2025.7.13 週報掲載の説教

2025.7.13 週報掲載の説教

<2025年6月1日の説教から

『わたしを信じなくても、その業を信じなさい』
ヨハネによる福音書10章22節〜42節

鈴木 美津子

 
主イエスがご自分を神の子・救い主として語り、神の業を示すたびに、人々は「信じる者」と「信じない者」に分かれた。ヨハネ福音書は、その対立が主イエスを十字架へと向かわせたと語る。主イエスの語った言葉や癒しの業は、人々を信仰へと導くものである一方、ユダヤ人指導者たちには神への冒瀆と受け取られ、殺意を抱かせるものであったのだ。主イエスはまさに、神の子・キリストであるがゆえに、拒絶され、殺されたのだ。

なぜ主イエスを信じる者と信じない者がいるのか、その答えは私たちには分からない。主イエスの羊か否か、それは神の選びによるのだと福音書は語る。そして、選ばれた者には、神の御心に従って歩むことが求められるのだ、と。

主イエスとユダヤ人たちとのやり取りは「神殿奉献記念祭」の最中に行われた。偶像礼拝から信仰を守ったユダ・マカバイの記憶が強く意識される中、人々は主イエスに「メシアならはっきりそう言いなさい」と詰め寄った。主イエスは「わたしは父と一つである」と答え、人々は冒瀆の罪で石を取る。彼らのメシア理解は、イスラエル民族をローマから解放する政治的救い主である。しかし主イエスが示された救い主の姿は、病人や罪人を癒し、愛をもって仕える方であった。

主イエスは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と語る。つまり、自分たちの期待するメシア像ではなく、主イエスが実際に行ってきた業に目を向け、それによって主イエスが何者かを知れと語っているのである。主イエスの業、十字架の死にまで至る愛は、まさに神の御業である。

私たちは、主イエスの羊としてその御声に耳を傾け、従う者とされた。そのことは、私たちの歩みと結ぶ実によって明らかになる。キリスト者とは名ばかりではなく、キリスト者としての実を結ぶことが求められる。だからこそ、私たちは聖霊の助けを祈り求めながら、日々、主イエスの御声を聞き取り、御声に従い、その愛に生きる者として歩んでいくのである。

2025.7.6 週報掲載の説教

2025.7.6 週報掲載の説教

<2025年5月18日の説教から

『一つの群れになる』

ヨハネによる福音書10章16節〜30節

牧師  鈴木美津子

わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16)」

「この囲いに入っていないほかの羊」とは、ユダヤ人以外の、いわゆる異邦人である主イエスの民を指している。すなわち、ユダヤ人ではなくて主イエスを信じている私たちこそ、「この囲いに入っていない他の羊たち」である。主イエスは「その羊をも導かねばならない」と言われる。「〜せねばならない」と訳されている言葉は、神のご計画に基づく必然を強調する言葉で「導くことになっている」というような意味である。さらに、主イエスは「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言われる。つまり、今は教会の外にいて、主イエスと無関係に生活を続けている者も、主イエスの羊である以上、必ず主イエスの言葉を聞き分け、信仰が与えられ、教会へと導かれることになっている、これがここで示されている真理である。その上で主イエスは、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」、と結論づけられる。この文は、原文をそのまま訳すと、「彼らは一つの羊となる、一人の羊飼いによって」となる。多くの羊が一つの羊になる、そして、それを導く一人の羊飼いがおられる、これが教会の真の姿である。羊は目が悪く、方向音痴で、飼い主がいなければ生きていけない弱い生き物である。それは、まるで、私たちのようではないか。しかし、私たちのために命を捨てた十字架の主イエスがここにおられる。その主イエスは、天の父とご自身の間にある永遠の愛の交わりと同じ交わりに与る者として私たちを囲いの中に加えてくださった。主イエスの羊は主イエスのものであり、父なる神様のものである。この一週も主イエスの御声を聞き、促しを受け、迷わずに天の御国を目指すのである。

