2012年10月28日~11月3日の集会

◇旧浦和市内教職者会(蕨市):10月29日(月)午後10:00

◇SS教師研修会準備学習会(浦和):10月29日(月)午後7:00

◇聖書の学びと祈り:10月31日(水):午後7:30
  箴言29章

◇聖書の学びと祈り:11月1日(木):午前10:00
  レビ記13章

◇生と死の学び:同 上 後

2012年11月4日 主日礼拝

◇日 時:11月4日(日)午前10:30~

◇説 教:「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:ホセア書7章1節~2節
      マタイによる福音書10章16節~25節

2012年10月26日

 中会連合婦人会主催、宮城県東松島市の仮設住宅での昼食会開催予定

 昨年から行ってきた被災地ボランティアの一環で、このたび中会全員に呼びかけて
 行なわれます。東京中会から総勢51名が参加します。早朝から夜中まで、日帰りの
 強行軍ですが、事故など無いようにお祈りください。

マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 ≪①からの続き≫

 私たちは、最後の34節の「すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。」の一文だけを読む時、町の人たちは、主イエスの驚異的な力、神の権威に驚愕し、この人こそ私たちの主である、と告白しにやって来たに違いないと、とっさそう考えるでしょう。しかし状況は全く違っていました。彼らはイエスに出て行ってもらいたい、という事を依頼しに来たのでした。町の人たちにとってイエスこそが厄介者であると意思表示したのです。居てもらっては困る。邪魔だ。それが町の人たちが出した結論でした。

 それは、この町が異邦人の町であった事に原因があります。ユダヤ地方では豚は不浄な動物である為、家畜として豚を飼う事はありません。ですから豚が群れをなしていて餌をあさっている事から鑑みますと、これが異邦人の町である事が分かります。8章18節でイエスは、「舟に乗って向こう岸に行こう」と言っているように、イエス一行はガリラヤ湖の東側沿岸の町に来ているのであります。

 異邦人の町ですから、ユダヤの律法、特に食物規定が適用されません。つまり彼らは豚を食べても良かった。豚は彼らにとって大事な食糧であると同時に、財産でありました。ユダヤ人たちが羊の数によってその裕福さを誇示するるのと同じように、この異邦人の町にとって、豚をどれだけ所有しているかが、その人の裕福さを示すバロメーターになっていたのです。

 時に町の人たちは、人間の命よりも、豚の命を大切にしました。それは言い換えるならば、人間の裕福さの誇示と財産の所有が、人間の命よりも重たいという価値観の中に生きていた事を示しているのです。ですから町の人たちとしては、大量の豚が湖になだれ込むなどという事は、目を覆いたくなるような出来事であり、悪霊に憑りつかれた2人の命が救われるぐらいなら、大量の豚の群れが安全であったほうが良かったのです。

 聖書はこの物語で、人の救いは、例え財産を失っても何にも替えがたいものである、と伝えようとしているのかもしれません。あるいは、「神と富とに仕える事は出来ない」、というマタイ6章24節を敷衍する言葉として、これが読まれる事を望んでいるのかもしれません。いずれにせよ私たちは、この2人の男たちが、厄介者であるというレッテルを張られ、彼ら自身が加害者でありながら、被害者でもあるという非常に複雑極まりない状況の中で、彼らが必死に救いを求めている事を冒頭で確認しました。そのような混乱をきたした人間の心の状況や、もはや自分の力では如何ともし難く立ちはだかる内的な自己破壊的な暴力行為、それはまさに悪霊の仕業としか思えないような、人間の力の及ばないような自分の悪い行いに対して、福音は何を語り、何を伝え、福音は如何なる力をその者たちに及ぼす事が出来るのか、という事を示しているのであります。

 まさにそれは、人間の罪に対して、主イエスは何を語るのか、という事を示すのです。私たちの罪は主イエスによって取り払われました。ユダヤ人であろうとなかろうと、その力の及ぶ範囲は、異邦の地にまで広がっており、それはその人々が最も大事にし、価値あると考えている物(つまり豚の群れ)の価値を超えて、人の命、人の救い、すなわち我々の救いは如何なる価値ある物にも勝って価値ある物なのだ、という事をこの箇所は示しているのであります。悪霊の滅ぼし、罪の赦しと同時に、私たちを救おう救おうとなさる主イエスの力が象徴的に示されたのがこの物語なのであります・

