7月25日~30日の集会

◇中連婦委員会(浦和教会)   25日(月) 午前10:00

◇臨時中会(蒲田御園教会)    25日(月) 午後 6:30

◇聖書の学びと祈り        27日(水) 午後 7:30
  マルコによる福音書9章30節~37節

◇聖書の学びと祈り        28日(木) 午前 10:00
  創世記49章          

7月18日~23日の集会

◇聖書の学びと祈り      20日(水) 午後 7:30
 箴言13章、14章        

○聖書の学びと祈り      21日(木) 午前 10:00
  創世記48章          

7月11日~16日の集会

◇杉戸集会          13日(水) 午後 1:30

◇聖書の学びと祈り      13日(水) 午後 7:30
 イザヤ書43章1節~20節      

◇聖書の学びと祈り      14日(木) 午前 10:00
  創世記47章          
    
 婦人会委員会           同 上 後

7月4日~9日までの集会

◇聖書の学びと祈り      6日(水) 午後 7:30
 Ⅰコリント11章2節~16節     

◇聖書の学びと祈り      7日(木) 午前 10:00
  創世記46章           

◇トレイン・キッズ      9日(土) 午前 11:00

使徒言行録22章22節-23章11節 『勇気を出せ。力強く証しせよ』

使徒言行録22章22節-23章11節 2011年7月2日 『勇気を出せ。力強く証しせよ』
 
 先週の木曜日祈祷会の中で、「ユダは赦されたのか」という質問がありました。皆さんはどうお思いでしょうか。イエス・キリストを銀貨30枚で売り払ったあの側近であった弟子のユダが、救いに預かったのか否か。これは大変興味深い質問でありました。

現在木曜祈祷会では、創世記を1章から読み進めておりまして、先週45章まで進みました。この45章という箇所は大変にドラマチックでして、いわば創世記の一つのクライマックスであると言えるわけです。創世記37章からは、ヨセフ物語という12人の兄弟たちの物語が始まります。ヨセフの兄たちはヨセフを嫌って殺そうとするのです。しかし一応兄弟なのだから、ということで生かしておくことにしよう、しかしエジプトの奴隷商人に売ってしまえ、ということでヨセフはエジプトのファラオの宮廷に売られて行ってしまうのです。しかしエジプトに行ったヨセフは、そこでありもしない疑いをかけられて、奴隷の身分よりさらに条件の悪い、囚人になってしまいます。しかし彼は神様の導きによって、その場所から救い出され、最後にはとうとうエジプトの実権を握るまでに重用されていくのです。あるとき大飢饉が訪れたとき、カナンから自分を売った兄弟たちが食料を買いにエジプトにやって来ました。しかしヨセフは、自分を一時は殺そうとまでした兄弟たちを赦し、和解するのであります。この赦しの場面こそが45章でありました。

祈祷会の中でたびたび紹介するのですが、小泉達人さんという牧師が、創世記考講解説教という本を書いていて、その中に次のような1節がありました。「表面上は人間の仕業、罪の行い、卑劣な出来事であっても、その背景には神の御手のあることに気付き、そこへの感謝を見出すことこそが、信仰の本領であると思うのです。ヨセフの生涯は、数奇な運命に翻弄された人生としか言えません。しかし信仰の目的からは、一切は神の着々としたご計画の中にあったのだということです。この時、諦めの運命は神の摂理として受け取られます。我々の運命を摂理に変えるもの、それが福音であり、その福音を信ずるのが信仰であります。運命を摂理と受け取ったとき、私たちの新しい人生が始まります(小泉前掲書より)」
 このように言われます。

