特別伝道礼拝

   
2010年6月20日(日)10:30~
「平和の剣をそなえなさい」
     説 教 三輪地塩 牧師

午後12時30分から信仰の証しの会
「神との出会い」――わたしの信仰の過去・現在・将来――

  証しする人:桜井勝彦、冨岡富士子(浦和教会会員)

どちらの会にもご自由にご参加ください。

キリスト教会 浦和教会 (市役所南口バス停前)
     さいたま市浦和区仲町4-8-2
     Tel. 048-861-9881
     http://www7a.biglobe.ne.jp/~nikki-ur
Eメール nikki-ur@khc.biglobe.ne.jp

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記4章1節-26節 2010年5月27日

 今日の箇所はカインとアベルの物語です。何度も聞いてきたことのあるこの話の中に込められた神様の言葉を共に聞きたいと思います。ブルッグマンという旧約学者はこの箇所について、「この世の中は、兄弟殺しが如何に醜悪で受け入れ難い行為であるかを知っている。わざわざ聖書に宣言させるまでもない。それゆえに我々は、この物語を道徳的な観点から取り扱うことによってつまらなくしてはいけない。」このように述べています。事実この箇所において兄弟殺しという事柄それ自体は、特にどのような仕方で、どのように行なわれたかについては述べられえておりませんで、8節のみによって手早く取り扱われております。つまりこの物語の語り手にとって重要なのは、人が罪を犯すこと、犯した罪が自らをどう蝕んでいくかということ。そして神と殺人者との関係、であります。

 そもそも人間世界において、「兄弟」という現実「姉妹」という現実は、それ自体喜びであり、厄介な問題ともなりえます。興味深いことに創世記は、全体を通して「兄弟」というテーマが、通奏低音として流れていることが分かります。アブラハムの系図では、イサク、ヤコブと続きますが、このヤコブの12人の兄弟が骨肉の争いを繰り広げることはご承知の通りであります。私たちが兄弟と共に生き、兄弟とのディレンマに満ちた歩みが与えられたことそれ自体が、神様からの恵みであり、また試練であるとも言えるのではないかと思うのです。

 さて、本文を見てみましょう。3章でエデンの園を追放されたアダムとエバが二人の子をもうけます。長男はカイン、次男はアベルでありました。カインは農夫に、アベルは羊飼いになったといいます。ユダヤにおいて通常長男が優勢に立つことは当たり前のことでしたから、この物語を読んだ人は誰もが、カインはアベルに対して優位な立場にいすることは当然のこと感じたのであろうと思います。

 カインという名前は、ヘブル語のカーナー「得る、造り出す」という動詞に由来しています。人の名前は神様での讃美として与えられるものと考えられていた文化の中にあって、カインという名前は喜び祝われた者を意味し、神様に存分に目を留められていることが分かります。つまり生命力の具現、生命への可能性が示されています。それに対してアベルという名前は「空気、無」という意味でありまして、生命の可能性のなさが示されています。この時点で聖書は、カインへの祝福が確証されたものという位置づけにするわけです。そして当然カイン自身も、自らの優位性と生命への可能性を自負する者として、すなわち長男として生きることの誇りと、同時に驕りを持っていたのでありましょう。そのため彼は、神様が自分の献げ物に目を留めなかったことに憤慨し、「激しく怒って顔を伏せた」のでありましょう。