 豚の群れの中に、悪霊が入り込み、悪霊に取り付かれた豚が、崖から落ちて死んでしまう。何とも無残な光景です。しかしこの出来事が象徴しているのは、「この世の財産よりも、一人の苦しむ命の方が、価値が高い」「この苦しむ命が救われる事は何と素晴らしい事か」という事を示しているのです。この悪霊に取り付かれた2人は、この世の中から見捨てられ、町の中に住む事も許されず、手枷、足枷によってその自由が奪われ、彼の苦しむ命を誰も顧みる事もなかった状態にありました。だから屍のように墓に住む事を余儀なくされたのです。しかしイエス・キリストは、この誰からも見放された小さな魂の価値を認め、その価値が、この世の価値よりも遥かに高い事を示してくださったのです。町の人たちは悪霊に憑りつかれた2人に手を焼いていた事でしょう。この2人が困難で凶暴な事を誰もが知っていたはずです。しかしこの男たちが癒され、正気に戻っても、町の人たちは彼らが癒され救われた事に対して無関心であります。ただただ大切な財産を守るために、「出て行って欲しい」とイエスに告げているだけなのです。

 私たちの生きる世の中も、これと大して違いは無いという気も致します。この世の財産と、それに基づくこの世の価値観の中で私たちは生活しています。格差が更に広がりつつあると言われるこの社会にあって、この世の価値に縛られ、それを守ろうと必死になる中で私たちは生きています。しかし今日の箇所で主イエスは私たちに告げるのです。「どんなに小さな者であっても、どんな財産よりも価値高く、尊いのだ」と。
 この箇所を、私たちは第三者として聞いてはなりません。この救われた2人に対して言葉を掛けるとすれば、私たちは何というでしょうか。「救われて良かったね。」と、あたかも彼らと私たちの間に何の関係もないように語り掛けるでしょうか。しかし良く考えてみてもらいたいのです。
 彼らは自分の意志であるか否かに拘らず人に危害を加える、その罪の故に人々から厄介者というレッテルを張られると同時に、彼ら自身も罪の被害者である人たちです。彼らは墓という自らの殻に閉じこもり、人との関係を遮断して生きているのです。時に孤立し、時に人を愛する事が出来なくなり、彼らは自らのうちに籠ってしまう。

 つまり私たちは、この2人と無関係に生きているのではなく、ともすれば私たちはこの2人自身ではないだろうか、と思わされるのです。自らの罪に囚われる私たち。しかしここに書かれている恵みは、この私たちをも解放して下さる神の恵みがここにあるのだ、という事であります。この2人の絶望的な人生を、うちに籠った孤独な命を、主の御前に引き戻し、主と共に歩ませようとされるイエス・キリストがここにおられるのです。  この恵みによって、私たちは生かされているのであります。

マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』
                  (日本キリスト教会浦和教会 主日礼拝説教 2012年8月19日)

 先日の夜中、「エクソシスト」という映画が放映されており、懐かしい思いを持って興味深く観てしまいました。これはカトリックの神父が悪霊払いをするというストーリーで、わたしとしては30年以上も前に幼少時以来でしたから、昔は怖くて画面を直視出来なかったな、という懐かしさと共に観たわけであります。1973年に公開されたエクソシストは、ホラー映画としては珍しくアカデミー賞の2部門を受賞しておりまして、当時のその反響の大きさが分かります。

