3月7日~12日の集会

 
 ◇日本改革教会協議会(教団 駒込教会)    3月 7日(月)  10時00分~

 ◇大戸集会     (石井宅)        3月 8日(火)  13時30分~
 
 ◇杉戸集会     (田端宅)        3月 9日(水)  13時30分~

 ◇聖書の学びと祈りの会            3月 9日(水)  19時30分~

 ◇    〃                 3月10日(木)  10時00分~

 ◇トレインキッズ               3月12日(土)  11時00分~13時30分

          

3月13日の礼拝

 ◇説教題  『テサロニケで』

 ◇聖 書  使徒言行録17章1節~15節

 ◇説 教  三輪地塩 牧師

使徒言行録16章16節-40節 「あなたも家族も救われます」

 使徒言行録16章16節-40節 「あなたも家族も救われます」

 私たちは、自由を求め、自由を謳歌し、自由である事を人生の一つの目的としています。行きたいところへ行き、好きな事をし、選びたいことを自分の意志で決める。学問の自由、職業選択の自由、思想・信教の自由。私たちの生きるこの日本社会は、そのような自由が与えられているのです。
 「自由」という言葉を考えるとき、思い出すのは「Arbeit macht Frei」(アルバイト・マハト・フライ)という言葉です。アウシュビッツの入り口に掲げられた標語で「働けば自由になる」という意味であります。収容所に収監されたユダヤ人たちが、この言葉を信じて働き続けたわけです。けれども、この標語が大嘘であった事を歴史は証明しています。しかしながら、この「働けば自由になれる」という言葉は、戦後65年以上経った今も、時代を越え、国を越えて、私たちの心に深く突き刺さる言葉となっています。

 戦後私たちの国は、民主主義体制となり、著しい経済成長と共に、国民はこれを慶び、人生をより良きものとして謳歌してきたのです。しかしその果てにもたらされた、市場原理主義、新自由主義経済が、私たちの求める本当の自由の姿であったのかという疑問が、頭をもたげてきました。それによって「働けば自由になれる」という言葉は、決して過去の遺物ではなく、現代社会に空しく響き渡る言葉として迫ってくるのです。働いても自由を得られない者たち、ワーキングプアについての現状を、毎日のように耳にするこのご時勢です。自由競争に耐えうるものがより強くなっていき、弱い者は更に弱くなっていく。それが格差を生み、一握りの成功者と、その成功の陰で日々の糧にありつけない多くの労働者たちが存在する。それが自由の目指す最終的な姿であるならば、それはもはや、本来の喜ばしい自由の形ではありません。それは、私たちの生きる世界が、自由を求める私たちに完全な自由を与えてくれない世界である、ということ。競争原理に生きるということは、成績を求められるということ。そこには既に自由は存在しないのかもしれません。

 今日の箇所で私たちは「自由」の本質を問われます。キリスト者にとって自由とは何かであります。フィリピの町に滞在していたパウロとシラスは「占いの霊に取り付かれている女奴隷」に出会います。この占い師は主人たちに多くの利益を得させていました。しかしパウロはこの女奴隷が悪霊に取り付かれているため占いを行なっていることを察知し、「この女から出て行け」という言葉と共に悪霊を追い出し、この女性の本来の姿を回復させたのであります。

 しかし彼女の主人たちは怒ります。彼女は占いが出来なくなったからです。主人たちはパウロとシラスを広場へ連れて行き、鞭で打ち、牢に投げ込みました。女奴隷の主人たちが何ゆえにパウロたちを捕らえさせたのでしょうか。それは女奴隷が利益を出さなくなったからです。彼女から利益を得ていた主人たちは「良い占い師として稼いでいたのに、その力を奪うとは何事か」と憤慨したのです。そして「金儲けの望みがなくなってしまった事を知った直後に」パウロたちは囚われてしまうのです。それはまるで、この世の中が最も必要としている事柄が、御言葉ではなく利潤であると言っているかのようであります。この女奴隷は神の御言葉によって主イエスの名によって救われました。悪霊に取り付かれていた彼女は、本来の姿を取り戻したのです。しかし御言葉ではなく利益。キリストによる世界ではなく経済による世界を求めている人間の姿を示されます。