 よく疑問にされることは、なぜカインの献げ物がいけなかったのか、ということでありますが、聖書にははっきりとその理由について語られておりません。一つの説として挙げられるのは、カインが単に「土の実りの物」を献げたのに対して、アベルは「羊の群れの中から越えた初子」を持ってきたからだ、とよく言われます。カロリー計算にうるさい現代人にとって、脂肪分はカットされるべきものという感覚があるかもしれませんが、飽食の民であるから言えることでありまして、砂漠の民、荒れ野の民からすれば、脂肪分は人間の摂取すべき大切な栄養源であり、大変に高価なものでありました。その高価なものを、さらにたくさんいる群れの中から良いものを選び出して献げたアベルの思いを神様が認めた、ということは想像に難くないことであろうと思います。しかし聖書は、状況証拠を残しつつも、明確な理由を述べておりません。実はここが大事なのではないかとも思います。つまり私たちはカインとアベルの行いの中に、どちらの中に非があり、どうすればそれを回避できたか、という因果関係を見つけ出そうとして聖書を読むと思います。なぜ神様はカインの献げ物を喜ばれなかったのだろう、神様がベジタリアンであればあるいはカインの方を喜ばれたのかもしれない、などとその理由付けをすると思うのです。しかし時として聖書は、私たち人間が求める合理的な説明や、納得のいく、説得力のある答えを提示してくれないことがあります。こうすれば神様は喜ばれる、と分かっているなら誰でもそのようにするでしょう。神様を信じていなくても、そうしておけば損は無い、無難に祀っておけとばかりに神様の好きなものを献げるでしょう。しかし今日の箇所が私たちに示すのは、神様の御心は分からない、ということであります。至極当たり前のことでありますが、意外とそのことを私たちは見落としがちです。どうすれば神が喜ばれるのか、何がすきなのか。そのことは聖書を読んでみても、ある程度しか分かりません。有限の私たちが、無限の存在である神様の細部にわたる思いを知ことなど到底不可能だということであります。

 つまり私たちは、神様の前にへりくだる、謙虚に身を慎む、ということしか出来ないと思うのです。神様の御心を何もかも知っている、と信じて疑わなかったのが、ファリサイ派の人たちです。イエス様はその彼らに否を唱えました。神の御心は神ご自身がお決めになる、と言って、律法主義的な神様の間違いを暴いたのです。
  
 私たちにとって神様とは、支え、守り、導いてくださる方であると同時に、絶対他者である方であります。私たちがどうあがいてもこれに太刀打ちできない、神の主権の下で働かれる絶対他者。これが我々の信じる神であるのです。その意味において、カインの献げ物を喜ばれなかったことは、神の下に正しく、私たちはそれを受け入れる民でしかありえないのです。その意味で、今日の箇所に対して私たちは、神様の行いの正しさや真偽を問うのではなく、絶対者である神様のなさった答えに対してカインがどう答えたのか、このことが重要になってくるのです。

 自分の献げ物に目を留められなかったカインに対して、6節で主は言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しくないなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。このように言われました。難しい表現ですのでこれを意訳するとこうなります。「良心にやましいことがなければ、落胆する必要はない。もしやましいことがあるなら、現在の自然な感情を、自分でコントロールせよ。野放しにされた感情は、あなたを罪へと巻き込んでいく」。このようになります。
つまりここでカインの中にやましさがあったと受け取ることも出来ます。カインの献げ物には心が無かった。神様への最も良いものを献げるという信仰がなかった。だからカインは感情を野放しにする方を選んだのではないでしょうか。

 最初の人間の死は、自然死ではなく、殺人でありました。このことが人間を象徴している、皮肉と言う事もできましょう。カインの兄弟殺しについては、8節のみに記されています。どうやって声を掛け、どのあたりの野原に連れて行き、何によって殺したのか、などの詳細な描写は省かれています。つまり最初に申し上げましたが、ここで重要なのは、カインの殺人それ自体ではなく、彼の罪に至る心なのです。

 9節~16節は「カインの裁判」と呼んでいる注解者がおりました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と主は呼ばれました。しかしこれは本当にどこにいるのか分からなくて言ったのではなく、カインが自分の罪にどう向き合い、どう悔い改めていくかを促す言葉と捉えてよいと思います。

 カインは結果的に、さまよい人として追放されることになりました。アダムとエバがエデンから追放されたことも記憶に新しいのに、その長男が次男を殺し、同じく追放されてしまうわけです。これが人間の現実だと聖書は言います。林嗣夫先生は、この追放されたカインを「選びの民から外されたという意味で最初の異邦人である」と言っています。面白い解釈であると思いつつ、それもまた事実であるとも思います。しかしこの異邦人となったカインのために、神様はどうなさったでしょうか。選びの民から外れた、罪を犯した、しかも殺人という神の似姿としての人間を殺すという罪の最たるものを見せ付けられる出来事に対して、神のなさり方は、私たちの想像を遥かに超えるものとなりました。

