2017.12.31の説教から

              <1231日の説教から>
            新しいぶどう酒は新しい革袋に」
        マルコによる福音書218-22
                                                      
                                  牧師 三輪地塩
 ここには二つの譬えが語られる。一つ目は「新しい布ぎれを、古い服
に縫い付けることはしない」こと。二つ目は「新しいぶどう酒は新しい革
袋に入れる」こと、である。脈絡なしに書かれているように見えるがそう
ではない。着物とぶどう酒は、当時の結婚式に必要な物の象徴である。
 
 イエスは「新しさ」と「古さ」について教える。まださらしていない新しい
布切れは縮むため、古い布を引きちぎってしまう。新しいぶどう酒を革袋
に入れて発酵させる場合、すでに使い古して伸びきった皮袋に入れる
と、若いぶどう酒は発酵が進み、パンパンに膨れ上がり、しまいには皮
を破いてしまう。つまり、「布」も「革袋」も、新しい物に対して新しい物を
使うことが重要である。
 
 キリスト教信仰においても似ている。古きものを重んじつつ、日々新し
くなっていくことによって信仰者は成長し、教会は成長する。「正しい信
仰者」は存在しないが、「ある特定の時代に限定された、正しい(と思わ
れる信仰者)」なら存在するかもしれない。人間の倫理観や正しさは、い
つも流動的だからである。つまり我々は、いつも時代と共に歩み、時代
の倫理観や文化的制限と共に、限定的・過渡的・暫定的な「正しい信仰
(者)」であることを求める。かつて、魔女裁判なるものが横行したが、当
yle='font-family:"serif";'>時の倫理観では、それは許される「(キリスト教)倫理的行為」であった。
今では考えられない。
 我々は、永遠から永遠に変わらないのが、三位一体なる神のみであ
ることを信じつつ、世の中の事象に目を凝らして歩む民である。決し
て、時代に迎合し、おもねって生きるのとは違う。信仰により日々新た
にされることは、時代を愛し、世界に関心を向け、隣人を大切にする事
によって、生活の中でそれがどう生かされるのか、自分がどう生きて
いくのかを見つめることである。
 イエスの教えは、人間生活を規則で縛るという古いものではなく、人
間に対し、愛を持って包み込むという新しさを、神の中に見出す教えで
ある。当然、その精神は、現在の我々の信仰にも受け継がれている。

2018.05.20~26 今週の集会

  今 週 の 集 会

  

  ◎祈祷題「未陪餐会員のため」
教会から長く離れている人のため
    聖書の学びと祈りの会24日()10:00     
     エステル記2章(担当 鈴木美津子)                                 
                司会
    聖書の学びと祈りの会24日()14:00      
     詩編5編        担当 大 和 文 彦
    立教大学キリスト教学会大会                                  26日()13:0017:00

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その他のお知らせ

   ◇牧師三輪地塩の博士学位申請論文
       「殉教の記憶記録伝承」
    -津和野キリシタン史  記述再考-
    を寄贈図書として2階本棚に置きます。
        どうぞ ご覧ください。
 

2018.05.13~19 今週の集会

 
 今 週 の 集 会

 

祈祷題ペンテコステのため
      「信仰の継承のため

神学校建物委員会(神学校) 
                 15日()16:001800

タビタの会共同機関紙発送(西宮中央)
                 17日()13:00

聖書の学びと祈りの会  17日()10:00         

  列王記下17章(担当 三輪地塩) 
                  司会  岡 野 庸 子

聖書の学びと祈りの会 17日()14:00
  
   ヨブ記2章           担当 鈴木 美津子

2017.12.03の説教から 

      <123日の説教から>
            『医者を必要とするのは病人である』
     マルコによる福音書213節~17
                                牧師 三輪地塩
 
 徴税人レビと共に食事をしたイエスを見て、ファリサイ派は非難した。これに対してイエスは次のように言う。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。医者は求められるところに行く。それと同じように、私は魂の病んでいるもの、私を求める者のところに行くのだ」。これは非常に濃密な言葉である。
「義」(ディカイオシュネー)と「罪」(ハマルティア)が対照的に出てくるが、聖書が語る「義」(ディカイオシュネー)は、「神と正しい関係性にあること」を意味している。また「罪」(ハマルティア)は、「的外れ」という意味を持っている。
 義人と罪人の関係として、ローマ書310節には「義人はいない。一人もいない」とあり、またコヘレトの言葉720節には「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」とある。おそらくイエスもそう考えていたのだろう。つまり、ここで義人(正しい人)と言われているのは、「「自分は正しい人間だ」と、思い込んでいる間違った人」、すなわちファリサイ派の罪を問う呼び方である。
それまでの穢れた生活、悪い心、犯してしまった罪の数々、それらは消えないけれども、罪を自覚し、ただ主に願い求める事が出来るならば、その罪人は、罪赦された罪人として生きることが出来る。あのヨハネ15章のぶどうの木の譬えのように、「キリストに繋がっていなければ」、私たちは正しい者ではありえない。幹に繋がっていなければ、その枝は、善い実を結ばない、からである。
 この箇所で重要なのは「罪を持つ人は救われない」と考えていた当時の人々の固定概念を取り除いたことにある。そしてもう一つは、「求める者のところはどこへでも、イエスは近づき給う方である」ということも重要である。求める心を持たない者は、自らと主イエスとの間に隔たりを置いてしまう。だが求める者は、主イエスの復活の命と共に生きる者となる。