2024.4.14 の週報掲載の説教

2024.4.14 の週報掲載の説教
<2024年2月25日説教>

『独り子である神』
ヨハネによる福音書1章14節~18節

牧師 鈴木 美津子

 
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(14)」

この箇所は、ヨハネによる福音書におけるクリスマス出来事の記述である。ただし、ここには、他の福音書と違って、天使も羊飼いも登場しない。なぜなら、この福音書は、主イエスがどこで、どのようにお生まれになったのかということではなく、クリスマスの出来事とは一体何であったのか、主イエスの誕生とは一体何なのか、どういう意味を持った出来事なのかということを語っているからである。

言が肉体をもった」、これこそがクリスマスの重要な出来事なのだと告げる。「言」とはもちろん、天地を神様と共に造り、初めから神と共におられた、そして神であるイエス・キリストのことである。この「言」が肉体をもち、人間となられた。この出来事が真にクリスマスの出来事である。言は肉をとって人になった。しかし言は神であることをやめたのではない。神でありながら、人となったのだ。人となったということは、時間や空間というものに制限された存在になったということ、弱さをもった存在になったということである。永遠の神であり、栄光に満ちた聖なるお方イエス・キリスト。そのお方が、おとめマリアを母として、弱い小さなひとりの男の子として、この世に誕生した、この不思議、それがクリスマスである。
このクリスマスの出来事を「肉を受ける」と書いて、「受肉」と言う。この「受肉の出来事」、これは「秘儀」というべき出来事であり、私たち人間には説明することができない。「受肉」という出来事は秘儀であり、説明しようがないからである。しかし、この「秘儀」の上に私たちの救いがかかっていることも事実である。もしイエス・キリストが真の神様でなければ、私たち人間の罪を全て担うなどということは出来ない。もし、イエス・キリストが真の人間でなければ、十字架の死によって、私たち人間の身代わりになることは出来ない。この「受肉」という秘儀が、主イエスの十字架による私たちの救いの根拠である。これは、私たちの「救い」ため、私たちを罪から解き放つための出来事である。そして、そのことを伝えるために、ヨハネ福音書は記されたのである。

2024.4.7 の週報掲載の説教

2024.4.7 の週報掲載の説教
<2024年2月18日説教>

『証し人ヨハネ』
ヨハネによる福音書1章6節~13節

牧師 鈴木 美津子

 
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。(6-7)」

ここに登場する「ヨハネ」は、主イエスより先に生まれ、主イエス様に先だってヨルダン川に忽然と姿を現わした洗礼者ヨハネのことである。そして、彼は主イエスに洗礼を授けた預言者である。この当時、洗礼者ヨハネは、悔い改めを求める説教をし、ヨルダン川で洗礼を授け、多くの人々から支持され、大変な影響力を持っていた。「洗礼者ヨハネこそが旧約の預言者によって預言されてきた救い主、メシアではないか」、そのように思っていた人も少なくなかったのだ。

しかし聖書は、洗礼者ヨハネは主イエス・キリストについて証しするために来たのだと告げている。神に選ばれ、遣わされた人であるので、洗礼者ヨハネもまた偉大な預言者であるに違いない。しかし、彼は、あくまで主イエスを指し示す人であり、主イエス抜きにして偉大な人ということではない。8節に「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」とある。つまり、洗礼者ヨハネは光ではない。光は主イエス・キリストである。彼が光について、つまり主イエス・キリストについて証しをするというのは、「主イエスが誰であるか、どんな方であるのか、そのことを告げる」ということ。そして、この証しの目的は、つまり洗礼者ヨハネの目的は、彼の証しを聞く人が「主イエス・キリストを信じるようになる」ということである。預言者として彼の使命は、正確に主イエス・キリストを指し示すということなのである。
この洗礼者ヨハネの役割を現代において担っているのが、教会であり、私たちキリスト者である。教会に来れば主イエスが分かる、キリスト者に出会えば主イエスが分かる、そのような使命を与えられた者として私たちは、ここに、この浦和教会に立てられているのである。

 