 すなわちこうです。13節「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負い切れません。今日あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう。』主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ、7倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者が誰も彼を打つ事の無いように、カインにしるしをつけられた」。このうに神様は宣言なさいます。神様は、兄弟と和解をせず、一方的に殺すという行為に走ったこの一人の人間を、手放さなしませんでした。混乱の状態の中にあるカインをも主はお招きになります。神は彼に安全の保証としてのしるしを与え、遠く離れた場所においても祝福を受けることを確認させるのです。最後に旧約学者のブルッグマンの言葉を引用して終わりたいと思います。「聖書の信仰は明快である。兄弟に対する粗暴な振る舞いは、死に値する行為である。しかしそれにもかかわらず、生きる事を求める神の御旨は、死の判決を受けた者に対しても働いている。~神は殺人を犯す者に対しても関心を失っておらず、彼について諦めておられないことを告げているのである」(現代聖書注解「創世記」)。 

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記3章1節-24節(Ⅱ) 2010年5月20日

        
  蛇の誘惑を受けたエバは、決して食べてはならない「善悪の知識の木」から取って食べ、またアダムも同じくそれを口にしました。それによって彼らは自らが裸であることを悟り、イチジクの葉をつづり合わせて腰布とした、とあります。

  今日の箇所3章の後半は、神様が庭師であるアダムとエバを呼び、彼らに説明を求めていることが書かれています。前回も申し上げましたが、神様はまずアダムに説明を求め、彼はエバの責任(ひいてはエバを作った神様の責任にしている!)にし、エバは蛇の責任にしています。そして面白いことに、神様は蛇に対して説明を求めていないわけです。私たちはこの箇所を読むとき、なぜ蛇がアダムとエバを誘惑したのか、という疑問が沸き起こると思います。誘惑するということはこの蛇にとって何らかのメリットがなければそんな唆しはしないし、見つかった場合自分にもその罪が振り掛かるわけですから、理由無く危ない橋を渡らせることはしないと思います。考えれば考えるほど疑問が出てきますが、しかしこの話の中で重要なのは、そういう細かいことを追及することではなくて、誘惑した者が悪いのではなく、神様との約束(契約)を知りながらも破ってしまう人間という存在に関して知るということ。それがこの箇所の中心点なのです。私たちは誘惑する人と、誘惑される人、どちらにも非があると考えます。しかし今日の箇所が言っているのは、誘惑される側、人間の側の問題の追及です。これは1章26節の我々の存在の本質とも関係しています。つまり、私たちが神の似姿として創造された、ということです。神の似姿、すなわち神の尊厳をまとったと看做されている人間が、神の約束を遵守できないものとなってしまったことが問題なのです。

  神の似姿とは何か、ということが、1章を学んだ時に質問にあがりましたが、F.トリブルという旧約学者は「神の似姿とは、ちょうど月をさしている人差し指のようなものだ」と言います。「指そのものは月ではないけれども、その指が示す方向を見ていくと月を見ることが出来る。それと同じように男と女は神の形そのものではないけれども、男と女の関係を見ていくと神の像が何であるのかが分かる。そして神の像そのものは神ではないけれども、神の像とは何かを見ていくと神が分かる」。このように言います。 つまりここで問題になっているのは、男と女の関係の中で、責任の押し付け合いをしているこの関係性の中に神の似姿を示す指は存在しない、ということが暗示されているのではないかと思います。そのため、蛇の誘惑にではなく、誘惑に遭いそれに負けた神の似姿としての人間の責任を問うておられるのではないでしょうか。


 ここでもう一つ注目したいことは、神様が最初に約束されたことがここで起こっていないということです。つまり、2章17節「ただし善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」このような約束がされていました。しかしここでアダムたちは生きているわけです。必ず死んでしまう、といいながらも、彼らはこのあとも暫く生き続けます。これは何を意味しているのか。ということが疑問になると思います。神様は嘘を言われたのだろうか。それとも神様の勘違いだったのだろうか。そんな議論もなされます。

