2020.2.23 週報掲載の説教

<2019年5月26日説教から>

『アリマタヤのヨセフの奉仕』
マルコによる福音書15章42節~47節

牧師 三輪地塩

アリマタヤ出身のヨセフは「身分の高い議員」つまり「最高法院」メンバーあった。真夜中に秘密裏にイエス捕え、十字架刑に持ち込むために総督ピラトに引き渡した「あの」最高法院のメンバーであった。ヨセフはイエスの処刑に反対することはできなかった。自分の身の安全を考えたのだろう。マタイ福音書では彼のことを「アリマタヤ出身の金持ち」と述べ、ヨハネ福音書では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と伝えている。ヨセフは地位も財産も持っていたユダヤの中心的な議員であった。その特権を取り上げられてしまう危険を冒してまでイエスを弁護することはできなかったのだろう。彼はイエスの十字架に表立って賛成はしなかったものの、「反対をしない」という「賛成」をしたのである。沈黙という是認である。

たが彼は「神の国の到来」を待ち望んでいた人であったとあり、イエス・キリストの救いを信じ、希望をもち、神の国を見据えて生きていた人物であった。しかし保身のためにイエスの保釈を主張できなかった。それゆえに彼は自分に失望していたと思われる。何も出来ず、尻込みする信仰。立場的に十字架回避を主張できたにもかかわらず、自分かわいさに負けてしまった、いわば「ヘタレの信仰」であった。

彼は、イエスの遺骸を前に、せめてもの償いを行なった。神の国に希望を持つ者として、「勇気を出して」「受け身にならず」「保身に走らず」、ピラトのところへ行き、遺体を渡してくれるようにと、評判が悪くなることを覚悟の上で、願い出たのであった。

トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』という本の中で、彼は次のように言う。

「今や、イエスの天国を慕う者は多くある。しかし彼の十字架を負う者は少ない。彼の慰めを求める者は多い。しかし彼の苦難を願う者は少ない。「私たちは皆、彼と共に喜ぶ事を願う。しかし彼のために多少でも苦しむ事を望む者は稀である。」

このとき、ヨセフは多少なりとも「苦しみを望んだ」と言える。自分の罪を省みて、自らの為すべきことを考え、自らの罪の赦しを求めつつ、キリストの死に、ほんの少しだけ関わった。

2020.2.2 週報掲載の説教

<2019年5月19日説教から>

『本当にこの人は神の子だった』
マルコによる福音書15章33節~41節

牧師 三輪地塩

 
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と語る場面が、詩編22編の言葉の引用である、という解釈がある。この22編の最後が神讃美で終わっているため、このキリストの言葉自体が神讃美であるという解釈があるようだ。しかしキリストの十字架が、そのような「神への従順」「堅い信仰」などのような美しさが強調された出来事とは到底思えない。むしろ、極限まで、痛みと、孤独の中を歩み、恐怖と、あざけり、傍観、妬み、憎しみの中で、本当の苦しみの死、世から切り捨てられた思いを持って迎えられた十字架だった、と理解すべきではないかと思う。それを知る時、我々は「罪の贖い主」としてのキリストの存在を正面から受け取ることができるのではなかろうか。

この十字架の出来事の下ではユダヤ人たちはイエスを見上げて口々にこう言った。「そら、エリヤを呼んでいる」「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」と。当時のユダヤ人の言い伝えでは「旧約預言者のエリヤは、地上にいる信仰者が苦しみに遭うと、そこに現われて、その信仰者を助ける」ということが言われていた。「そこに居合わせた人々」は、この伝承を知っていたのでユダヤ人と思われる。このユダヤ人たちは、興味本位で、半ば楽しみながら眺めている。彼らはイエスの苦しみを楽しんでいるのである。この罪深さこそが、我々の罪の本質を如実に表わしていると言える。決して間違ってはならないことは、「ユダヤ人が残忍」なのではなく「人間が残忍」なのだということ。

インターネット・SNSが爆発的に広がり、世界の災害や戦争の情報を瞬時に受け取ることが出来る時代である。だが我々は、その情報を対岸の火事として、影響なく生きていける自分たちの安心に囲まれて、心のどこかで楽しんで見てはいないか。自分の事じゃないから、真剣にというよい、興味本位で楽しんでしまってはいないか。もしそのような思いが心のどこかにでもあるならば、我々は、十字架の下で「エリヤが来るのを待っている」罪人の一人と言える。キリストの十字架は、この我々の罪のために起こったのだ。

