2017.04.30~05.06 今週の集会

今 週 の 集 会
祈祷題「平和憲法を覚えて」(5/3)
      「日曜学校のため」 (5/5)
聖書の学びと祈り                 4日(木)10:00
      ルカによる福音書16章1節~8節a  (午前・午後合同)
      説教代読:森崎・増田・伊木       司会 須田 美奈子
古河・下館伝道所  藤塚聖牧師 就職式   4日(木)14:00
      (古河伝道所と下館伝道所を兼牧)
 

<2017年1月8日の説教から>『真理とは何か』

<2017年1月8日の説教から>
『真理とは何か』
ヨハネによる福音書18章28節~38節a
牧師  三輪地塩
 イエスの裁判の場面である。ローマの総督のピラトは、37節で「それではやはり王なのか」と三度目の質問をしている。「ユダヤ人の王ではない」とイエスに答させ、
政治違反の罪で「不起訴」にしようとしていたからである。しかしイエスは、イエスともノーとも答えず「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」という曖昧な答えしかしていない。
 
 この箇所の難しいところは、この最後の部分にある。
イエスのいう「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」
という回りくどい言い回しは、ギリシャ語の慣用句としては「(あなたの言う通り)私は王である」の意味に解釈できる言い回しであると言われる。それゆえ口語訳聖書ではこれを肯定分として翻訳し「イエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、私は王である」(口語訳)と肯定文で訳している。
しかし本来、このイエスの答えは、曖昧にすべきなのではないかと思う。つまり、イエスはこの言葉を肯定でも否定でも語っておらず、質問者の意志を問うているのだ。
 弟子のペテロは「私を誰と言うか」に対し「あなたはメシアです」という信仰告白をした。それと同じように、この箇所でイエスが問うのは、「私を誰と言うか」である。
ピラトはここで第三者として、傍観者として、観客席にすわってイエスを批評し、裁こうとしている。だがイエスはそのピラト自身の主体性を問うのである。「あなたは 私を誰と言うか」と
 ピラトは、イエスの罪を見つけることはできなかった。それはピラト自身の善意から、彼の道徳心によってイエスを処罰したくないと思わせたのかもしれない。
だが善意や公平さのような倫理道徳観では、真のメシア・キリストと出会うことは出来ないのだ。信仰の告白、真理を語る方の、真理に耳を傾けることが出来るか、
それは、我々の主体性の中にあるからだ。

2017.04.30 主日礼拝予定

主 日 礼 拝    午前  10:30

奏楽  田端 誠治

          <神の招き>
 
  招 詞  詩編16編10節~11節
 *讃 詠  (21)83
 *罪の告白と赦し  交読詩編143編7節~12節
 *讃美歌  (21)210(1~2)

         <神の言葉>
  
  聖 書  イザヤ書66章1節~2節(旧約P.1169)
        ヨハネによる福音書21章20節~25節(新約P.212)
  祈 り                      河野 武郎 
 *讃美歌  (21)578
  
  説 教  「この証しは真実である」  三輪 地塩

         <神への応答>
 *讃美歌  (21)419
 *使徒信条
  公 告
 *献金感謝
 *主の祈り
 *頌 栄  (21)46
 *派遣と祝福
 *後 奏

今週の集会(2017.04.23~29)

今 週 の 集 会
      祈祷題「新しい地に赴く牧師・教師試補のために
         
      大戸集会(石井洋子宅)           26日(水)14:00
       
      聖書の学びと祈り               27日(木)10:00
         列王記2章(担当 三輪地塩)     司会 志賀 洋子
        
      聖書の学びと祈り               27日(木)14:00
         Ⅱテモテ3章10節~17節        司会 大月 美智子

<2016年12月11日の説教から>【するとすぐ、鶏が鳴いた】

<2016年12月11日の説教から>

【するとすぐ、鶏が鳴いた】

ヨハネによる福音書18章25節~27節
牧師  三輪地塩
 
 主イエスを三度否んだ箇所である。この時、鶏の声を聞いたペテロはハタと我に返り号泣した、とマタイ福音書26章69節~75節は述べている。イエスはぺテロに対し、
期待を込めて「岩」(ケファ)と呼んでいたのかもしれない。堅い意志を持った彼ならば、十字架の最期まで付き従ってくれるだろうと。
 
 しかし、「岩」のような意志を持った彼さえも、自らの保身と恐れから、人間的決心の薄弱さと意志の脆弱さを露呈してしまうのであった。自分の「先生」「主人」を三度も否定してしまったならば、ペテロでなくとも、誰しもが自らの弱さに打ちひしがれることだろう。
 しかしこの場面、ヨハネ福音書では異なっている。ペテロが泣いていないのだ。
これは単なる書き忘れなのか、ヨハネが「強いペテロを描こうとしている」のか、あるいは、ペテロがそんなに後悔していない、とでも伝えようとしているのかは分からない。
 
 だがそのどれでもないと思う。ペテロは泣いただろうし、大いに後悔したことだろう。彼の弱さは、たとえ泣かなかったとしても一目瞭然であるからだ。この場面で(マタイ福音書が伝えるように)「激しく泣いた」と言われていないのは、ヨハネの強調点が「泣くこと」「ペテロの後悔」に無いからだと筆者は考える。ヨハネ福音書は、ペテロが泣くか泣かないかという人間感情的な事柄にではなく、我々の目を十字架の贖いへと向けさせているのだある。つまり、これ以降のペテロ(と弟子たち)は、イエス昇天後、教会を形成するのである。教会は、この者に鍵を渡す、と宣言されたペテロの上に預けられた。この意志が弱く、決意の脆弱であった、弱々しい「ペテロ」の上に、神の恵みと御栄えを表すべき教会は任せられたのである。つまり教会とは、キリストの十字架の弱さと人間の弱さの上に、神の力づよさを打ち立てる事にある。教会には十字架の贖いと赦しが立ち、天の御国の到来がここにあることを述べているのである。信仰によってのみ建つ教会。その信仰告白の脆弱さにも拘らず、主は我々を見捨てず、十字架に至るまで我々を愛し続けて下さった主イエス・キリストに目を向けさせているのである。

2017.4.23 主日礼拝予定

        主 日 礼 拝   午前  10:30
        奏楽  岩 本 道 子

                    <神の招き>
 
    招 詞  詩編16編10節~11節
 *讃 詠  (21)83
 *罪の告白と赦し  交読詩編143編1節~6節
 *讃美歌  (21)505
         <神の言葉>
 聖 書  エレミヤ書2章17節~19節(旧約P.1175)
       ヨハネによる福音書21章15節~19節(新約P.211)
 祈 り                                                       伊木 美穂子
*讃美歌  (21)327
 説教  「わたしを愛しているか」              三 輪 地 塩
         <神への応答>

*讃美歌  (21)325
*十戒
 公告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
*後 奏