2025.6.29 週報掲載の説教

2025.6.29 週報掲載の説教

<2025年5月11日の説教から

『良い羊飼い』

ヨハネによる福音書10章1節〜21節

牧師  鈴木美津子

主イエスは「羊飼いのたとえ」の中で、「羊はその声を聞き分ける」と言われ、さらには「羊はその声を知っているので、ついて行く」と言われた。まさに、9章で主イエスの御声を聞いて、「主よ、信じます」と言ってひざまずいた生まれつきの盲人であった人は、主イエスの羊であったのだ。主イエスはこのたとえを通して、ユダヤの指導者であるファリサイ派の人々ではなく、御自分こそが門を通って入ってきた真の羊飼いであると言われる。そして、そのことはファリサイ派の人々と主イエスの、生まれつきの盲人であった人に対して接した態度で明らかである。自分たちを牧者、羊飼いと自認していたファリサイ派の人々はかつて盲人であった人の証言を信じようとはしなかった。彼らはかつて盲人であった人が、主イエスを神のもとから来られた方と証言したため、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と外に追い出した。彼をユダヤ人の社会から追放したのだ。

では門から入ってきた羊飼いである主イエスはどうであったか。この人が「イエスはメシアである」と公に言い表したことによって、会堂から追放されたと聞き、この人を探し出して出会って、御自分が神の救いをもたらす人の子であることを示された。ファリサイ派の人々は、自分たちがかつて盲人であった人を追い出したと思っているのであるが、主イエスに言わせればそうではなく、主イエスに名前を呼ばれて、主イエスのもとへと連れ出されたのである。

つまり彼は、主イエスの羊なのである。

私たちも主イエスを主と信じるがゆえに、社会から除け者にされて寂しい思いをするということがあるかも知れない。しかし、主イエスはそのようにして、私たちの名前を呼んでくださり、私たちを御自分の群れであるキリストの教会へと迎え入れてくださる。そのようにしてイエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださる。私たちは、自分が主イエスに名前を呼んでいただき、主イエスに導かれて歩んでいる羊であることを見出すとき、このたとえをはっきりと聞き取ることができるのである。

2025.6.15 週報掲載の説教

2025.6.15 週報掲載の説教

<2025年5月4日の説教から>

『見える者、見えない者』

ヨハネによる福音書9章35節〜41節

鈴木 美津子

 
主イエスの「あなたは人の子を信じるか。(35)」との問いに、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。(36)」と、その人は尋ねた。生まれつき目の見えなかったこの人は、元は道端に座って物乞いをしていた。彼がどこまでメシアのことを聞いていたのかは分からない。それにもかかわらず、この人は、突然目の前に現れた人に真剣に尋ねたのだ。ここで彼が「主よ」と言っているのは、単に、ご主人さま、旦那さまといった言葉で、深い意味はないと考えられる。主イエスは、まだこの人に自分があなたを癒したとは言っていない。彼は、自分に問いかけるお方に「『人の子』と言うお方、信ずべきお方は一体どんな人か、その人を信じたい。どうすればよいのか」と問うたのである。彼は、その人こそ、イエスと呼ばれる人であり、自分の目を開けて見えるようにしてくれた存在、神から来た人、メシアに違いないと信じていたのである。

主イエスは、彼に答えられる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。(37)」と。彼が、目を開けていただいたときから、会いたいと願っていたイエスと言うお方が、今、目の前にいる人だと言うのである。そして、このお方は、自ら、「人の子」と名乗り、ご自分が救い主メシアであることを隠されないお方であった。彼が、どれほど感激し、喜んだのかは、その時の彼の行動と言葉とを見れば分かることである。彼は「主よ、信じます。」と言って、ひざまずいた。このときの「主よ」とは、自分をその人のものとして下さる方、ご主人と言う意味である。彼は、すぐに主イエスの前にひざまずき、礼拝の姿勢を取ったのである。

霊の目を開いていただいた者は、主イエスを信じ、礼拝する者に変えられるのだ。この人のように主の御前にひざまずき、礼拝の姿勢をとること。これこそが、わたしたちが第一になすべきことである。主イエスは、わたしたちの心の目、霊の目を開いて下さる。それは、この癒されたこの人のように、私たちもまた、すべてが一度になされることではなく段階的に、また繰り返し与えられる恵みなのである。