2020.1.26 週報掲載の説教

<2019年5月12日説教から>

『自分は救えないイエス』
マルコによる福音書15章21節~32節

牧師 三輪地塩

 
イエスは、ゴルゴタの丘に連れ出された。そこへシモンという男が通りかかる。彼は「アレクサンドロとルフォスという二人の息子の父親であった」。「キレネ人」だったことから、現在のリビア、つまり北アフリカ出身者であることが分かる。彼がなぜここにいたのかは分からない。元々エルサレム近郊で働いていたのか、過ぎ越し祭の為にはるばるキレネから来たのか。一つだけ確かなことは、「たまたまそこを通りかかった」、ということである。偶然そこを通りかかったため、彼はイエスの代わりに「十字架」を背負わされる羽目になる。彼にとっては、見ず知らずのイエス某のために重労働を強いられることは、とんだとばっちりであった。

だがこのキレネ人シモンは、この強いられた重労働に対し、何の文句も言っていない。彼は、この箇所以外何処にも出てこない。十字架をイエスの代わりに背負わされた、ということだけが聖書に記されている。

しかし、ローマ書16章13節には、「主に結ばれている、選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく」とある。これが同一人物であるか議論の分かれるところであるが、おそらくこの箇所に出てくる「ルフォス」ではないかと考えられている。つまり、父であるキレネ人シモンが、この十字架を背負わされたことを切っ掛けにして、シモンの一家は、キリストと出会ったと考えられる。たまたまそこを通りかかったように描かれているが、この偶然の出会いの中に、神との必然の出会いが示されている。

コヘレトの言葉3章11節にはこう記されている。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」

このように、全ての行為は、主の目に正しく値高いものとなる。キリストとの出会い方は様々であっても、全ては神の配剤、神の計画の中にある。

2020.1.12 週報掲載の説教

<2019年5月5日の説教から>

マルコによる福音書15章16節-20節

『唾を吐きかけて拝む』
三輪 地塩

宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』で、千尋(ちひろ)という主人公が、湯婆婆(ゆばーば)と呼ばれる魔女の下で働く時、名前から下の部分を取られ、「千」(せん)と呼ばれ、湯婆婆に支配される場面がある。名前を奪われることは、その人自身にある尊厳を失うことになる。よく知られたことだが、アウシュビッツの看守も、ユダヤ人たちを氏名ではなく番号で呼ぶことによって、「そのひと性」を失わせるという手法を取り、ナンバリングされた「物」として扱った。

この聖書の場面でも同様に、「イエス」とは呼ばず「王」と呼ぶ。これは侮辱としての呼び名である。意図的に実名を伏せたのかどうかは分からないが、少なくとも、政治・軍事権力者たちが「全員揃って」、イエスを孤立させ、尊厳を侵害し、孤立させたことは明らかであろう。このような侮辱行為の中に「十字架」がある。

この侮辱をしたローマ兵について、考古学的なことであるが、この時のローマ兵は、本物のローマ人ではなく、サラリーを得て従事している外国人傭兵であった。だが、イタリア半島からエルサレムに多くのローマ人を連れてくるのはコスト的にも無駄なため、現地募集の方法を採っていたと考えられる。この時、ローマ軍を構成していたのは、イスラエルとは仲が悪かったシリア人であった。イスラエルはシリアと何度も戦争を繰り返し(現在に至るまで!)、喧嘩が絶えない関係であった。このような隣国との不和を巧みに利用した傭兵制度は、ユダヤ地方を抑え付けるには十分だった。傭兵たちの暴力はそれゆえに憎悪に満ちたものになっていたかもしれない。マルコによる福音書の読者は、ここで、あらゆる軽蔑と恥辱を受けながらも神に忠実を尽くした「預言者イザヤ」の「苦難の僕」(53章)を思い起こす。

キリスト教の「罪」概念を伝えると、たびたび「キリストを十字架に架けたのは私じゃないのに、なぜ我々は罪人と呼ばれるのか」と質問される。確かに「罪」に飛躍があるように思われるかもしれない。しかし、キリスト教信仰における「罪」とは、「実行犯」に対する罪だけではなく、その罪の計画者となり得る全ての者の罪、すなわち我々が本質的に持っている「内在的罪」の全てを含んでいるのである。

2020.1.5 の礼拝案内

週 報 752020.1.5
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。    (ルカによる福音書2章49節~50節)

主 日 礼 拝  午前 10:30
<新年合同礼拝・聖餐式>

奏楽  板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞 詩編119編105節

*讃 詠  545b

*罪の告白と赦し 交読詩編5編12節~13節

*讃美歌  74

<神の言葉>
聖 書 申命記16章16節~17節(旧約P.307)

ルカによる福音書2章39節~52節   (新約P.104)