2024.3.31 の週報掲載の説教

2024.3.31 の週報掲載の説教

<2024年2月11日説教>

『初めに言があった』
ヨハネによる福音書1章1節~5節

牧師 鈴木 美津子

 
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1)」

「初めに言があった。」これは明らかに、ヨハネが創世記の冒頭を意識して記した言葉である。創世記は、捕囚の地バビロンで書かれたと言われている。イスラエルはバビロニアとの戦争に負けて国が滅ぼされ、住民の多くは捕虜として、バビロニアの首都バビロンに囚われた。彼らは、故国エルサレムに帰る希望もなく、その前途は真っ暗闇であった。しかし、彼らがエルサレムの神殿に思いを馳せ、その地の礼拝の中で、はるか遠いバビロンの地にも、自分たちの神が共におられる事を知った時、彼らは闇の中に一筋の光を見出した。

この当時、ヨハネの属する教会も、厳しく、辛い迫害のただ中にあった。しかし、神はかつて言葉で天地を創造されたように、今、また神は「」を用いて新しい創造をされた、キリストが人となることによって新しい時代が始まったと、ヨハネは語る。当時、教会を取り巻く状況は、混沌として、まさしく暗闇が光を理解しない、光を覆い隠してしまうような状況であったのである。けれども、ヨハネは言う。光は暗闇の中で輝いている。その光をヨハネはどこで見たのか。それは何より主イエス・キリストの十字架においてである。「暗闇は光を理解しなかった」。この言葉を、他の聖書は、「闇は光に打ち勝たなかった」と訳している。

「理解する」と訳された言葉は、元の言葉は、「とらえる」という意味がある。理性でとらえると「理解する」となり、力でとらえると「打ち勝つ」となる。暗闇は光に打ち勝たなかった。なぜなら、十字架につけられたイエス・キリストは、死から三日目によみがえられたからだ。光は暗闇の中で輝いている。この光は、何より復活された主イエス・キリストの光である。復活された主イエス・キリストが光として今も私たちを照らしてくださっている。それゆえに、今に生きる私たちもヨハネと声を合わせて、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と永遠からおられるキリストをほめたたえることができるのである。

2024.3.24 の週報掲載の説教

2024.3.24 の週報掲載の説教
<2024年2月4日説教>

『啓示された神の秘められた計画』
ローマの信徒への手紙16章21節~27節

牧師 鈴木 美津子

神は、 わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、 あなたがたを強めることがおできになります。 この福音は、 世々にわたって隠されていた、 秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(25-26)

神様の秘められた計画とは、「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられ」ることである。それは、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストの福音を聞き、そして、信じて、聖霊を与えられて神の民となり、神様の栄光をたたえるようになるということだ。今や、この「神の秘められた計画」はパウロの福音宣教によって、明らかになったのである。

私たちが強められるのもまた「神の秘められた計画」が明らかにされたのも、すべての異邦人が救いへと招かれたのも、すべては「イエス・キリストを通して」のことである。イエス様は、私たちと神様の仲保者である。私たちは、イエス様抜きに、神様を誉め讃えることはできない。また自分が何者であるのか、自分が何処から来て、何処に向かって歩んでいるのかも分からなくなってしまうような者である。私たちは、イエス様を通して救われ、神の子としていただき、永遠の命の希望に生きる者とされた。イエス様を通して、神様の愛の御手の中で生かされ導かれていることを知らされた。イエス様を通して、神様がすべてを支配しておられることを知らされた。だから、私たちは、全てにおいて、イエス様を通して、「アーメン」と言えるのである。そして、そのような者たちの交わり、それがキリスト者の交わりである。神様がここにおられることが明らかにされる交わり、それが教会である。そこでは「自分が、私が」という思いは退けられる。自分が評価されたいという思いも、自分は正しいという思いも、退いていく。そこでは、ただ神様に栄光を帰することにおいて、兄弟姉妹の心が一つにされるからである。私たちはそのような交わりを形作るため、ここに、この浦和教会に召し集められた者たち、そしてその交わりが浦和教会の歴史と共にこれからも続くのである。