  しかしこれらの矛盾は、これまでに様々な聖書学者たちによって考えられてまいりました。そして大きく分けて5つの説に区分できる。
 ①死なない存在だった人間が死すべき存在となった。(E.Speiser U.Cassuto) 
 ②古代人はこのような矛盾に気づかなかった。(H.Gunkel C.Westermann) 
 ③神の寛容。(関根正雄)
 ④神との霊的な関係が絶たれる(並木浩一)。
 ⑤しかし関根清三は第5の説を提唱する。「~2:17において神が嘘を吐いた、との解釈であ       る。~勿論この問いは我々の神義論的拒否感を引き起こすが、嘘には少なくとも二つの位相      がある。即ち、己の利益のために吐く嘘と他人のことを想って吐く嘘である。」(日本聖書      学研究所 「聖書の使信と伝達」 聖書学論集23 山本書店)この見解は大変興味深い。な      るほど、熱いお茶の入った湯呑を触ろうとしている乳幼児に対し、母親は「火傷するから触      っちゃだめよ。」と、少々大袈裟に、実際は火傷をするような熱さでなくとも言うではない      か。それこそ「己の利益のために吐く嘘」ではなく、まさに「他人のことを想って吐く嘘」      であるように思える。


以上のようにいくつもの説があるわけですが、重要なことは、ここでは実際の生命的な断絶としての死がもたらされた、というよりも、『神様との関係との断絶』が語られているのではないか、ということであります。私たちは3章5節の「どれを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」の言葉が、一つのキーワードになっていることに注目したいのです。つまりここに示されているのは、人間が人間であることをやめて神のようになる、という人間が心の奥底で持つ高ぶり(おごり)の心であります。私たち人間の中には、人間であることよりも、神のようになりたい、という超人的な存在となる事を求める心があるということです。

 川端純四郎という先生が次のようなことを言いました。
 宗教というものは、大きく分けて3つのパターンによって成り立っている。仏教型、新興宗教型、キリスト教型の3つである。仏教型は「無の宗教」。つまり諦めの中と、人間が人間という存在に固執しない中に生きることによって解脱し、この世的な感覚から抜け出すことが出来るものである。そして2つ目の新興宗教型は、人間が人間の限界に挑戦し、人間であることから神の領域へと向かおうとする、超人になろうとする宗教である。これは特にオウム真理教が問題を起こした時に報道されていた通り、水の中で何分間息を止めていられるか、修行によって座禅のまま宙に浮くことが出来るのか、などのようなものである。しかしキリスト教型は和解の宗教と川端氏は言う。神との関係の修復、関係性の再構築。これが神との和解である。

