2017.10.29~11.04 今週の集会


 今 週 の 集 会
 
祈祷題 「長老・執事・委員研修会のため」
                      113(金・休)
「日本軍『慰安婦』問題と取り組む会主催講演会の          ため同日
神学校特別講義(神学校)30日()10:30
聖書の学びと祈り     2日()10:00
 
   列王記上16章(担当 三輪地塩)

               司会 鈴木 美津子                 

生と死の学び      担当 伊木 美穂子
  
    三浦綾子著  泉への招待
      勧告をきく者は知恵がある(p.53)~
      ほめる(p.64)
聖書の学びと祈り     2日()14:00
  ミカ書12節~ ang="EN-US">16節    担当 岡 野 庸 子

2017.06.25の説教

  
  
      <625日の説教から>

                    『キリスト讃歌』

              フィリピの信徒への手紙26節~11

                                   牧師 三輪地塩

 ここでは「へりくだる」ことについて述べられている。「何事も利己心や、虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人の事にも注意を払いなさい」と。日本人の持つ美徳の一つに「謙虚さ」「へりくだり」がある。だが、美徳であると同時に「消極さ」にも繋がってしまうものでもある。フィリピ書が語る「へりくだる」事は、必ずしも「控えめであること」ではない。単に「事を荒立てず」「失う事を恐れ」「何もしない」というのは、信仰においては「へりくだり」とは言わない。

 マタイ福音書25章「タラントンの譬え」はまさに消極さゆえに神に叱責されるという話である。1タラントンの者は、それを失う事を恐れて、土に埋めてしまった。信仰とは、「心の土」に埋没させるものではなく、それを「用いる時に花開き、実を結ぶのだ」とイエスは言う。それを埋没させるならば、その信仰と言う輝かしい財産は全て没収されてしまうのだ。それが「タラントンの譬え」である。

 天の国とはまさにこのようなものである。自分に自信がないことも又その人の個性かもしれない。だが神はあなたに「タラント」と与えている。キリストが十字架に架けられたのは、消極的に命を用いたのではない。神からの使命と、自らの愛の表出としての十字架であった。我々はこのようなへりくだりの信仰を、積極的に歩みたい。

 

 
 

2017.10.29主日礼拝予定

2017.10.29 
 
  主 日 礼 拝  午前 10:30
 
     <宗教改革500年記念合同礼拝・オープンチャーチ>
        奏楽 岩
 
招 詞  詩編961節~2節 
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編381623
*讃美歌  (21)17
 
<神の言葉>
聖 書 ダニエル書610節~11(旧約P.1390
マタイによる福音書65節~15
                  新約 P.9
祈 り               伊木 美穂子                                                                                                                                                                                                                         
*讃美歌 (21)484
 教 「祈るときには」      三 輪 地 塩 
                                                      
<神への応答>
 
*讃美歌 (21)377
*使徒信条
 公 告  
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏       

2017.10.22~28 今週の集会

2017.10.22~28

  

今 週 の 集 会

 

祈祷題「宗教改革記念日を覚えて」

    「オープンチャーチのため」

浦和教職者会(浦和ブレザレン)  23日()10:00

聖書の学びと祈り          26日()10:00

     列王記上15章(担当 三輪地塩) 司会 須田 美奈子                 

〇聖書の学びと祈り           26日()14:00

    ガラテヤ書111節~24節    担当 大 和 文 彦

               

 

2017.06.18の説教から

 
     <618日の説教から>
                 『互いに謙虚であれ』
             フィリピの信徒への手紙21節~5
                                     牧師 三輪地塩
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」2:1)。ここに「神、御子、聖霊」の三位一体が表わされている。三位一体の神とは「父、御子、聖霊の神が、その存在において孤独ではなく、互いに愛の交わりの中に生きて働かれる神である」ことを意味している。また「神が三位一体の中で、他の何者をも必要とせず、人間の手を借りず、人間の側からのフォローなしに存在し得る神である」という事でもある。「三位一体」という教理は知っているが、自分の信仰生活とはあまり関係ない、と考える人も少なくないかもしれないが、そうではない。神が三位一体の神であることは「神ご自身がそれ自身で成り立ち、他の何者の介在を受けることなく、誰の助けも必要とせずに存在する神である」ということ、つまり「神の主権の中に神が生きており、神の主権の中に我々が生きていること」を信じさせる神なのである。
我々は、国民主権や基本的人権などが確証された国家に生きている。だが国家や共同体は、人間の思惑・利益・思想などによって、如何なる姿にも変容し、変質し、歪曲され、不義が生まれてしまう共同体にもなり得るのである。国民主権など言いながら、国民の生活を管理と監視の目で脅かし、治安維持のためになら何でもしかねない。国家という共同体はその実情では、国民主権ではなく「国家主権」「国家の利益主権」で動くのである。国家にとっては「国家の利益」が「善」であり、そのためには、小さな人間の命や生活権は少々奪われても構わないと考える。それが巨大な構造悪ともなり得る「国家」である。当然権力者が人間である故にミスリードもしばしば起こる。
 しかし、我々の信じる神において、主権者が三位一体なる神であると語りうる時、そこには人間が介在しうる余地は無いのである。神自身が、父・御子・聖霊の働きによってこの世を創造し、この世を愛された。三位一体なる神が主権者であるということは、我々自身が、孤独ではなく、それぞれの価値を否定されず、個々の命を大事に愛される神と共に生きる、ということを示すのである。
 

2017.10.22主日礼拝予定

2017.10.22       

         主 日 礼 拝  午前 10:30
                     司式 安 井 国 雄
                     奏楽 板 垣 玲 子


招 詞  詩編96編1節~2節 
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編32編6節~11節
*讃美歌  (21)16(1-3)

         <神の言葉>
聖 書 出エジプト記3章7節~12節 (旧約P.97)
    コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節~18節
                (新約 P.329)
祈 り                                                                 
*讃美歌  (21)390
    
 説 教 「主がなされる事。私たちにできる事」          
                     野 田 沢 
    
          
         <神への応答>

*讃美歌  (21)458
*十 戒
 公 告  
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
*後 奏