 ある町に住んでいる少女が、突然原因不明の病にうなされます。母親は医者たちに色々な検査をしてもらい、原因を究明しようとしますが全く分かりません。その後、どんどんと奇怪な言動が続き、ある時には娘が寝ていたベッドごとガタガタと揺れているのを見た母親は、これは病気ではない、という事に気付きます。医者はカトリックの神父である、デミアン・カラスという司祭を紹介し、そこから悪霊を追い出す、つまり「エクソシスム」が始まり、壮絶な戦いが続いて行く、という事になるわけです。
 結局最後は、娘に憑りついた悪霊が、カラス神父に乗り移り、それと同時にカラス神父が高い石畳の階段を転げ落ちてしまい、悪霊も、神父も、両方一緒に絶命するという幕切れでありました。ああそんな終わり方だったかと、何となくしっくりといかない思いを抱きながら、調べてみますと、やはり世界各国、特にカトリック国では、この終わり方は、悪霊が勝利を収めたという印象を抱かせてしまう、という理由で、当時上映禁止になったのだそうです。正確には相打ちというか、刺し違ったという事ですから、それだけエクソシスムは壮絶な行為なのだ、という事なのでありましょうが、カトリック側としてはなかなか認める訳にもいかないのでしょう。

 このような悪霊払いでありますが、映画や小説での話ではなく、現代の特にロシア正教ではこの行為は生き続けているという事です。有名なのは、19世紀のドイツメットリンゲン村のルター派の牧師をしていたクリストフ・ブルームハルトという人の悪霊払いは有名でありまして、このブルームハルトは、カール・バルトやブルトマンという著名な神学者にも影響を与えた事で知られています。

 このように、エクソシストにせよ、ブルームハルトにせよ、色々と世に出回っている出来事や証言の数々があるとは言え、いずれにしても、悪霊払いという行為が、私たち現代人にとってはそうそう身近なものではなく、むしろオカルト的な出来事として捉えられている事は間違いありません。
 その為、この箇所のイエスの行為は、馴染み深い話というよりは、むしろ私たちを困惑させる話であるのです。この2人の男たちとはどのような状況なのか。何故ここに豚が出てくるのか。そしてなぜ豚の群れが湖になだれ込んで落ちるはめになるのか。ここから聖書は、私たちに何のメッセージを伝えようとしているのか。などなどであります。

 ですから、現代的な解釈や、又、注解書などを紐解きますと、この2人は解離性の人格障害であるとか、統合失調症であるとか、何らかの精神疾患の分類の中に彼らの症状を当てはめて理解しようと致します。当時悪霊と呼ばれていたものの多くは、確かに精神疾患であろうと考えられていますので、間違った解釈ではないと思います。むしろ病理的な観点から言うと、正しい理解であるのかもしれません。
 しかし私たちが聖書を読むのは、それを科学の分野から説き明かす事ではなく、聖書がこのように自らを読めとする聖書の要求を汲み取って読む事であります。つまりここに出てくる悪霊に憑りつかれた人たちも、豚の群れも、町の人たちも、聖書の語ろうとする内容に沿って読む事によって、その意味が浮き彫りにされてくるのです。
 
 まずこの悪霊に憑りつかれた2人について考えてみましょう。この2人は、人に危害を加える町中の厄介者であると同様に、彼ら自身も又悪霊もしくは病気の被害者である、という事が言えると思います。彼らは墓場に住んでいました。現代の我々でも墓場に住むという事が尋常な住処ではない事ぐらいは分かります。墓は町の賑わいから遠く離れた場所に作られておりまして、人里離れたひっそりとした場所に、彼らがいた事が分かります。彼らは何故このような場所に住むことになったのでましょうか。それは「そこにしか住めなかった」、というのが正しい言い方であるかも知れません。つまり彼らは悪霊に憑りつかれていたがために、厄介者であり、人との交わりを遮断され、孤立し、人を人として愛する事の出来なくなった状態にありました。彼らは自らのうちに籠っていました。それは振る舞いにしても、住む場所にしても、孤立を選び、孤立せざるを得なかったのです。彼らに近づく者はいませんでした。彼らは非常に凶暴で、人が近寄れないほどであったからです。