栄光世々限りなく神にあれ。アーメン。

2024.3.10 の週報掲載の説教

2024.3.10 の週報掲載の説教
<2024年1月28日説教から>

『善にはさとく、悪には疎くあるように』
ローマの信徒への手紙16章17節~20節

牧 師 鈴木美津子

平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(20)」

「さとく」という言葉は、知恵のある、或いは賢い、とも訳すことができる。「善については知恵があれ」、つまり、あらゆる善いことに通じていなさい、主イエスのお役に立てるために常に思いめぐらしなさい、と言うことである。逆に、「疎く」という言葉は、「単純であるとか無邪気である」という意味である。簡単に言えば、「悪知恵などいらない」、ということである

しかし、実に、この世はその正反対ではないか。「善にさとく、悪には疎く」ではなく、善には大層疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせていく、だから戦争が起こり、差別が止まず、格差社会が生まれるのではないか。弱い者は虐げられ、強い者が幅を利かす、これはいつの時代も変わっていない。変わって見えるとすれば、それに上塗りをしているだけの話である。しかし、御言葉は、このサタンの支配の終わりを明確にする。

「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」、とパウロが言う時、これと逆の現実が彼の目の前にある。今、サタンが、信仰者の平和を奪っている、パウロの目にはそのように見えていたはずである。そして、これはその後2000年のキリスト教の歴史の中で、常に信仰者に与えられて来た現実である。しかし、それにもかかわらずすでに2000年の昔に、「平和の源である神は間もなく」、とパウロは言う。この「間もなく」という言葉は、速さを表す言葉で、非常に間近に迫っている、そう言う状況を示す言葉である。

しかし、2000年経っても、私たちの見ている景色は同じで、善に疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせて世の中は動いている。それでも、その現実の中で、「間もなく」という信仰に立ち続けるのがキリストを信じる者の役割ではないか。

キリスト者は、「善にさとく、悪には疎くあれ」、とあらゆるよきことに敏感で、主に仕えて、主イエスのお役に立つために思いめぐらす者でありたい。その時、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」、この御言葉こそが、真の希望となり、頭上に輝くのではないか。パウロは2000年前にそこに立ったのである。「わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。アーメン。」

2024.3.3 の週報掲載の説教

<2024年1月21日説教から>

『パウロからローマの教会の兄弟姉妹への挨拶』
ローマの信徒への手紙16章1節~16節

牧師 鈴木 美津子

パウロは、1-16節の中で「よろしく」という言葉を17回記している。これは、直訳すると「挨拶しなさい」である。パウロはユダヤ人であるから、「挨拶」と言えば「シャローム(平和があるように)」であるので、「よろしく」も、そのような思いがある言葉である。

16節に、「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と、あるが、パウロの意図する「よろしく」「挨拶しなさい」は、まさにこの「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」という意味のある言葉である。

私たちの国では、このような習慣はないが、このような習慣のある国では、接吻による挨拶というのは、これ以上ない兄弟愛表す行為である。しかし、ここで大切なことは、そのような流儀ではなくて、心である。心がそこになかったら、それは無意味な行為である。あの裏切り者のイスカリオテのユダは、口づけによって、主イエスを裏切った。

16節の後半には、「キリストのすべての教会が、あなたがたによろしくと言っています」とある。「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、すなわち「あなたのありたっけの心で、深い思いを持って互いに愛し会う」という、この最高の愛情表現が、全世界の教会で実現する、やがて実現するという希望の言葉である。ユダヤ人であっても異邦人であっても、男でも女、王族であって奴隷であっても、裕福であってもなくても、たとえ身分や立場が違っても、最高の愛情表現で兄弟姉妹の交わりが実現し、そして、それが全世界へと拡がっていく、この希望である。そして、この希望の源こそが、イエス・キリストである。

ですから、私たちもまた、「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、すなわち「あなたのありたっけの心で、深い思いを持って互いに愛し会う」この心を持って、朝にも、帰りにも挨拶を交わすのである。教会の玄関で、主の日の朝、私たちはお互いに「おはようございます」と挨拶するが、その心は「シャローム」である。帰る時も「さようなら」と挨拶を交わすが、それは「平和がありますように」「また来週会いましょう」という思いをもって挨拶をする。これが私たちキリスト者の挨拶の心と言うべきものなのである。