主、弟子の足を洗いたもう

2010.3.14  ヨハネ福音書 13:1-15  牧師 中家 誠

 主イエスが十字架に赴かれる時のことを、聖書は、「この世から父のもとへ移る、御自分の時が来たことを悟り」と記している。十字架の道は、「父のもとへ帰る道」であり、「神の御旨の中にある時」なのである。

 その時、主は弟子たちの足を洗いたもう。それは御自分の身を低めての行為であり、僕(奴隷)となってなしてくださる事なのである。キリストの十字架の死は、人間の罪を負って死ぬ「神の小羊」としてのみ業(わざ)なのである。「主は極みまで愛し抜かれて」とも記されている。

 わたしたちは皆、この師であり、また神の御子であるお方によって、足を洗っていただく者たちなのである。

 人類の歴史は、始祖アダムの時以来、神に背き続けてきた歴史である。わたしたち一人ひとりも、その罪の責任を負っている。従って、この罪の赦しなしには、誰も正しく神の前に生きることができない。

 主は今日もなお、わたしたちのほこりにまみれた足を洗い続けておられる。この御愛によってのみ、わたしたちは、正しく生き得る者であることを、深く覚えたいと思う。

【イースター礼拝】のご案内

4月4日(日)  午前10:30~

説教「死ぬべきものが、死なないものを着る」

Ⅰコリント 15:42-58  牧師 中家 誠

洗礼式・聖餐式

一人でも多くの方が、ご出席くださり、会堂が満ちあふれますように。
中家牧師による最後のイースター礼拝となります。

*午後2時から、青葉園教会墓地で墓前礼拝を行うことになっています。

3月28日の礼拝

10:30~ 主日礼拝 <レントⅤ>

説教「見よ、この人だ」

ヨハネ福音書 19:1-16a  中家 誠牧師

9:00~ 日曜学校

説教「主の晩餐」

ルカ福音書 22:14-23  岡野 庸子


祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。


【連絡先】

〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2

TEL 048-861-9881

FAX 048-861-9966

【交 通】

JR京浜東北線、宇都宮線、高崎線・浦和駅西口下車

JR埼京線・中浦和駅下車 徒歩15分

一つになるための最後の祈り

2010.2.28  ヨハネ 17:20-26  河野美文神学生

 イエス様は目を天に向けられ、祈り始められます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてくださいました」と。

 受難の時は、イエス様の肉体が死を迎えるときですが、ヨハネの福音書では、初めから、「栄光の時」と言われています。この「塵から造られた儚い血肉の体」が死を迎え、全人類の罪の為の、身代わりの死が成し遂げられました。その結果、私達は罪に勝つことが出来ます。永遠の命に連なる復活の命に与ることが出来るのです。

 イエス様は、更に今キリストを信じる者達に、彼らの言葉によって信じる新たな者達が迎え入れられることを予告されます。それらの人々を含めた「すべての人を一つにしてください」と。それは、この世を見捨ててのことではありません。この世から、イエス様に属する者が起こされるという予告であります。

 そして、一つにされることは、まず御父と御子の愛による結びつきを基礎として、その愛の中にすべての人が入ることなのだと説明し、求められています。「そうすれば、世は、あなたがわたしを御遣わしになったことを、信じるようになる」と。ひたすら世から守られることを祈っておられたのに、ここからは一転して、世に対する働きかけを述べられます。

 教会の一致は、時を経るに連れて破壊される恐れがあります。しかし、信者の全てが、神とイエス・キリストから来る交わりの中に立つならば、教会の存在は、世に対する強い伝道になるということであります。

3月21日の礼拝

10:30~ 伝道礼拝
説教「一粒の麦」
ヨハネ福音書 12:20-26  中家 誠牧師
祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。
 
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〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2
TEL 048-861-9881
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JR埼京線・中浦和駅下車 徒歩15分

キリストにある人は、常に新しい

2010.1.3  Ⅱコリント 5:16-21  牧師 中家 誠

 新たな一年を迎えるに当り、み言葉の光に導かれつつ歩み行く者でありたい。

 そこで、「キリストにある人は、なぜに常に新しい」のであろうか。それは、人間は常に古び衰えるのだが、神は無限の方であり、常に新しいからである。イエス・キリストの背後には、この神がおられる。「キリストにある」とは、このキリストと結ばれて生きることである。

 それはあたかも、母の中に宿る胎児のごとく、へその緒を通じて、常に新鮮で栄養のある血液が送られてくる。キリストと結ばれる時、わたしたちは神の霊をいただくことができるのである。それは「真理の霊」、また「助け主」であって、わたしたちに必要な神の助け、また神の思いを、日々新たに送ってくださるのである。

 この神の霊、キリストの霊はまた、神からの「和解の霊」でもあって、これを受ける人は神と和解し(神を愛し、神から愛されて)、更に人々とも和解することができる。なぜなら、キリストはすべての者の「和解の源」となるために、十字架につかれたのである。