 ここで主イエスが彼らの場所にやって来ます。誰も近寄れない彼らの下に主イエスは出向いて来たのです。そして悪霊たちはイエスに対し「あの豚のところに追い出してくれ」と唐突に願い出たのです。そして悪霊たちは豚の群れの中に追い出され、豚は驚きのあまり、湖になだれ込んで死んでしまうのであります。大変に奇妙であり、それ故に印象的な場面であります。
 しかし彼らはなぜ豚の中に入れてほしいと願い出たのでしょうか。そもそも豚には何の意味があるのでしょうか。この物語を難しくさせているのは、この「豚の群れ」、という奇妙な対象が現れているからです。これを解く鍵は、この物語の最後で町の人たちがイエスに会おうとしてやってきた事に示されています。 (②に続く)

マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたがたが信じたとおりになるように』②

①の続きから

 しかし私はある二つの言葉に注目したいのです。
 それは最初の思い皮膚病患者の言葉です。彼はイエスに願い出るのですが、しかしこの彼の言葉が何とも奇妙に思えて仕方ありませんでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」この言葉を聞いて、おや?と思った方はおられるでしょうか。そうです「御心ならば、清くおできになります」という言葉それは一つの条件を提示して、ある一定の留保がなされているように思えるからです。
 この言葉は、素直に捉えるならば、全く揺るぎのない信仰的な告白であると言えるでしょう。「御心ならば」という神の御心によって全ての事が可能である神の御子イエス・キリスト、という告白であるからです。しかも多くの解釈者がこの言葉を「立派な信仰告白である」と理解しているのです。勿論そのように読むことが出来ます。それを間違いであると言えません。

 しかし私は、この言葉にどうしても引っかかってしまうのです。なぜ「御心ならば」と言ったのか、であります。つまり、ただ盲信的に、盲従的に主イエスを信じるならば、「主よ、あなたには癒す事がお出来になる事を信じています。」という言葉で良かったのではないか、と思うからです。しかしここで彼は「御心ならば」と仮定法を使い、「そうであるならば、出来るのですが‥」というニュアンスが込められているように思います。ですからここに示された「御心ならば」というのは、この患者が「自分はその癒しに価しないかもしれない」という気持ち、もしくは「主イエスの癒しへの少なからず起こる疑問」が示されているのではないかと思うのです。読み込み過ぎかもしれませんが、もしかすると彼は、癒されなかった事を考えているのかも知れません。彼は自分の体が重い皮膚病に罹り、絶望的になっていました。どれだけの年月の間、病に侵されていたかは分かりません。しかし彼は希望を持って主イエスの下に来た、と言うよりも、ある種の希望と共に、「もし主イエスでも駄目ならば、もう絶望的である」という彼の思いの表れがこの言葉に込められているのではないかと思うのです。ここに全幅の信頼を置いてしまうと、それが駄目だった時のショックの大きさ、絶望的な気持ちを、担保するように、そのような辛い気持ちが起こるかもしれない、というある種の疑いを捨てきれず、どん底に陥るかもしれない事から身を守るように、彼は「もし御心ならば‥」と言ったのではないかと思うのです。もし駄目なら、「主の御心ではなかったから、主イエスに癒されなかったのだ」「他の癒しの手段はまだある筈だ」というように、であります。この患者の躊躇いこそが、ここに示されているのであります。

 そしてもう一箇所、注目したい言葉は、百人隊長の依頼を受けた主イエスが言った「わたしが行って、いやしてあげよう」という言葉であります。日本語訳の聖書は数多くありますが、どの聖書を見てもこのような訳がされています。文語訳でも同じように「われゆきていやさん」と訳されています。もちろん文脈から考えてそのように読むことが順当かもしれません。

 しかし一方で、ある違った読み方をしますと、これを疑問文として理解する事も出来るのだそうです。つまり「私が行って癒すのか?」という疑問。もう少し付け加えますと「私が行って癒すべきなのか?」「私が行かなければならないのか?」という疑問文であります。これは大変面白い読み方ですが、辻褄が合うのです。つまり相手はローマ人ですから、宗教共同体の外側に属する者たちでした。ローマにはローマの伝統的な医療が発達しています。それはイスラエルのそれよりも明らかに進歩した当時の最先端の科学技術であったと思われます。ですから百人隊長の特権を使えば、イエス・キリストの癒しではなく、ローマの技術と財力でしもべを癒す事は、選択肢として最も順当なものであると言えるのです。

