いをもって、この御言葉に聞きたいと思うのです。

 1節に「大祭司が訴えの通りかと尋ねた」とありますが、では何が訴えの通りなのかということですが、先週の箇所でが6章11節でステファノを告訴するユダヤ人たちはこのように言っていました。「私たちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」。この告発の言葉に答えるためにも、彼はモーセについて積極的に言及したのでしょう。

 19節にはこうあります。「この王は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。この時にモーセが生まれたのです」。21節「その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです」。つまりモーセはその出生から幼年期に掛けて、既にモーセ自身の特徴、つまり彼は「捨てられ」そして「拾い上げられた」が含まれているということです。この線に立ってステファノはモーセを語ります。

 23節以下、26節以下、そして34節以下でモーセは、捨てられる者として書かれています。けれども彼は「誰が指導者、裁判官にしたのか」と言われた彼が、神に任命されているのです。モーセははじめの頃から同胞のユダヤ人たちに拒絶されていた、という事を、ステファノは様々な聖書箇所を例証して語っているのです。あなた方が律法を受けとったあのモーセにさえも、あなた方が大切にしているあのモーセをも、あなた方自身が拒絶したではないか。そのことにちゃんと目を向けなさいと、ステファノは言います。27節で『誰がお前を指導者や裁判官にしたのか』といっているのが単数の「男」であると書かれています。。しかし35節では「人々が」と複数になっているのです。つまりここではモーセを拒否するのが単数から複数になっている。ここにステファノの、また著者ルカの巧みな語りかけがあります。拒絶するのが個人から民のレベルに広がっている、ということです。それは一人ひとりの罪が増大し、イスラエル全体の神への拒絶になっているのだ、ということなのです。

 イスラエルの民たちがエジプト脱出を果たした後「命の言葉」(律法)を受けます。しかし39節「けれども先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い、アロンに言いました。『私たちの先に立って導いてくれる神々を造って下さい。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で作ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました」

 その後ステファノの説教は、幕屋と神殿の事について説明します。その結論が48節にあります。「けれども、いと高き方は、人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っている通りです」。つまりイスラエル人たちが大切にしているその神殿は、神が元々住まわれるような場所ではなく、人間の手によって作られた人工物に過ぎないのだ、とステファノは言います。それはイスラエル人の信仰に対しての否でありました。あなた方の守ってきたもの、すなわち神殿の絶対化、そしてそこにしがみつく宗教システム。それは残念ながら意味を成さないものであるのだ。このようにいうのです。これを裏付ける言葉として49節以下の、イザヤ書66章1節~2節の言葉が引用されております。「お前たちは私に、どんな家を建ててくれるというのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらは全て、私の手が造ったものではないか」。この言葉を引用し、裏づけにするのです。

 そしてステファノの説教は最終的な段階に入ります。それは彼がこの長い説教の中で最も言おうとしたものです。それが51節以下です。「かたくなで、心を耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったいあなた方の先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなた方が、その方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」。これがステファノの最終的な宣言であり、警告でした。

 それを聞いた人々はどうしたかと言いますと、54節「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向って歯ぎしりした」とあります。この「怒り」を石に込めて襲い掛かった、というのです。この後ステファノは殉教の死を遂げていくことになります。このように真の御言葉を語った者が殉教の死を遂げていく。

 今日の言葉は大変に厳い言葉であります。これまでペトロの説教を見てきましたけれども、ステファノのそれはペトロの語るような優しさではなく、辛辣に、激しく語るのです。しかし彼は前の箇所でも言われておりますように、彼は「信仰と聖霊に満ちている人であった」と言われている言葉からはこの辛辣さは想像できません。その彼がなぜこのように辛辣にそして激しく語り得たのか、ということが疑問に残るわけでありますが、しかしそれは、彼でなければ語りえなかった、と言う方がただしいかもしれません。つまりステファノはヘレニスト、ギリシャ語を話すユダヤ人であったのです。神殿宗教の体質を、大祭司たちに操られて形骸化したこの体質を温存したままで主イエスを受け入れたとしても、キリストの福音とは相容れぬものであると見
たのでしょう。それはヘブライ人であったペトロには出来ないことでした。そしてこのような事を語ると、迫害され死に至ることを彼は十分に承知していました。しかし主は真の御言葉としてこれを語らしめたのであります。それはアブラハムがハランから出発したときとの信仰的決断と同じように、また、モーセが主の真実な御言葉に応答するために、口下手を自認していた自分自身を奮い立たせた決断をしたようなに、一見無謀にも見えるステファノの決断は、信仰から生まれたものであったのです。そして彼はこれを語ることによって殉教することにはなりますが、しかしこの後福音を世に広めていく大きな力となっていくのであります。神は、このように言葉を用いて、優しい言葉、辛辣な言葉、真そして人を用いて、神の業を実現させるのであります。