「表面上は人間の仕業、罪の行い、卑劣な出来事であっても、その背景には神の御手のあることに気付き、そこへの感謝を見出すことこそが、信仰の本領である」とは本当にその通りだと思うわけです。
 卑劣な行為は、私たちの生活の中にたくさん存在しますし、その反映として聖書の中にもたくさん出てまいります。卑劣な行為。今日の箇所にもそのことが示されております。先週の箇所でパウロが民衆の前で弁明をしました。自分の生い立ちから、信仰の歩み、そして自分が如何にキリストを迫害してきたか。しかし同時に如何にキリストに捕えられてきたのかを克明に語るのです。しかしそれを聞いたユダヤ人たちは怒り出します。今日の箇所はその尋常ではない怒りの中からスタートいたします。
「パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は地上から除いてしまえ。生かしてはおけない』」これが民衆の言葉でありました。この怒りと憎しみの中にある人間たちの前でキリストを弁明するパウロについて書かれているのが、今日の一連の箇所の内容であります。
 
 ここには弁明の場に立つパウロと、怒り狂うユダヤ人たち。そして第三者としてそれをみているローマの兵隊たちの、三つの立場の者がいるわけです。ここで面白いのは、ユダヤ人たちの論理と、ローマ人たちの論理の決定的な違いがみられることです。まずユダヤ人たちは、宗教的な論理の中で、特にユダヤ教を冒涜されたと感じていたようです。しかしローマ人たちは非常に冷静でした。ネガティブな言い方をすると彼らは無関心だったのです。関心があるとすれば、今から法廷で裁こうとしている人物がローマの市民権を持っているか否かという、法令上の問題であったのです。彼らはパウロがローマ市民権を持っていることを知って「恐ろしくなった」とあります。つまり彼らの恐れは、目の前の人間たちが何をしようとしているのか否かではなく、国家権力から照らしてその人がどういう人物であるのかに関心を持っているということであります。

 ローマ兵たちは、パウロがなぜ訴えられているのかわからず、確かなことをしるために、協議することにします。そして23章に入ります。パウロは最高法院の議員たちを見つめて言いました。見つめるということは、パウロが恐れなく相手を直視している姿を示します。そして「兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」という自らの身の潔白を主張し、自分がキリストを伝えることについて、何のやましいことはない、と弁明いたします。しかし大祭司アナニアは、彼の口を打つように部下に命じます。これはアナニアが、事実に即して審議を進めようとしているのではなく、まずパウロの罪ありき、というパウロの有罪を頭ごなしに決めつけて制裁を加えたのであります。しかしこれは法廷では明らかな違法行為でありましたので、彼は「白く塗った壁よ。神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従って私を裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、私を打てと命令するのですか」といいます。この「白く塗った壁」というのは、マタイ23章27節でイエス様が「律法学者・ファリサイ派」に対して、「」白く塗った壁」と語ったのを連想させます。つまり「外側は美しく塗られているけれども、その内実は人を裁こうとし、隔離しようとする偽りの壁」という意味でありましょう。そして周囲の者が「無礼なことを言うな」とたしなめたところ、パウロは「律法に、網の指導者を悪く言うな」と書いているのを忘れていた、すまない すまない」。というようなニュアンスで受け答えます。しかしこの言葉は、先ほどお読みしましたように、出エジプト記22章27節にある、神をののしってはならないという文脈の中で、民の代表者を呪ってはならないと言われています。つまり民の代表者が神の意志を反映する務めを担っているということを示した律法の言葉として理解することができるわけです。

 ですからパウロがここで言おうとしているのは、「このような者が民の代表であるのか」という皮肉にも受け取れる言葉であると言えるわけ
です。あなたたちの民の代表者は、白く塗られた壁であると。
 この彼らに対して、パウロは信仰の本質的なことを提示してユダヤ人たちを論争にさせます。それは復活があるかないかということです。サドカイ派は復活を信じず、ファリサイ派はこれを認めているという信仰上の問題を提示することによってユダヤ人の側にも論争を生じさせたのです。この両者は2世紀の長きに亘って対立し続けてきた間柄でありましたが、パウロが登場することによってユダヤ教が根底から揺らいでいるという危機感に突き動かされてこの両者はパウロを葬り去ろうとして集まっていたのです。しかし今やパウロによってこの古くからの論争を再び蒸し返されることによって、会議が混乱してしまうのです。その議論が白熱した中であるファリサイ人が立ち上がり「この人にはなんの悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろう」と言ってファリサイ派には理解可能なことであると述べたのです。そしてこのままの混乱が続くとパウロの身が危ないと察したローマ兵たちは、彼を兵営に連れて行き何とか事なきを得たのであります。