祈 り

*讃美歌  411

説  教   「少年イエス物語」   三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌  Ⅱ182

*日本キリスト教会信仰の告白

聖餐式  204

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  541

*派遣と祝福

*後 奏

聖餐補佐 松谷、三浦、安井、増田

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礼拝当番 (今週) 加藤、新畑、武政み、中山莉

(次週) 松谷、岩本、浜田、浜野

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掃除当番 (今週) 松本、浜田、佐藤真、加藤ヨ

板垣、草野

(次週) 薄田、青木、志賀洋、越智

加藤純、平野、白川

☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください

2020.1.5 週報掲載の説教

<2019年4月28日の説教から>

マルコによる福音書15章1節-15節

『イエスとバラバ』
三輪 地塩

2020年を新しい思いで迎えようとしている我々に「犯罪者バラバ」の箇所が示された。明けましておめでとうと言えない「バラバ釈放」について聖書は語る。

ピラトは、毎年ユダヤの慣習となっている「過越祭の恩赦」について民衆に「誰を釈放して欲しいかと」問うた。当時牢獄に入っていた者の一人に「バラバ」という男がおり、彼は政治犯であった。群衆は彼を釈放しろと要求する。もっと正確に言うならば「祭司長たちは、群衆を煽動し、イエスではなく「バラバを釈放せよ」と言わせた」のであった。

その結果釈放されたのはバラバであった。ピラトはイエスを群衆に示し、「この男が一体どんな悪事を働いたというのか」と問うも、群衆は取り合わず「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放せよ」と騒ぎ立てるのであった。ピラトは、これ以上群衆に騒がれてしまうと、混乱をきたすと考えたのだろう、祭司長たちの要求通りイエスを鞭で打ち、十字架の準備をするのである。

この箇所で重要なのは、10節「祭司長たちは、ねたみのためにイエスを引き渡した」ということにある。彼らの妬みの原因は「イエスが真実な人物であったから」である。祭司長たちは人一倍権威欲と名誉欲があり、誰からも尊敬されて一目置かれたいという欲を持っていたと思われる。だが自分たちにではなく、イエスに大勢の人たちが従った。イエスが、神の真実を語れば語るほど、人々は励まされ、神の言葉の恵みに気づいていく。しかし反比例するように、祭司長たちの権威は失われ、焦り、妬みを膨らませていくのである。イエスを排除しようとする彼らの企みと、その権力を持つ彼らは、民衆を煽動し、焚きつけ、イエスを悪人に仕立てて行こうとする。民衆はまんまと乗せられてしまう、無思慮な群衆の行動が、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と繰り返される言葉で表現されている。心が痛くなる場面である。

我々の国はどうだろうか。我々の住んでいる町はどうだろうか。新しい年を迎え、われわれ民衆が無思慮であることを肝に銘じつつ、しかしキリストの福音と共に、「鳩のような素直さと、蛇のような賢さ」(マタイ10:16)によって、為政者に煽動されることなく、思慮深く歩む一年でありたい。

2019.12.29 週報掲載の説教

<2019年4月14日の説教から>

イエスを三度知らないという

マルコによる福音書14章66節~72節

牧師 三輪地塩

この箇所は、レントや受難週の時期になると、何度も読む機会があるため、教会に長く来ている方々は、そらんじる事も出来るほど聞いてきただろう。弟子ペトロが、大祭司の邸宅の庭で、イエスとの関係を三度否定したのであるが、その理由は「周りが敵だらけの中、イエスとの関係を肯定してしまうと、自分の命が危うかったから」、つまり「恐怖が彼を否定させた」と解釈されうる。だが、ヨハネ福音書18章15節以下には、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は~~」と書かれており、イエスの「もう一人の弟子」と言われる人物が大祭司カイアファと知り合いであったことが示される。そうであるならば、この「三度の否認」は「命の危険」によるものではなく、他の蓋然性の高い理由を考えるならば「恥ずかしかったから否認した」ということにでもなり得るだろうか。遠藤周作の『沈黙』のテーマにもなるが、(踏絵の)キリストは、命の危険を押して殉教の道を行こうとする宣教師に対し「わたしを踏め」と迫る。このことについての信仰的判断については当該の小説に譲ることとして、もしペトロに命の危険が生じていなかったとすれば、情状酌量の余地はなくなる。ペトロは思ったのかもしれない。「今、目の前で裁かれようとしている、この犯罪者(とされている)、イエスの仲間であると思われるのは恥ずかしい」と。或いは「ガリラヤの片田舎から出てきたおのぼりさんが、意気揚々とエルサレムに入城してきたが、今や見る影もなく弱々しく、惨めに立たされ、尋問されている、あの人の仲間であると見られることが「恥ずかしい」と。少々極端な言い方をするならば、ここで起こっている出来事は、キリシタンの「踏み絵」のような信仰の戦いではなく、「クリスチャンであることを友人やご近所さんに隠そうとしてしまう、私たちの心の中の「それ」なのである。ペトロの三度の否認は、ペトロの「高尚な信仰の戦い」ではない。私たちの「日常に溢れている信仰者の内的な戦い」なのである。

2019.12.15 週報掲載の説教

<2019年4月7日説教から>

イエスの裁判

マルコによる福音書14章53節~65節

牧師 三輪地塩

 
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。

主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。

また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。

律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。

過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。