 とにかくこのステファノの説教を聞くとき、大変に重苦しく論争的で、敵対感溢れた論調であるように感じます。先ほども言いましたけれども、ペテロの説教を思い起こして頂きますと、例えば2章38節では「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。3章19節「だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」。このように悔い改めが語られているのです。しかし今日の箇所では、ステファノの説教においてそれは見られません。最後まで論争的であり、敵対的であるこの説教から、私たちは何を御言葉として聞けば良いのでしょうか。

 まず私たちが考えねばならないことは、今日の箇所全体を通して語られていることが、神の救済の歴史である、ということです。アブラハムから始まり、ヨセフ、モーセ、と繋がっていくこの説教ですが、聖書に語られた救済の歴史をステファノは語っているのです。

 しかし私たちはこの救済の歴史に対してどうやって応答してきたであろうか。それは拒絶という形をもって応答であったのです。私たちは心かたくなに、いつも聖霊に逆らっていることを今日の箇所から汲み取ることができるのです。人類は、モーセに対して拒絶したように、イエス・キリストに対しても拒絶してきたのです。

 今日の箇所を私たちは、一見すると客観的に読みがちであろうと思います。ユダヤ人とステファノの対話。論争的な言葉。そして最終的には殉教の死を遂げていく。そのような客観的な読み方をしてしまいがちではないかと思います。けれどももしそのように第三者としてこれに聞くならば、そこにあるのは「頑なで、聖霊に逆らう私たちの姿」ではないでしょうか。

 つまり、もし私たちがこれをユダヤ人の出来事として自分から切り離して聖書から聞くならば、それはステファノの言葉に耳を貸さない者と同様であるということです。ここに出てくるのは、ユダヤ人であるとか、ギリシャ人であるというような、どの人種に対して何を拒絶したのかではなく、私たちが主の言葉を拒絶したということ、その罪の中に私たちは入れられるのです。今日のステファノの説教の言葉を聞き、あなたも同じですよねという彼の言葉を聞きます。その彼の問い掛けに対し、「いいえ私たちはそうではありません」と答えるならば、これを聞いて「歯ぎしりして激しく怒る」イスラエル人と同じ拒絶をしているも同然です。

 しかしひとたびこの言葉を聞いて、アーメン、その通りです。それこそ私の姿、私の罪です、と告白するならば、そこには「悔い改めなさい」というペテロのあの優しく語りかける言葉が含まれてくるのです。この言葉は私たちを辛辣に罵倒するのではなく、また苦しめるために語られたのではなく、私たちを救いに導く悔い改めのために与えられた言葉となるということです。ステファノの言葉は裁きの言葉です。けれども良く考えてみて下さい。裁きとは一体何か。裁きは神の怒りであるでしょうか。確かにそのような一面もあるかもしれません。けれども、その怒りは、私たちを神の方に向けるための怒りでもあります。私たちを真の道に歩ませるための裁きです。私たちに祝福を与えよう与えようと何度も何度もあの預言者たちを送ったように、そして最終的にはイエス・キリストを私たちに送って下さったような恵みの裁きであるのです。つまりステファノの説教に隠されているのは、私たちに悔い改めよという真の救いの御言葉である、ということです。ここにある豊かさに私たちは気付き、ここにある恵みに気付くとき、私たちの心はかたくなではなく、主に対し、開き、そして心に洗礼を、心に割礼を受ける者として主に向って真の福音に従って歩む者となるのです。   

青年会修養会


◇2010年度青年部修養会
 テーマ:「キリスト者と平和」
 講 師:渡辺信夫(東京告白教会牧師)
 日 時:2010年11月23日(火・休)9時~17時
 会 場:日本キリスト教会 蒲田御園教会 新設ホール
 参加費:3000円(昼の軽食付)
 託 児:500円 要申込み

  *案内が来ております。参加される方は青年会を通して
   お申し込みください。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記17章1節-27節