 前前回から言っていることですが、彼らは裸であった「ので」恥ずかしがりはしなかった、という読み方が採用されるならば、この二人はお互いに向き合って、素直な関係の中に生き、そして支えあうために神様は男と女を創造された、と言う事ができます。しかし善悪の知識の木の実を食べ、彼らはお互いに隠しあう存在となりました。そしてお互いのみならず、神様からも自らの身を隠す
者となりました。10節「彼は答えた。あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」。アダムはこのような自己意識を持つのです。つまりここに「必ず死んでしまう」という主の約束された言葉の真実の意味があると思うのです。蛇が問題にしていたのは、生物学的な生命活動の停止としての死でありました。しかし神様が問題にしていたのは、神と人との関係の死であったということです。それは神と人間との関係の崩壊であり、人間が神から授かった人間性を喪失した、ということなのです。ここに人間の原罪があり、この罪の中に人間は生きる存在となってしまった、というのです。
 この原罪を持ってしまった人間に対して神様は14節で、「このようなことをしたお前は、~呪われるものとなった」と言い、男と女に別々の苦しみを課せられます。なぜ女性は苦しんで子供を産むのか。なぜ男性は地を耕して生涯ひたいに汗して働き、遂には死んで塵に帰るのか、の理由がここに示されています。それが15節から19節に書かれている内容です。
 この中で一つだけ言うべきことは、16節の「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む」。という翻訳は実は間違っているのではないか、と言われだしたということです。以前この箇所の言葉は完全な人間への神の呪いとして考えられてきました。しかし現在の研究によりますと、ここには神の呪いと同時に、神の祝福が語られている、という読み方です。
 ここでは「孕みの苦しみ」とか「苦しんで子を産む」のように、孕みと苦しみ、出産と苦しみを続けて訳されています。これは直訳ですと、「あなたの苦しみと妊娠を大いに増す。あなたは苦しみの中で息子たちを産む」となる、というのです。つまりここでいう「苦しみ」は出産の苦しみではなく、生活上の諸々の労苦としての苦しみであると。そういう多くの労苦があっても、その中で神の祝福としての妊娠、子供たちの出産が約束されているということであるから、ここに祝福があるのだ、という解釈であります。創世記が書かれた当時のユダヤ人にとって父権制社会が当たり前ですし、妊娠は神の祝福、子ができないのは神の呪い、という直接的な価値感覚の中で生きていましたから、妊娠は言葉上それだけで祝福なわけです。ですから出産の苦しみが神の戒めを破ったことに対する罰である、という理解は修正されねばならない、とある学者たちは言うわけです。
 そして最後の20節~24節に、この女性が「エバ」と名付けられたと記されています。理由は彼女が全て命あるものの母となったからであると言います。(ハッバー(ヘブル)「命」)。彼女は命との強い結びつきが意識されてエバと名付けられました。なぜ彼女が命と強く結びついているのかは明らかではありませんが、おそらく2章23節の言葉、アダムとの関係つまり人間同士の関係と、神との関係を、罪と生命の中で問おうとする、という意味で、彼女は人間の本質としての「命」をその名前に受けた、のではないでしょうか。
 そのアダムとエバですが、彼らは結果的に、罪を犯しました。そしてエデンの園からの追放。つまり失楽園の出来事を迎えるわけです。23節「主なる神は彼をエデンの園から追い出し~」とあるように、神様は2人を追放したということです。約束を破ったペナルティーは失楽園でありました。しかし私たちは一つの言葉に注目したいのです。それは、23節の追放の言葉の前に、21節「主なる神は、アダムと女に、皮のころもを作って着せられた」。このようにあります。これは明らかに審きを越えた神様の保護であります。神様は彼らの罪をほったらかしに致しません。厳しく追及なさり、罰を与えられます。しかし裁くと同時に保護するのです。これが創世記の著者の神理解であります。神は裁いて追放して、あとは知りません、というのではなく、人間に対して、神様はどこまでも人格関係の中に立とうとなさっている、ということです。人間は神の前から身を隠し、避けてやり過ごそうとします。しかし神は人間に向きあうのです。逃亡しようとした人間に対して、向き合おうとしない我々に対して、その関係に否定せず、むしろ保護されるというのです。ここに創世記の書かれた状況による、神理解が示されています。神は捨て置かれない。たとえバビロン捕囚に遭って人質となろうとも、この捕らわれた我々は神に捨てられたわけではなく、今尚、神の保護を受ける存在足りえるのだ。犯した罪は非常に大きい。神との約束からの離反。破戒を行なった人間がいる。しかし神はそのような私たちですらも守られ、愛される方であるわけです。「神はその一人子を世の中にお与えになったほどに、世を愛された」と言われる神がここにおられる。このことを覚えたいと思います。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記2章4節b‐25節 2010年5月6日

  この箇所でのキーワードは「人間の創造」であります。「主なる神は、土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(2章7節)。先週も申し上げましたが、進化論と人間の創造の関係は、私たちにとってのチャレンジとなります。では現代的にこれをどう聞くのかということですが、私たちはこの話しによって進化論と信仰を二者択一にしてどちらかを切り捨てねばならない、と考える必要はありません。この記述は、史実としての物語ではなく、1章同様に、これも信仰告白の一つである、と考えてよいのではないかと思います。つまり象徴的に書かれている。人間は神とどのような関係にあるのか。男と女がどのような関係にあるのか。そして人間同士がどのような関係にあるのか、という事です。史実としての真実ではなく、真理について語られていると言い換えた方がよいでしょう。

  今日は4節bからということになりましたが、これは先週も言いましたように、4資料説(ヴェルハウゼン仮説)によって、祭司文書(P資料)からヤハウェ文書(J資料)に変わっている境目が4節である、と考えられているためそのように区切らせて頂きました。7節では「主なる神は、土(アダマ)の塵で(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。1章27節で既に人は作られているのに、2章7節で重複している、と思われるかもしれませんが、それは先ほどのP文書とJ文書のように、資料が違っているからです。これを聖書自体の矛盾と捕えるのは、聊か早計であろうと思います。

  8節ではエデンの園が設けられています。この「エデン」という詞の意味は、「歓喜」とか「喜び」という意味があるのではないかと言われています。しかしそれに対して、古代中近東の共通言語のアッカド語では「イディンヌ」という言葉がありまして、これが「荒れ野」という意味であり、「エデン」は「イディンヌ」に由来するとも言われております。勿論文脈から考えますと、エデンの園が荒れ野であるとは考えにくいのですが、言葉自体の由来としてはそうであるのかもしれません。エデンは大変豊かな場所としてイメージされています。そういう意味では歓喜の喜びの園である、というようがしっくりいくと思います。