 パウロとシラスは衣服を剥ぎ取られ、何度も鞭打ちを受けたのち捕らえたのです。彼らには厳重な監視がつきました。足枷をはめられ、身柄を拘束されたのです。しかしこの時自由を奪われていたのは誰であったのか。その事が次の瞬間明らかとなるのです。

 その夜、突然大地震が起こり、牢が揺れ動き、扉が開き、全ての囚人の鎖が外れてしまうのです。看守は目を覚まし、牢の扉が開いているのを見て恐れます。彼らは恐れたのです。それは扉が開いた事実への恐れ、神の業への恐れではなく、囚人を逃してしまったことの故に、これから自分の身に何が起こるか分かっているが故の恐れであります。すなわち彼らは自害しなければならなかったのです。それがローマ法によって統治された国と、看守たちのルールであったのです。彼らはローマ法を遵守せねばならなりませんでした。決して彼らが望んだものではありませんでしたが、彼らにとってローマ法は絶対でありました。そしてやむなく剣を抜き、自害を決心するのです。

 しかし彼らのもとに、パウロとシラスが帰ってきたのです。この出来事を我々はどう読めばよいのでしょうか。彼らは自由の身になっていたのです。もう鉄格子から離れ、手枷足枷を外されてその場所から逃れることが出来たのです。鞭打ちの刑は、子どもの教育としてされていたものとは全く違い、酷い時はショックにより命を落としさえいたします。パウロとシラスが収監されていたということは、死が目前に迫っていたことを示すのです。しかし彼らは戻ってきたのです。我々はこの彼らの行いを何と見るでしょうか。馬鹿な事だと責めるでしょうか。お人好しの行為として呆れ返るのでしょうか。しかし私たちはここに信仰者の自由の何たるかを見ることが出来ると思うのです。もう一度捕まることによって、どんなことになるかを彼らは良く知っていたはずです。もう一度鞭で打たれ、その痛みに耐え切れずに、命を落としてしまうかもしれない。あるいは過酷な条件の下で、餓死をするか、病気に掛かって獄死をするか、いずれかであったことでしょう。彼らは自由でした。しかしその自由を用いて看守のもとに戻ってきたのです。

 それは彼らが本当の「信仰における自由」を持っていたからであります。彼らにとって、否、私たちキリスト者にとって「自由」とは、この身を自分の思い通りに用いるだけではなく、また好きな事を選べる権利があるというだけではなない。私たちは、世の中自体が囚われている巨大権力や、国家体制などから自由であり、病気や体の痛みから自由であり、死からも自由の身となるのであります。
 ここに主イエスの十字架を見ることが出来ます。主イエスは神の御子故に、また神の御子という自由の中で十字架をお受けになりました。それは神から与
えられた、何人(なんぴと)にも左右されずに神の御心を問い続けがゆえに、十字架を選び、苦しみの道を選んだのであり、それが神の求めた道であったのです。それが主イエスの自由な選択の故に行なわれたのでありました。

 マルティン・ルターの「キリスト者の自由」という本の中で彼はこう言います。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」(マルティン・ルター「キリスト者の自由、第1」より)
 彼らは、大地震が来る前から既にキリストによって自由でありました。それは「真夜中の讃美」が物語っております。投獄された人の最期は痛みと苦しみに耐えるものであります。しかしパウロとシラスは「真夜中ごろ、讃美の歌を歌っていた。他の囚人もこれに聞き入っていた」というのです。およそ繋がれた者でないかのように、喜びに溢れているではありませんか。しかしこれがキリスト者の自由なのであります。

