11月7日~12日の集会

11月7日~11月12日の集会

◇杉戸集会          9日(水)午後 2:00

◇聖書の学びと祈り      9日(水) 午後 7:30
  箴言17章~18章         
    
◇聖書の学びと祈り     10日(木) 午前 10:00
  出エジプト記11章        

◇「生と死」の学び        同  上  後

◇トレインキッズ       12日(土)午前11:00
 

11月13日の礼拝

     11月13日の礼拝
   <こどもとおとなの合同礼拝> 
 
 日 時:11月13日(日)10:30~11:30
 
 説 教:「ブドウ園の労働者」
        
 説教者:三輪地塩牧師

 聖 書:マタイによる福音書20章1節~16節


☆礼拝後、お食事を共にいたします。どなたもご自由にご参加ください。
   おとなのみ¥200

マタイによる福音書5章13節-16節 『地の塩、世の光』

日本キリスト教会 浦和教会 主日礼拝説教

  マタイによる福音書5章13節-16節 『地の塩、世の光』 2011年11月6日

 ミッションスクールである青山学院大学の教育理念・大学モットーとして掲げている聖句が、「地の塩、世の光」であるということです。青学のwebサイトを見ますと、そこに次のように詳しく掲載されておりました。
 『「地の塩」と「世の光」は主イエスが語られたものですが、「教え」というより「宣言」です。 つまり「あなたはかけがえのない存在だ」との宣言のもとに青山学院は立つのです。〉塩は味をつけ、腐敗を防ぎ、清める役割を果たします。人体には0.7%の塩分が必要であり、1日10~15グラム摂取しなければ人は生きられません。隠し味的に、目立たぬ行いで人のため社会のため、意味を与え腐敗をとどめ、汚れを清めていく人材を学院は輩出していきます。
また、誘導燈・燈台の灯(ともしび)のように導き、明るさと暖かさを与えるのが光です。さらに殺菌し、滋養を与えるのも光です。その如く、目立つ行いで希望の光として励ましと力、エネルギーを周囲に発していくことを本学院はつとめとします。
 「地」も「世」も大地や世界という意味よりも「神なき現実」「人間の尊厳を失わしめるような状況」の代名詞です。そうした中で私たちは、神の恵みにより「塩」であり「光」とされているのです~。』
 このように書かれておりました。この中に十二分に今日の箇所についての説明がなされております。今日の箇所は、クリスチャンとしてある程度聖書を読んだことのある方であれば、知っている言葉であります。非キリスト者の人でも、中には知っている方もおられるそのような個所であります。
 一昨年、埼玉県の草加市において市議会の定例会で瀬戸健一郎というクリスチャン議員が、草加市の市長と暴力団が癒着しているらしいという事を追及するための質疑の場面、この聖書の箇所を読み、「我々公務に努める者は、地の塩であり。世の光であらねばならないといつも思わせられるのです」と前置きをし、現職の市長の汚職について厳しく追及しておりました。その発言を市議会議員たちは、誰一人として野次を飛ばすことなく、神妙な雰囲気で聞いていたのは実に印象的でありました。そして思いましたのは、瀬戸議員自身が地の塩であり世の光でありたいと願っているのではないかという事であります。

 塩には3つの効能があります。味付け、防腐剤、清め、であります。これらの働きこそがキリスト者に求められているものだと、そう言われる。又、光に関しても同じでありまして、それは世の中の暗闇を照らす役割としての生き方が求められているのだと、そのように求められているのです。ここにおいて聖書は私たちに対する「キリスト者としての理想」を語るのです。このように生きよ、と。理想というと大変に口幅ったい言い方に聞こえるかもしれませんが、しかし本当にそうなのです。あなた方は地の塩である。あなた方は世の光である。この言葉は、あなた方は地の塩になるように努力しなさい、とか、あなた方は世の光となるようになれれば良いですね、というような、未来、願望、希求法的な使われ方がされているのではなくて、しっかりと現在法にて書かれているのです。それはもうすでにあなた方は地の塩なんですよ。世の光なんですよ。という断定の意味が込められているのです。だからキリスト者である皆さんは、このことばから逃れてはならない。あまりにも大きな理想を掲げさせて、そんな力がこの私のどこにあるのだと自らを疑ってはならないのです。乃至は、そんな理想を掲げられても私たちは罪深い人間なのだから、そんな大それた立派な人になることを求められても無理だ、などと、人間の根源を否定してはならないのです。なぜならそれは「現在、断定形」で書かれた「である」という言葉によって私たちに語り掛けられているからであります。