  ここに2本の木が生えています。「命の木」と「善悪の知識の木」です。この2本の木が具体的に何の木であるのかは記されておりません。しかし命の木はナツメヤシをイメージしていたのではないか言われます。中近東の暑い砂漠の中で、椰子の木とオレンジ色の椰子の実が命を満たすオアシスになります。砂漠という死の世界でナツメヤシは命の木として強い印象を持っていたのではないでしょうか。「マイムマイム」というフォークダンスがありますが、ヘブライ語で水の事を「マイーム」と言います。つまり「水だ水だー」と言って歓喜の踊りをする、というのがあのダンスであるということです。砂漠の国では、水に苦労しない日本人とは違った感覚の中を生きているわけです。
次に「善悪の知識の木」に関してですが、これを食べて人間は神との約束を破るものとなった、ということですが、伝統的にこの実は「リンゴ」であるとされることが多いと思いますが、どこにもリンゴであるとは書かれていません。その理由はラテン語に由来するようです。中世の教会ではラテン語が公用語でありまして、ラテン語でリンゴの事を「Malus」マルスと言います。これに対して最後のSをMに変えますと「Malum」マルムとなって「悪」を意味する言葉になる、ということです。そこで神の命令に背いたこと、つまり悪を犯した木の実、ということで「マルス」リンゴで表わされるようになった、と言われています。
 
  10節以下には、4つの川の名前があります(ピション、ギボン、チグリス、ユーフラテス)。ここに著者(編者)にとっての世界観が示されています。神がこの世を造り、エデンの園から水が流れ出て全世界に広がっているという世界観です。ハビラ地方とはアラビア半島のことと言われます。ギボンは、クシュ地方の川と言われています。クシュがエチオピア周辺の事であるとするなら、ギボンはナイル川ではないかと考えられます。

  次の15節にはこうあります。「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。ここに「人間はなぜ創造されたのか」という命題の、答えの一つがあります。つまり「地を耕し、守ること」これが人間に与えられた使命である、というのです。地とは文字通り地の事、大地の事です。耕すとは、もともと「仕える」という意味の言葉であるということです。ヘブライ語には他にも耕すという言葉があるそうですが、それをあえて使わないで、「仕える」の意味の単語をあてているわけです。これは意図的なものと考えてよいと思います。つまり人間の生きる目的とは、地に仕えてこれを守ること。それが使命であり、目的である、ということです。1章26節にはこうありました「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海のうお、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。この「支配」という言葉がネックとなって、キリスト教会は自然破壊の思想を持っていると糾弾されます。現代の自然を破壊しているのは、これを支配してよい、と聖書に書かれてあるからだ、極めて人間主義的で暴力的になりやすい思想を持っているのだ、と批判されます。一キリスト者としてそのような批判は心の痛い言葉であります。しかし1章(つまりP文書)と2章(J文書)は対照的な解釈です。Pでは地を支配し、Jでは地に仕える。支配することと仕えることは、ある意味で矛盾したことでありますが、これが聖書の面白さです。一方的な概念の中でではなく、互いに矛盾しあうようなことを平気で並列させ、ここに書かれてある真意を読み取れ、と私たちにチャレンジを仕掛けているかのようでありましょう。

  18節以下を見てみましょう。「人間が一人でいるのは良くない。彼の為に相応しい助け手を作ろう」と神が言います。そしてこの最初の人アダムが寝ている隙に、あばら骨を一本取り出して、もう一人の人を造った。それがアダムの助け手となる「女」となるわけです。これを根拠に古来キリスト教では、男が最初に作られて、女は後に作られた、と考えられてきたわけです。ある種の男尊女卑と言いますか、男性優位主義の家父長制度を確立させるわけで
す。しかしよくよくこの箇所を読んでみると、意外な事が分かります。つまり「最初に作られたアダムという人が『男であった』」、とは何処を探しても書かれていないわけです。「ただ『人を造った』」と言われているだけであります。最初の段階では「人」は男であるとはどこにも書かれていない。つまりもう一人、性の異なる人を造った時、初めて男と女という性区別が付けられたわけです。ですから男と女の誕生は同時である、と聖書は言っているのです。男性という性は女性という性がなければ成り立たず、その反対もまた然りであります。しかしアダムが後になって男性である事が明らかになると、最初からこれを男として読んでしまうという間違いが生じてしまうわけです。
ですからここには、男が優れているとも、女が優位であるとも書かれていません。男性も、女性も、元々は土の塵のような儚いものであるが、神が命の息を吹き込んで生きるものとなった。すなわち人間は神なしには存在し得ない生き物である。このような神と人間との関係性について語られているのであります。
 