創世記17章1節-27節 2010年9月2日
 16章ではハガルの逃亡と神の祝福について学びました。私たちはアブラハムの一族が、このとき様々な不信仰という試練と、また一族内の諍い(サラとハガルの諍い)を神様によってを乗り越えることが出来、さらにイシュマエルという息子を得るまでに至ったことを前回みてまいりました 。
 その後すぐにアブラハムたちは神の約束を聞いたのでしょうか。16章の次は17章になっておりますから、その後すぐに聞いたように感じるかもしれません。しかし今日の初めの言葉は「アブラムが99歳になったとき」であります。つまり16章16節にある86歳であった、ところから、99歳に、つまり13年間も飛んでしまっているのです。ある注解者は、この箇所に対して、13年間変化がなかったことは、信仰の停滞である、と言いました。イシュマエルは順調に育ち13歳になりました。諍いをおこしたサラとハガルも問題なく同居し、それにアブラハムは満足していたのではないでしょうか。しかしそのような安泰で幸福のときは、時として信仰は停滞するのであります。この生活に満足し、神なしで生きていけるような錯覚に陥ってしまう安定期は、むしろ信仰が研ぎ澄まされない時期であるのです。そのため聖書は、彼らの13年間を無視します。その安定した―ともすれば神なしでも安定しているような錯覚に陥るこの13年間を―まったく問題にしないのであります。
 今日の箇所は13年後、アブラハムが99歳を迎えたその時、突如として神の約束が与えられるのであります。神の御言葉を聞いたのが75歳のときであり、そののち神の約束の言葉を何度も聞きながら、なかなか実現せずに24年間が経ちましたが、その間彼は、徐々に信仰者として深められてきたのでしょう。様々な挫折や罪を経て、自分が尚も生かされていることを実感した彼を見て、私たちは励まされる思いが致します。それは年を取って、全てにおいてきたとは言え、しかし100歳になろうとしている老齢者が、日々神への確信を強められ、高められていることは、私たちを顧みましても、それは恵みとなるのではないでしょうか。体力も健康も衰えるのに、信仰は遅々としてではありますが、高められ、深められていくのです。物忘れが激しく、自分の頭の中から神の存在が薄らいでいくように感じても、決して神があなたから離れることはなく、むしろあなたの中でさらに信仰は盛んになっていくのだ、というメッセージを聞き取りたいのです。
 さて、ここで与えられたものは、神の契約でありました。15節で結ばれた契約をもう一度更新されたということでしょうけれども、しかしここで特徴的なのは、割礼であります。そのことは後ほど見て行きたいと思います。
 神との契約更新に際して彼は、アブラムからアブラハムへと名前の変更を求められます。この意味の違いははっきりとは分かっていないというのが正直なところでありますが、一般的には、アブラムは「高き父」もしくは「私の父は高められる」という意味であり、アブラハムは「多くの者の父」という意味であると言われます。
 そしてサライと呼ばれていた彼女はサラに変更するよう命じられます。これも蓋然性に乏しいのでありますが、サライは「あざ笑いのまと」という意味であり、サラは「王女」であると言われます。この時アブラハムは100歳、サラ90歳と言われています(17節)。しかしこの時からアブラハムとサラは、神の新たな人生を与えられたということであります。
 さて、アブラハムは神の御前にひれ伏しながらも「『しかし笑って』ひそかに言った~」とあります。また「どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように」と神に言ったとありますが、この「アブラハムの笑い」と「イシュマエルへの生き永らえへの言葉」が何を意味するものであるかが重要なポイントとなりましょう。
 渡辺信夫牧師の著書「アブラハムの神」136ページ以下にはこのように書かれております。
「このない老人夫婦が一新に願をかけて子を授けられる、というおとぎ話を私たちは沢山知っています。アブラハムの場合はそれの同類ではありません。彼は理性的な人間であったようです。一念を込めて祈り通せば何でもできる、というような狂信は彼に見られません。すでにイシュマエルが与えられているのだから、それ以上に恵みをむさぼらなくてよいではないか。既に無形の恵みを数多く受けているのだから、有形のものはなくても満足すべきではないか」と、この老夫婦は慎ましく語り合っていたのでありましょう。だがその敬虔な慎ましさは、自分たちの能力についての諦めと結びついております。願ったところで起こりえないのだから、あるがままの恵みで満足し、それを恵みとして精神的に解釈して行こうとしていた~のでした。」