 しかしその夜、主はパウロの傍に立ち、こう言われます。そしてこの言葉が大変印象的であります。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。この神様の激励の言葉が力を失いかけているパウロに与えられるのであります。この言葉は、彼の前途に希望の光が消えたかに見える絶望的事態の只中に神の真のご計画が表されるという絶対的な言葉としての神の激励であります。パウロには多くの仲間がおりましたが、しかし彼を疎ましく思うものもたくさんおりました。アンティオキア教会の中にも、他のパウロの携わっていた教会にも、敵対者がたくさんいたのです。そして今やエルサレムの中ではパウロをめぐって最高法院は大混乱し、この男を殺し取り除いてしまえ、という恐ろしい言葉が飛び交う状態にあるのです。

 しかしこのような状況の中にあってさえも、神は「勇気を出せ」とおっしゃいます。この言葉を私たちはどう聞くでしょうか。まったく勇気の出ない状況に立たされたとき、私たちはどう思うでしょう。「勇気を出せ」などと言われても、勇気が出ないのだからだそうにも出せない。そんな難しい言葉を軽々しく語ってほしくない、と思うでしょう。それはなぜならば、人間の言葉としての「勇気を出しなさい」という言葉は、勇気の根源をその人本人が持っていないからであります。勇気を与えようと言って、自分が与えらえる勇気は高々知れております。もちろんその人に寄り添うこともできますし、その人の悲しみに触れることもできます。しかし人間の「勇気を出して」の言葉が軽々しく聞こえてしまうのは、それに責任が伴わないからでありましょう。勇気を出す力の根源がない。無力と罪に満ちた我々人間の側に、それがないのです。

 しかし神は、このパウロが、勇気のすべてが、根っこから引き抜かれたような状況にあって、勇気を出せと語るのです。そして語り得るであります。それは神ご自身の中に、勇気を出せの根源があり、私たちに力を与えるものを持っているからであります。
 「勇気を出しなさい。力強く証しせよ」。この言葉は裏を返せば、勇気はあなたが持たなくても持たせてくれるということと、その勇気を持てる見える証拠として、あなたが力づけられるだけではないということを含むのです。

 どう言うことか。それは神がこのパウロを殺そうと狙い定めている、あの敵対者たちにさえも、神の赦しの力が与えらえているということです。パウロは敵対する者たちとの戦いにばかり目を向けざるを得ない状況でした。自分の命が助かるか助からないか。自分の伝道者としての道が絶たれるか絶たれないか。それだけにとらわれていたのです。しかし神の愛はそうではありません。つまり神の愛は、パウロを殺そうとしているサドカイ派とファリサイ派にも注がれ、このローマ兵たちにも注がれ、自分に敵対する全ての者の罪を赦してくださる方が神なのであります。それがパウロの伝道し述べ伝えている神の言葉の事実であるのです。だからこそ彼は自分の走ってきたことが無駄ではない、神の言葉にはすべての信頼があると心底感じたのでしょう。それが彼の勇気となり、励ましとなったのです。

 ですから冒頭で申し上げました。ユダは赦されたのか。この答えは「然り」であるのです。私たちはこの確信を持ってよいのです。この確信がなければ、敵対するものをどうして愛することができましょう。そして敵対するものと敵対する自分がどうして赦されることなどありえましょう。それが神の愛の計画なのであります。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年7月2日)