 ですからイエス様は、「え?私が癒すのか?」という意味でこのように言ったとしても、これは考えすぎと言うよりも、むしろ辻褄が合うと思うのです。人を癒す事に気の進まない主イエス、というのは、何となく受け入れがたいように思われるかもしれませんが、それは私たちがイエス・キリストの形を固定化しているからに他なりません。福音書の他の箇所には、シドン・ティルスの異邦人女性の懇願に対して「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉があるように、癒す事に気の進まない主イエスの姿は、聖書はいくつも報告しています。このように考えると、このローマ人への躊躇は、あって然るべきであると思うのです。

 しかしここで重要なのは、この百人隊長の信仰です。それは単に「信じています」という上辺だけの言葉ではなく、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」という告白です。これは自分が異邦人であり、ユダヤ的な救済や、恵みの中に居ない事をみずから宣言している言葉です。アブラハム・イサク・ヤコブの神、すなわちイスラエルの神の恵みは、私たちにないかもしれない。しかしこの神の救いの権威を主イエスが持っている、という事を宣言しているのです。ですから軍隊の上司が部下にトップダウンで命令系統が繋がるように、あなたの持つ権威が、あなたの命令によって、トップダウンで私の身に、すなわち私のしもべの身に起こるでしょう。という事であります。主イエスはこの大胆な告白を認めました。そしてそれを彼の信仰と捉え、受け入れたのであります。

 重い皮膚病の患者は、自分自身が疑いの中にありました。大丈夫か、本当に自分は神様の御心に適うのだろうか、という癒しに対する躊躇いがありました。そしてローマ兵の方では、主イエスの方に、躊躇いがあったように読む事が出来るとお話ししました。しかしこのいずれにしても、これらの躊躇いを打ち破ったのは、信仰でありました。重い皮膚病の患者は、これだけ躊躇しているにも拘らず、大胆に主イエスに近づきました。自分が社会的に排除される民である、という当時の社会通念や倫理を超えて、主イエスへの信仰を大胆に表したのです。「御心ならば‥」と自分の立場を留保していたにも拘らず、彼の行動はストレートなものでした。もしユダヤ当局に見つかっていたら、捕まってしまうかもしれません。しかしその障害を越えて彼は主イエスに近づいたのです。
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 同様に、百人隊長も同じく疑いがありました。それは神の側の疑いであります。言い換えるならば、この恵みが異邦人である自分にとって何の意味があるのか、どのようなものをもたらすのか、に対する疑問であると言っても良いかもしれません。彼はローマ兵ですから、このような自分が、神を信じるなど意味のある事名のだろうか、と神の側が思っているに違いない、とする疑いと理解することも出来るでしょう。

 しかし彼らの姿を見て思うのは、神を信じる事、神への信仰とは、まさにこのような歌がと迷いの中で起こる、動的な、ダイナミックな営みなのではないかという事であります。私たちは信仰を、見切り発車の出来事として捉える事は出来ず、固い信念に基づいて、ゆるぎない神への信頼が無ければ信仰者になる事は出来ないと考えがちではないでしょうか。
 でもそうではないのです。あの思い皮膚病患者や百人隊長のように、多くの疑問や疑念を超えて、「信じる」という一点においてのみ可能とされる営みなのであります。「信じる事」と「疑う事」は、信仰において相反する事ではありません。むしろあのイエスの12弟子のトマスが信じて疑ったように、あのヨブが、信じて疑ったように、預言者エレミヤが信じて疑ったように、私たちは疑いの中でさえも、神を信じる事が可能であるし、そうする事も又、信仰なのであります。
 今日の聖書には、信じた者たちが癒されました。それは単に医療的な治癒行為が成就された、という事だけではなく、神を信じる思いが、一つの姿をとって、その人の信じた、最も必要な形として与えられる事を示すのです。
 「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。この言葉を信じて、この言葉に導かれて、ここに集うもの全てが、あなたの信じたとおりになるように、という主の宣言を受けるような信仰を持ちたいものであります。