 ウィリアム・。ウィリモンという説教者の中で、次のような話が紹介されていました。アンゴラの教会の司教の話しです。アンゴラは社会主義国家であり、教会が立っていくのは容易ではありません。しかしエミリオ・デ・カルバリョというこの司教は次のように言っているのです。「社会主義政府は教会に協力的ではありません。けれども私たちは政府に対して、教会に協力する事を求めていません。ついこの間、教会内の女性組織を全て解体するようにとの法律を政府は制定しました。それでも女性たちは集会を続けました。政府がもし今より強硬に女性集会の解体を求めてきても、私たちは集会を続けるでしょう。政府は成すべき事を成す。教会もまた、成すべき事をなすのです。もしも私たちが教会であり続けるために牢屋送りとなるなら、牢屋にも行くでしょう。多くの者たちが投獄されることになったあの革命の期間。我々の教会は実に大きな収穫を得ました。牢はたくさん人の集まってくる場所です。説教し、教える時間があります。あの革命の期間、確かに20名の教会の牧師が殺されましたが、我々が牢を出たとき、人数も力も、それまでよりもずっと豊かな教会になっていたのです」。このようなお話でした。

 ルターも言います。「人間の肉体が、病みつかれ、飢え渇き、悩み苦しんでいるとしても、このことが魂に何の損失をもたらすだろうか。無条件に神の恵みを信じた者は、その信仰から神への愛と喜びとが溢れ出て、また愛から価なしに隣人に奉仕する、自由な、自発的な、喜びに満ちた生活が出発することだろう。魂は清められ、罪は払拭される。そこにはキリスト教的自由があり、あたかも天が高く地を超えているように、高くあらゆる他の自由にまさっている自由が存在するのである」と。

 看守たちはパウロとシラスの牢獄の鍵をもっていました。しかし独房の鍵を持つことが自由なのではないのです。鍵を持つことに怯え、たった一度の粗相によって自害を強要されている以上、彼らは自由ではないのです。自分たちは自由であると誇り高く語っていた人々は、実はローマ皇帝に支配され、虐げられ、巨大な国家権力に隷属していた者たちなのです。実際彼らは自由ではありませんでした。彼らは、ローマ帝国と、ローマ法に縛られ、皇帝の機嫌を伺い、高官たちの目に怯えながら、皮肉にも「ローマの自由市民」という名の下に生きていたのであります。看守の命は、ローマ帝国の手中にありました。生きるのも死ぬのも、全てはローマのため、お国のため、上官たちのためであったのです。

 パウロとシラスが戻ってきたことによって、看守たちは真の自由の存在に気付きました。自分を解放し、救いに導く真実な方の存在が示されたのです。救われなかった看守たちは、パウロに尋ねます。「救われるにはどうすべきでしょうか」。彼らは答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
 彼らは洗礼を受けました。つまりここで聖書は、自由だと思われていた者たち――女奴隷の主人、高官、看守など――の人たちこそが奴隷であり、最初に奴隷だと思われていた者たち――女奴隷、パウロとシラスたち――が自由なのであることが示されるのです。囚われた者は囚われておらず、囚えた者たちが囚われていたのです。

 「Arbeit macht Frei」(アルバイト・マハト・フライ)。この言葉は、現代社会に生きる私たちに、様々な形をとって迫ってくる言葉です。「働けば自由になる」「勉強すれば自由になる」「利益を上げれば自由になる」「市場原理に従えば自由になる」「新自由主義は真の自由である」「それによって出世すればもっと自由になる」と。

 しかしこれらは、何かに縛られた自由であり、他者の牢の鍵を預かっている自由に過ぎません。民衆の言葉に同調し、他者を鞭で打ち続け、見張り番をし、ローマに忠誠を誓う自由に過ぎないのです。聖書は私たちに、如何にすれば真の救いを得、真の自由を得ることが出来るかをこの箇所で示されるのです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。看守たちは洗礼を受けて真の神の自由を得たのです。そして私たちも、同じように問われています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」