 では、しこの罪深い私たちには何が出来うるのでしょうか。地の塩、世の光としての働き、生き方、理想形、何か大きなボランティア団体、NPO法人を立ち上げたり、多額の寄付をしたり、はたまた、マハトマ・ガンディーやマザー・テレサのように、世の一切の富や私財をなげうって、人に仕える事なのでしょうか。そしてそれが出来なければキリスト者ではない、というのでしょうか。勿論そのような生き方が出来れば、それは素晴らしい事でありましょう。やろうと思っても出来ない。取り立てて素晴らしい能力や賜物が無ければ出来ないからです。しかしそのような才能に恵まれない普通の人たちはこの「地の塩、世の光である」という言葉をどう受け取り、どう自らのものとすれば良いのでしょうか。

 数年前に浦和教会の伝道礼拝に招いたことのある加藤常昭という神学者・牧師がおりますが、彼はこの箇所において、次のような事を言っております。少し長いですが引用してみます。
 「そこで改めて『地の塩』とは何かを考えてみたいと思います。『地』それは大地です。そこで生を営むこの世です。この世の生活の中に、塩として働く者は、姿を隠しています。料理の中に塩が入っている事が、目に見えるようであったら塩辛くて食べられません。塩は自分の姿を隠します。その食べ物の味を生かすためです。本当の甘みを生かすには、やはり少量の塩が必要だといいます。そかし塩辛いと人が思うほどに塩が利いたら、何もかもぶち壊しです。塩が塩本来の働きをするには、自己主張してはいけないのです。
 『光』はそれとは逆です。光は輝かなければなりません。その存在を明らかにしていなければなりません。しかし、光も何のためにあるかと言えば、暗いところに光を投げかけてあげるためです。照らしてあげるのです。やたらに明るくて、人の目がくらむようなら、それは光の役割を果たしません。他のものが目に入らないほどに輝くことは許されません。高いところに置かれるのは、それだけよく周りを照らすためなのです。」
 このように加藤常昭氏は語っておられました。
 なるほどなと思わされたのですが、この事から分かるのは、地の塩であり世の光となるなり方の一定ではない。そのことが聖書の中から読み取れるということです。

 しかし両者共に言えることは、塩にしても光にしても、一貫して語られているのは、「自分が生きるこの世で、他者を生かす」という事ではないかと思うのです。主イエス・キリストが、神の身分でありながら、そ
のことに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして私たちに仕えられた、と聖書に書かれているように、自分が生きて、自分が目立って、自分のためにそれが塩の役割だ、これが光の働きなんだと、自己主張が働いてしまうならば、それは既に地の塩の塩性を失い、世の光の光性を失っていることになるのではないかと思うのです。自分ではなく他者を生かす。それはまさに主イエス・キリストが生きられた歩みに身を投じ、私たちも同じように、キリストに倣って歩んでいくという事が求められている。それ故に、このように生きよ、という所謂「理想形」としての姿が示されているという事であります。

 先週の木曜日にソウル日本人教会の吉田耕三先生を講師に迎えて、日本軍慰安婦問題の講演会が浦和教会で行われましたが、偶然にも講演の一番最後で吉田先生が「地の塩」「世の光」を取り上げてこう語っておりました。「聖書は、この世の中が腐敗している事、汚れている事が前提になっている。けれどもキリスト者は、この世の中で地の塩としての役割を果たし、世の光としての役割を果たさねばならない。それがこの箇所の意味なのです。」そうお話になっておりました。
 「世の中が腐敗していることが前提である」というのは、非常に新鮮な視点でありました。勿論、罪ある世の中、人間の原罪という観点から考えると当たり前のことなのですが、改めてこの箇所の意味を教えられた思いが致します。つまり腐敗を防ぐ塩として、また暗闇の中を生きる我々が道しるべとして、この世を「生かすために」自らが生きなければならないというメッセージでありました。

