南柏教会牧師就職式に出席

     4月29日に行われました南柏教会天満由加里牧師就職式に、
       浦和教会から、M長老とS執事 が参加しました
                   和やかな雰囲気の中 感謝会も終了。

       皆様の上に 主の導きがありますよう、お祈りいたします。

        





(写真提供  s執事)

その他・集会案内

  【他中会からのお知らせ】
   ・56(月・休) 14:00~遠浅教会田中忠良牧師就職式
  ・解散となった伝道所
  宇久井伝道所:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井にて1956年伝道開始
  熊野伝道所:三重県熊野市

 【公開講演会お知らせ】人権委員会主催

   524() 14:0016:00 蒲田御園教会

  テーマ:「原発事故から8年」子どもたちを取り巻く問題」

  講師:千葉由美子(いわきの初期被爆を追求するママの代表)

     菊地純子(NCCドイツ語圏教会関係委員会委員長)

2018.09.16の説教から

      <916日の説教から>
                 『キリストの右と左に座りたい』
              マルコによる福音書1032節~45
                           牧師 三輪地塩
 ヤコブとヨハネはイエスに本音を言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。なんとも厚かましい願いである。彼らはどの弟子たちよりも抜きん出て、もっとも偉くなることを求め願ったのである。
 これに対してイエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが授ける洗礼を受けることができるか」と答える。「杯」と「洗礼」とは、恵みの杯と洗礼ではなく「苦しみの杯と洗礼」である。キリストに従うとは、「正」ではなく「負」を背負う部分もあることを伝えた。ヤコブとヨハネは、「はいできます」と軽々しく答えており、「あなた方が何を願っているのか分かっていない」と叱られる。
 この時、ヤコブとヨハネが願っていたものは、「神の栄光」であった。神の美しい栄光、神々しい輝き、そして永遠の救い、である。特に彼らは92節以下で「イエスの山上の変貌」に立ち合い、栄光に輝くイエスの姿を目撃している。その光を忘れられない彼らは、栄光の左右の座を兄弟で独占しようと願っている。だが、その栄光は、彼らが思うようなものではないとイエスは言う。
 栄光の上澄み部分だけをすくい取って、それが神の栄光の全てであるとは、浅はかな「栄光観」「信仰観」であると言わざるを得ない。
 例えば、我々は「愛」を願うだろう。愛することを願い、愛されることを願う。世界が愛で満たされてほしいと願う。しかし「愛」の実現は、美しく、綺麗で、楽しく、居心地の良い「だけ」で叶えられない。真実の「愛」が実現されるためには、多くの苦しみと、忍耐があって初めて、その「上澄み」として、いわゆる「愛」と呼ばれる結果が産み出されるのだ。信仰もそれと同じである。神を信じることは、「楽しさ」と「喜び」だけである、と思い込む者は、神に対する躓きも早い。我々は、信仰の「上澄み」の部分だけではなく、十字架の苦しみをキリストと共に背負う時、真のキリストの救いを見出すのである

2019.05.05~11 今週の集会

 
今 週 の 集 会
 
◎祈祷題「牧師就職式のため」「日曜学校教師のため」
横須賀教会篠塚予奈牧師就職式  6(月・休)14:00
聖書の学びと祈りの会         9日()10:00
  歴代誌上24章(担当 三輪地塩)   司会

聖書の学びと祈りの会            9日()14:00

  ヘブライ人への手紙41節~13 担当 岡 野 庸 子                      

6日(立教大学)、7日(聖学院大学)牧師出講日

2019.05.05 主日礼拝

 
週 報 7418 2019.5.5
 
 
 
 
  
 

                                                                                                                                  
主 日 礼 拝  午前 10:30

奏楽   

                     <神の招き>
招 詞  ヨシュア記 lang="EN-US" style="color:windowtext;font-size:10pt;">15
*讃 詠  545A
*罪の告白と赦し 交読詩編139712
*讃美歌  23
 
<神の言葉> 
聖 書 イザヤ書5311節~12   (旧約P.1150
   マルコによる福音書1516節~20
                  (新約P.95                         

祈 り                                                                                                                                                                                                                                                                                         

*讃美歌  120
  教  「唾を吐きかけて拝む」  三 輪 地 塩
='color:windowtext;font-family:serif;font-size:10pt;'> 

                                                       

<神への応答>
*讃美歌  140
*日本キリスト教会信仰の告白
 聖餐式  204
 公 告 
*献金感謝             
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  543
*派遣と祝福
後 奏  
          聖餐補佐  森、加藤、伊木、安井
       
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。

 

礼拝当番(今週)加藤、島口、松沢、松本

    (次週)三浦、野田、室橋、本橋

 

掃除当番今週)菊地晴、松本、浜田、佐藤真
        加藤ヨ、板垣、草野
(次週)薄田、青木、志賀、越智
    藤沢、加藤純
礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2018.09.09の説教から

          <9月9日の説教から>
     『らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』
      マルコによる福音書10章23節~31節
                        牧師  三輪地塩
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者
が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の
国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。
 
 弟子たちは驚き、「このとおり、わたしたちは何もかも
捨ててあなたに従って参りました。」と言い、もうこれ以上
捨てるものがないほどに、全てをなげうって、イエスに従
ってきた事を訴えた。それでもまだ捨てるものが足りないと
でもおしゃるのか。そんな不安が感じ取られる。

  なぜ人間はお金に執着してしまうのか。その理由の一つ
は「何にでも変えられるから」であろう。等価交換を行う
経済のその「道具」は、「信頼」によって命を得る。信頼
がなければ使い物にならない。1万円札を1枚印刷する
のに20円しか掛からない。つまり原価20円の紙切れを、
原価2円の1円玉よりも1万倍の価値があると「見做して」
使用するのが「信頼」によって成り立つ「お金」「貨幣」
である。時に「信頼」を超えて「信仰」にすらなってしま
う「お金」は、「崇められ礼拝される神」と化すことさえ
ある。

 お金は時に「万能」のようでさえあり、地位も名誉も能
力でさえも手に入れるような錯覚に陥らせる。

 ここに来て「真の神を信ずる」我々の内には、「二人の
神に仕えることはできない」というイエスの言葉が心に響
く。我々人間は、一方で神を信じておきながら、もう一方
で貨幣が実現する(と考えられている)万能性を信じてい
るのである。つまり、その一方を捨てイエスは言っている
のだ。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいこと
か」と、実存的にイエスは語る。

 金持ちは天国に入るのは難しいが、それと同時に「貧乏
人が「貧乏」というだけで天国に入るわけではない」こと
も聖書は語るのである。貧乏人はあくまでも「状態」であ
って、神に向かう心構えが「貧乏」なわけではない。聖書
が我々に伝えようとする最も重要なことは、「何を最も大
事にして信じて生きるか」である。