 「~~(138ページ)彼の笑いは、神を恐れない嘲笑ではなく、知恵の浅い者の単純な喜悦でもなく、神の約束を正面から受けず、斜めにかわし、これを神のユーモアとして受け流すものなのです。厳粛なことを厳粛に受け止めないでおこうとするのです。そして話題を変えて、どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように、と願うのであります。すなわち「主なる神よ、あなたの大いなる恵みはわたしども夫婦に十分良く分かっております。イシュマエルをサラの養子にすることが出来ただけで私どもは満足し、感謝しております。イシュマエルが祝福のうちに命ながらえさえすれば、あなたのお約束は十分に実現するのであります。100歳の夫と、90歳の妻に子供が出来るというユーモアは、お志だけで十分感謝でございます。」という意味になるでありましょうか。主の御言葉を文字通り受け取って、約束がその通り実現するのを待つならば、躓きになるに違いないと考え、躓きにならないように上手に解釈しようとしたのであります。」
 「私たちにもそのような解釈が必要な場合があります。というのは、人間の文字の表現は不完全なもので、その不完全さから神の御言葉を自由にする処置は必要だからです。けれども御言葉と正面から取り組むことを避け、それに「然り」とも「否」とも言わなくてすむようにすることは、御言葉の正しい解釈ではありえないでしょう。すなわち、御言葉は私たちは立たせるか、躓かせるか、どちらか一方の事しかしないという性格を持って迫って来るものだからです」
 このように言われておりま
した。洞察力に富んだ読み方であろうと思います。
 さらに言いますと、この「イシュマエルが御前に生きながらえますように」の言葉は、人間の可視的な性格が示されております。それは「割礼」の必要性を促すものであります。割礼というのは、それを受ければ救われるというものではなく、一つの神の選びの(救いの)「しるし」として与えられるものであります。しるしが必要か否かは聖書全体を通して議論されるところでありますが、しかし人間は、それを見なければ救いを確認することが出来ないほどギリギリのところで信仰が試されることがあると思います。そのとき自らに刻まれた割礼の事実を神の救いのしるしとして実感するとき、自らを支える可視的な救いの確証となるのだと思うのです。翻って考えると、私たちが洗礼を受けたという事実(しるし)において、今にも倒れそうなときに救いの確信を持ち続けることがあると思うのです。私たちの弱さは、目に見えないと信じることが出来なくなるところまで弱まります。そのとき可視的な確証が信仰者を支える事があると思うのです。
 未だ見えないイサク誕生の約束を信じることが出来なかったアブラハムに対して割礼が与えられることは、見える息子イシュマエルの将来だけを考える彼に対して、最も適切な可視的な祝福のしるしとなったのであります。
 割礼というはそもそも古代エジプトで始まったものでありまして、主が異教の風習を取り入れたということであります。15章で私たちは契約を結ぶしるしとして獣を真っ二つに裂いてその間を通り抜ける方法を採用したことを見てきましたが、それも異教の古い儀式を用いての締結でありました。つまり我々人間の側が最も分かり易い形でそれを可視的なものとして見せるために、主は自らを低め給うてそうなさったのでありましょう。
 また割礼に関して言うならば、普通家督を継ぐことや、土地や財産の相続をするとき、その人の子である(子孫である)ことによって無条件に相続が出来るものでありますが、しかし信仰においては全くそれと異なっております。14節には、「無割礼の者の裁き」が記されていますけれども、それは全員が個人個人が神と向かい合うことを示しているのであります。つまり聖書の信仰は世襲ではなく、神との関係は一代ごとに新たに更新されるべきものであることを示しているのです。
 また、割礼を受けるものは、社会的な地位や名誉を受けたものではなく、12節「直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆」割礼を受けねばならないと命じられ、結果的に26節以下「アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷もみな、共に割礼を受けた」、言われていることは、注目に値いたします。それは神が全ての命に対して目を留められているということだからです。当時、奴隷に人格はなく、命も軽んじられ、所有物として扱われていた彼らでありますが、ここでは神の御前に主人と同等な位置にあることが言われているのです。99歳の主人も、その家督を継ぐことになるはずの13歳のイシュマエルも、使用人とされてきた奴隷も、全ての命ある者が平等に扱われ、神の御前に深くひれ伏すことを求めることの中に、神の思いの深さを感じるものであります。
 またそのことは、アブラハムの信仰とその継承が、血縁の中で受け継がれ守られていくもの(血縁共同体)ではなく、神の恵みによって結ばれた信仰共同体(礼拝共同体)であることが示されています。アブラハムの子孫だけが主の救いを受けるのではなく、主の約束を受けた者が救いに入れられるのです。主の救いとは、決して選民的で独善的な、救われる人が決まっている救いなのではなく、全世界的に広がる主の賜物なのであります。
 ここに集う私たちもまた、血縁ではなく、信仰共同体として益々強められ、お互いに高められる教会員として生きることが求められているのではないでしょうか。99歳のアブラハムも13歳のイシュマエルも、90歳のサラも、男女の奴隷も、年齢も性別も、環境も違う全ての者が、同じ条件で主の救いを与えられる、その神の下で私たちは憩うのであります。