<10月30日の説教から> 『イエスの祈り(2)』 ヨハネによる福音書17章20節~26節 牧師 三輪地塩 第二次大戦中、ナチスドイツの空襲を受け、天井が破壊された ある教会での出来事。礼拝が終わりに差し掛かり「主の祈り」が 祈られたが、「我らの日用の糧を今日も与えたえ」と祈った後、 会衆がくちごもった。なぜなら、その続きが「我らに罪を 犯したものを我らが赦すごとく…」という祈りであったからである。 我々はあの憎きドイツ帝国を赦す事など出来るのか」という 問い掛けと共にその教会の信仰者は生き・生活していたからである。 具体的な敵を想像しない現代日本の教会とでは、その空間、時間の 次元は全く異なるのである。 つまり「教会の祈り」とは、教会員一人一人の、それぞれ別々の 祈りが、それぞれの生活の中にある状況において、それぞれの 信徒たちの一つ一つの喜びや悲しみ、━あるいは誰にも話す ことができないドロドロした自分の罪でさえも!━、その教会、 集合体の中での祈りとして、捧げられる祈りとなるのである。 当該箇所から、我々は主イエスの祈りが、教会に向けて祈られて いることを聞き取るべきである。21節でイエスは、「父よ、あなたが わたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、 すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるように してください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになった ことを、信じるようになりなす」と祈る。それは神がイエスと共に おられるのと同じように、三位一体の神の内に我々教会共同体が 存在していることを示している。 教会は、教会自身が独自に自分たちの力で作り上げるものでは なく、父と子と聖霊の交わりの中にある神の働きによってのみ成り 立つのである。教会は、信徒一人一人の祈りによって支えられ、 その信徒の集合体の中にキリストがおられる。教会の歩みを 決める根本には、教会員一人一人の祈りの支え、祈りの力がある。 一人の祈りは小さく卑近なものかもしれず、時には個人的で、 整っていない稚拙で幼稚な祈りとなることもあろう。だがその中に 「聖霊の執り成し」を信じて、大胆に祈りを捧げていきたいものである。 |