2025.6.8 週報掲載の説教

2025.6.8 週報掲載の説教

<2025年4月27日の説教から>

『神のもとから来られた方』

ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章13節〜34節

牧師 鈴木 美津子

 
あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。(25)

生まれつき目が見えなかった男の人にとって知っているただ一つのことは、「目の見えなかったわたしが今は見える」ということであった。そして、これは主イエスを通して神が生きて働いておられることが見えるということでもある。5章17節で、主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われた。この生まれつき目が見えなかった男の人は、主イエスに目を開けていただいた者として、主イエスの祈りを神が聞いてくださり、主イエスを通して神が生きて働いておられることを見ることができたのである。そして、そのことは主イエスを信じる私たち一人一人においても言えることである。主イエスの御名においてささげられる礼拝を通して神と出会い、神が生きて働いておられることを見るまなざしを私たちも与えられるからである。聖霊によって開かれた心の目によって、主イエスの十字架に、私たちに対する神の愛を見ることができる者とされたのである。

私たちが知っているただ一つのこと、それは主イエスの十字架の死が、わたしに対する神の愛の確かなしるしであるということ。私たちはそのことをもはや疑うことができないほどに、聖霊によって証印を押されている。それゆえ、私たちは主イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを公に言い表さずにはいられない。

ユダヤ人たちは「神に栄光を帰しなさい」と言って、かつて盲人であった男の人を再び尋問した。その彼は自分の目を開けてくれた主イエスというお方が、神のもとから来られたことを公に言い表すことによって神に栄光を帰したのである。私たちも聖霊によって心の目を開けていただいた者として、主イエスを神のもとから来られた救い主であると公に言い表し、神に栄光を帰すことが求められている。神がお遣わしになった主イエスを神から遣わされた者として信じ、自分の口で言い表すこと。それが神に栄光を帰すことである。

2025.6.1 週報掲載の説教

2025.6.1 週報掲載の説教

<2025年3月23日の説教から>

『神の業が現れるために』

ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章1節〜12節

牧師 鈴木 美津子

 
生まれつき目の見えない一人の人を前に、弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と主イエスに尋ねた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が

この人に現れるためである」と、主イエスは答えられた。

主イエスは、今、この人に現れている苦しみ、不幸の原因を過去に求めて納得すると言う方法を取らない。そうではなく、わたしたちがまだ知らない、出会っていないこれからのこと、将来、まさにこれから来るというそのことによって、あなたたちは必ず納得できると言われる。今の苦しみと釣り合いが取れるものを過去に求めないで、これから先のことに求めることによってそれが出来ると言われるのである。

わたしたちは、明日、いや、次の瞬間に何が起きるか知らない。知らされていない。しかし、主イエスはすべてを知っておられる。そのお方が、約束して下さる。わたしたちは、すでに経験してきたこと、過去のことについて、あのときああしておけば、こうしておけばとどれほど悔やんで、嘆いても、悩みは深まるばかりで、何の解決にもならない。それは単なるマイナス思考である。そうではなく、今がゼロの地点、いやマイナスの地点であったとしても、これから先にプラスがある、だから、これから加えて行けばよいのだ。これから何をするのか。神が何を下さるのか、これに期待するのである。教会には十字架がある。十字架は大きなプラスの字をしているのだ。

道端にずっと座っていた男の人は、立ち上がった。そして、シロアムの池にまで行ってその目に塗ってもらった泥を洗い落とした。一体何の意味があるのか、疑いもあったことであろう。しかしその疑いを超えて、その人は行動したのだ。主イエスがそのように導いてくださったと信じて従った。マイナスの場所、くぼんだ地にうずくまるようにして生きてきた、この人は、主イエスに導かれてプラスの人生へと歩み始めたのである。

その主イエスは、男の人を招いたように、今わたしたちをも招いてくださっている。あなたも同じように立ち上がって、そしてシロアムに行け。そして、わたしに従え、と。