 フランスのカトリック作家、ベルナノスの信仰書「田舎司祭の日記」の中で彼は、「『主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言われたのであって、「あなたがたは地の蜜である」とは言われなかった。「あなたがたは世の光である」と言われたのであって、「あなたがたは世の蜜である」と言わなかったのだ』。このように言っております。その心は、わたしたちは自らを甘く見がちであり、また、この世というものは甘く穏やかな蜜のような味わいでなければならないと錯覚しがちである。そして世の多くの人たちが互いに、平和で、優しい、穏やかな生活をすることが聖書の示す生き方だと思いがちである。しかし世に生きることは、蜜を求める、蜜になろうとするのではなく、塩の塩辛さ、痛さ、口にすると刺激があるけれども、それがこの世に対する痛みを示している。ベルナノスはそのように言っているのであろうと思います。
 それと同様に、イエスの恵みは痛みと悔い改めを内に含んでいるのであります。主イエスは伝道を開始したとき「神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」と言われましたが、そこには他者を生かすための痛みやもがきにも似た者を感じるのであります。

 お読みになった方も多くおられると思いますが、O.ヘンリーの「最後の一葉」という小さな小説があります。その最後は大変印象的な終わり方になっています。

 アパートの階上に住む若い女性画家ジョンジーは肺炎を患ってしまい、あの枯れかけた最後の一枚の蔦の葉が落ちた時に自分の命も潰えるのだと、すっかりと生きる気力を失っていました。同じアパートの住民で漁人の画家ベアマンは、「いつか傑作を描いてみせる」と豪語しつつも、しばらく絵筆を取らず、酒を飲み、人の悪口をいう日々を過ごしていました。彼はジョンジーの話を聞き、そんな迷信じみた事を信じるなんて、とあざ笑うかのように聞いていました。
 大嵐が来て、蔦の葉っぱももう無くなったかと思われた次の日、驚いたことに、最後の一枚の葉が壁にとどまっているのをジョンジーは見ました。そして思いを改め、生きる気力を取り戻して回復したのでありました。
 しかしその最後に残った葉っぱは、ベアマンが嵐の中、煉瓦の壁に絵筆で描いたものであったのです。ジョンジーは奇跡的に全快を果たします、しかしベアマンはその葉っぱの絵を引き換えに、肺炎になり、その2日後に亡くなったのです。あの最後の一葉こそ、ベアマンがいつか描いてみせると言い続けていた傑作であったのだ。- このようなお話しであります。

 ベアマンが求めていたのは「傑作」でありました。それはこの世における名誉、栄光、富への欲求でした。それは自分を大きく、立派にすることでした。しかし彼が選んだ自らの命は、この今にも死にそうな小さな人の命を、自分の命を引き換えに助けることであった。大きなことではなく、小さな事の中にある、ベアマンの選び取った命。それこそが、地の塩、世の光となり、小さな他者を生かすための歩みであったのではないかと思わされたのであります。
 「地の塩、世の光」。私たちは、それになろうと努力して歩むのではありません。すでにあなた方は、私たちは、「地の塩、世の光である」のです。他者を生かす為、自らを虚しくして生きる。その事が今日の御言葉に示されているのです。

( 浦和教会主日礼拝説教 2011年11月6日 )

東京中会連合婦人会一日修養会ご案内

   東京中会連合婦人会一日修養会

11月14日(月) 柏木教会
  10時00分 受付  
  10時30分 開会礼拝
      「御国の完成を見るまでの訓練」
        説教 教師 田中伊作(上田教会牧師)
  11時10分 講演Ⅰ 
  13時20分 講演Ⅱ      
      「むさぼりから解き放たれて」
       ― 第十戒を学ぶ ―
        講師 教師 中家 盾(栃木教会牧師)
         
      

日本軍「慰安婦」問題と取り組む会 講演会

日本軍「慰安婦」問題と取り組む会講演会 お知らせ 

  講 師:吉田耕三(ソウル日本人教会牧師)
  講演題:「‘痛み’を分かち合うと言うこと」
     ― 加害者と被害者の狭間にて ―
  日 時:11月3日(木・休)13:30~16:00
  場 所:浦和教会

10月31日~5日

10月31日~11月5日の集会

◇聖書の学びと祈り      2日(水) 午後 7:30
  Ⅰコリント12章12節~31節         
    
◇聖書の学びと祈り      3日(木・休) 午前 10:00
  出エジプト記9章        

◇日本軍「慰安婦」問題と取り組む会 講演会 
               3日(木・休)午後13:30
                  場所 浦和教会