2017.09.17の説教から

  
      <917日の説教から>
                   『福音の初め』
             マルコによる福音書11節~8
                                    牧師 三輪地塩
 ヨハネは荒れ野に現われた。これから福音が伝えられるのは、綺麗な花が咲き誇る場所にではなく、荒れ野にであった。荒れ野は、石灰石に埋め尽くされた、不毛な場所、生命の育たない場所、という意味を持って語られる。
しかしながら、イスラエル救済史は、我々に荒れ野で起こった祝福の出来事について想起させる。荒れ野で神は十戒を授け、民と契約を結び、40年間約束の地へと民を導かれた。だが民は、ひと時も神から目を背けずに、神に聞き従ったわけではなく、「のどが渇いて死にそうだ」「肉なべを食べさせろ」「これなら奴隷のままの方がよかった」などと文句を言い続けた。一日に必要な分しか取ってはいけない、と言われたマナを、必要以上に集めて自分の物にし、神の怒りをかった。刻んだ像を作ってはならないと言う十戒を、授かったそばから違反して、偶像を鋳造したのであった。人間がこれだけ神の意に反しているにもかかわらず、神はその憐れみ深さによって、民を捨て置かず、見放さず、導いた。それが私たち人間に象徴される「荒れ野」の意味である。「荒れ野」は、聖書の読者にとって、単なる荒廃した場所ではなく、神の憐れみが現される場所と理解されるのだ。
現代日本は、多くの「荒れ野」で埋め尽くされている、と言える。しかしだからこそ「神の言葉が与えらえる、豊かな宣教の場である」とも言い得る。興廃したこの世、この国、その政治・経済、、。我々はそのことを嘆くのではなく、神の憐れみが現される場所がここにあるのだ、と、考えたいものである。
ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜を食べていた」という不思議な描写は、預言者エリヤをイメージしている。我々自身が洗礼者ヨハネやエリヤのような預言者になることは出来ないが、彼らのような「預言者的視野」を持ち、世の中を厳しく問いつつ、世を愛し、世の不正を追及する事もまた、我々キリスト者に与えられた重要な使命であるだろう。