  次に注目したいのは、最後の節であります。人が男性と女性とに別れたのち、24節以下で次のように言われています。「それで人は、その父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
 高柳富夫氏は「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」という一文に問題があると言います(「いま、聖書を読む」梨の木舎)。旧約聖書はヘブル語で書かれているのですが、ヘブル語では「しかし」と「そして」というのは同じ言葉が使われます。ですから文脈によって使い分ける必要があります。つまり「人前で裸になるのは恥かしい」という先入観をもってこの文を訳してしまうと、「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」と訳されてしまうのです。しかし本来は「二人とも裸であった、だから恥ずかしいとは思わなかった」。と訳すことも出来るわけです。そしてそう解釈する人もおります。「裸である、だから恥ずかしくない」。と言うのはおかしく感じられます。しかしそれは「裸は恥ずかしい」という私たちの先入観があるからと言えます。

  ではここで聖書が何を言っているかという事ですが、この「裸であるから恥かしくなかった」というのが、この男女が一対一で向き合う関係の質を持っていた、という事を示しているのであります。つまりお互いがお互いに対して全く警戒しない関係。何も身構えることなく、お互いに対して裸でいられる事が出来る関係にあったというのです。人間は自分を隠します。また、自分以上の自分を装って虚勢を張ろうとします。しかし人間の本来の関係はそのようなものではないと創世記は言っているわけです。お互いが、ありのままでいられる関係。それこそがふさわしい助け手としての人間同士の関係である、と聖書は言うのです。

  24節には「父母を離れ」とありますが、最初の男女が父母を離れることなど起こりえませんから、これは明らかに矛盾ですが、創世記はそんなことはお構いなしに語ります。なぜなら創世記の出来事は、何度も言っておりますように、客観的な歴史事実を性格に語ることがその本分なのではなく、本質において男女の人間とはどのような者であるのか、が言いたいのです。

  つまり、一対一で向かい合人間同士の男女の関係。父母といういわゆる血縁関係を離れて霊的関係に結ばされる人間の関係が重要なのだと言い換えても良いかも知れません。人間はこの世に仕えるために、この世を愛するために造られ、人間同士の本来の関係も又、神の名によって結ばされた者として愛し合うために造られた。このことが今日の2章で言われているのではないでしょうか。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記1章~2章4節a 2010年4月22日

 
創世記の概略
 創世記という書名は、中国語の漢訳から来たものでそれを踏襲しています。
 LXXでは「ゲネシス・コスムウ」、ウルガタでは「ゲネシス」、ヘブライ語聖書ではベレーシート(「初めに」の意)

創世記は1章~11章までを原初史(始源史)と言われ、天地創造からノアの洪水までをそう呼んでいます。12章から最後の50章までを「父祖たちの物語」と言い、中でも12章1節~25章18節がアブラハム物語、25章19節~36章43節がヤコブ物語、37章~50章がヨセフ物語と呼ばれています。
 
 創世記の位置づけに関しては、モーセ五書、恐らく紀元前6世紀末から5世紀前半であると見られます。この書物は(特にモーセ五書全体を通して)、特定の人によって書かれたものではなく、それまで言い伝えられてきたもの、また新たに書き加えたもの、既に出来上がっていた文学作品(ヨセフ物語)等を組合わせて編纂されたものと考えられています。

 学問的には、ヤハウィスト資料(J)、エロヒスト資料(E)、祭司資料(P)の3資料によって書かれています。
ヤハウィスト(J)=人間の罪に対し神の救済の働きを主に叙述している。神名ヤハウェ。
エロヒスト (E)=「父祖の神」として幻や夢を通して人に神が顕現する(断片的)。神名エロヒーム
祭司    (P)=祭儀、祭司、系図や年代に関心を持ち、ワンパターンの定型的な表現や数字、人          名、地名を用いて、世界の宗教的、時間的、空間的秩序を叙述する特徴を持つ。神名         はエロヒームを用いるが、父祖に対しては「全能の神」エル・シャッダイが使われる


 創世記は聖書の第一の書物として、聖書全体のプロローグです。この書物は、私たちが根源的に持っている大命題が見事に提示されています。例えば、神の存在とは何か、人間とは何か、世界とは何か、なぜ人生には悩みや悲しみがあるのか、なぜ人間には罪があるのか、その罪をもって私たちはどう生きればよいのか、など、聖書の根本主題がここに提示されている、と言ってよいのではないかと思います。

 冒頭の1章1節は印象深い出だしになっています。「初めに神は天地を創造された」。ここで面白いのは、神の存在証明などを一切せず、「神は」と語りだしているということです。神様はいるのか、いないのか、どこにどうやって存在するのか、というようなことを述べず、神の存在そのものは自明のこと、明白な根本事実として語りだしています。

 2節「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。この言葉には大変に深い思想が込められていると思います。神様は1日に一つずつ作業を進めていきまして、少しずつこの世界をお造りになっていくわけですけれども、その一番初めに光をお造りになった、というわけです。天地創造はこのあと、2日目に空と海を創造し、3日目に海と陸を、そして4日目に天体を創造する、という具合に続いていくわけです。4日目に天体を造っているのに、1日目に光が作られている、というのは、どこと無く矛盾を感じるかもしれません。
 私たちは光は天体から、夜は月や灯火から与えられるものであると考えています。しかし聖書はそうではないと言います。この1日目で言われている光というのは天体の光ではなく、もっと根源的なものであると考えているわけです。

 またこの光を創造した力が「言葉」であったということもまた興味深いことです。ヨハネ福音書に冒頭にある「はじめに言葉があった」と始まるこの4節に「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれていますが、この聖書の根本の光、このことを想起させられます。また、詩編には「御言葉はわが足の灯火」という言葉がありますように、光は秩序であり、道しるべであり、また希望であります。それが神の言葉の根源であるということが創世記の中から読み取ることが出来ると思います。

3日目に海と陸、4日目に天体、5日目に水中と空の動植物の創造が語られます。ここにあるのは、4日目の天体、イスラエルにも大きな誘惑であった天体崇拝と関連して、太陽、月、星のランクを落としているのだと考えられています。6日目には神の形にかたどって人間が創造されたと書かれています。しかし今日はこのことに触れずに、来週に持ち越したいと思います。

 さて、今日の話を終えるにあたって、一つ注目しておきたいことがあります。それは今日の箇所の最も印象的な言葉、1章1節です。
 初めに神が天地を創造される以前はどうなっていたのだろうか、という疑問が浮かびます。しかしこれこそが私たちの神様の根本であり、また中心でもあるメッセージが込められています。すなわち「神は無から有をお造りになった」ということです。無から有を造るというのは、物質的な事柄として考えることに留まらず、私たちの心のうちの、また生活のうちで与えられる、全ての無が有に転じさせる、その根源的な力をお持ちである、ということを覚えたいのです。
 つまり、私たちはこの世の中に生き、生活し、紆余曲折ありながらも歩んでいく者たちでありますが、その中には多くの不毛な出来事も含まれることであろうと思います。人間がその人生の中で必ず併せ持つ、全ての無の出来事。ここから何も生み出されることは無い、と思われる出来事。ここには何の幸せもなく、何の生きがいもないと思われる状況があります。しかし聖書の神は、創世記の1章1節の言葉によって私たちに語り掛けます。「私はあなたの無から有を創造する」と。
 私たちに振り掛かり押し寄せる、全ての挫折、失望、不毛な思い、絶望感の全てを、神はご存知であり、さらに神は、その無から有を創造なさる方である。そのことを信じ、また信じさせられる出来事こそが、「天地創造」であるのです。

5月30日の礼拝予定

聖 書  ヨエル書 3:1-5   (旧約P.1425)
     使徒言行録2:14-36 (新約P.215 )

説教題 「ペトロの説教」

説教者  三輪地塩 牧師