2019.03.03~09 今週の集会

  今 週 の 集 会
 
◎ 祈祷題「こどもとおとなの合同礼拝・愛餐のため」3/10
アジア・カルヴァン学会講演会    4日()13:00
聖書の学びと祈りの会                    7日()10:00
  創世記38章(奨励  鈴木美津子)           司会
※ 神学生鈴木美津子さんとの愛餐会     同   
〇 聖書の学びと祈りの会                   7日()14:00
  使徒言行録1522~35節           担当
 

2018.07.22 の説教から

722日の説教から>
この子供の一人を受け入れる者
        マルコによる福音書930節~37
                       牧師 三輪地塩
 イエスが弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねのは、彼らが「誰が一番偉いか」について議論し合っていたからであった。彼らはイエスの思いとはかけ離れた価値観にあった。恐らく彼らも、誰が一番偉いかという事が本質的なものではないことは何となく分かっていたはずである。だから「黙っていた」のであろう。
この弟子の姿を見たイエスは、12人を呼び寄せた。「一番先になりたい者は、全ての人のあとになり、全ての人に仕える者になりなさい」。この言葉には信仰の本質が示される。イエスは、偉さの概念を、大きさや、立派さの中にではなく、身の低さ、謙虚さ、自己否定の中に示された。
 興味深いことに、イエスは「一番の弟子になって良い」と言う。イエスが言う「一番」は、人を出し抜いて奪い取る一番ではなく、仕える事による一番であり、人のために行なうことの一番である。イエスは謙虚さを求める。しかし、ただ控えめな謙虚さや引っ込み思案ではなく、「積極的な謙虚さ」である。弟子たちが「誰が一番偉いのか」について語っていたのは「ただの積極性」であった。イエスの求めは、「積極的謙虚さ」であった。イエスは「子ども」を引き合いに出し「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。と語る
 当時の子どもは「弱さ、無力さ」の象徴であった。政治的・経済的・軍事的に、人数として数えられるのは「成人男性」であり、女性・子供は、公の場に出ることが無かった。そのような小ささ、弱さ、無力さの象徴、である者たちを受け入れる者こそ、一番偉いのだ、とイエスは言う。
 現代も同じ響きを持って語られる、「現代社会の中で小ささ、弱さ、無力さを持った人」、さらに「蔑まれている人、軽蔑されている人、迫害されている人、虐め、虐待を受けている人」に対し、「私の名のために、その『小さく、弱く、蔑まれた人』の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。この言葉は真実である。

2019.02.24~03.02 今週の集会

  今 週 の 集 会
 
◎祈祷題「浦和教会会堂改築のため」
神学校卒業式            25日()13:00
浦和教職者会(埼大通り教会)  26日()10:00
聖書の学びと祈りの会                      28日()10:00
  歴代誌上17章(担当 三輪地塩)            司会

聖書の学びと祈りの会                    28日()14:00

  詩編33編                担当

2019.02.24 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
      
  奏楽    子 
                     <神の招き>
招 詞  イザヤ書421a
*讃 詠  (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編132812
*讃美歌  (21)7〔13
 
<神の言葉> 
聖 書  申命記157節~11    (旧約P. 305
    マルコによる福音書141節~9
                 (新約P.90                         
祈 り               増 田 裕 子                                                                                           
*讃美歌 (21)297
 教 ナルドの香油」     三 輪 地 塩
                                                       
 
 <神への応答>
*讃美歌 (21)294
*十 戒
 公 告 
*献金感謝        
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏  

2018.07..15 説教

715日の説教から>
『信じる者には何でもできる』
        マルコによる福音書914節~29
                       牧師 三輪地塩
 
癲癇(てんかん)を持つ子の父親が、イエスの弟子に癒しを求めたが、癒すことは出来なかった。イエスは弟子たちに対し「何と信仰のない時代なのか」と、癒やせない事が「不信仰によるもの」と述べている。
だが、弟子のみならず、この父親も信仰と不信仰の狭間にいたのであった。22「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と彼は言う。「おできになるなら」という言葉から、父親の思いを読み取る事ができる。彼の「もし出来れば」は、「弟子たちが出来なかったのだからこの人もできないのではないか?」という、疑いと迷いの表われである。
だが、これを聞いてイエスは言う。「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る」。ここに信仰の本質が表現される。絶望をもってキリストを信じるか、希望を持ってキリストを信じるか。ここに我々の信仰のあり方が問われている。
 この主イエスの言葉に対して父親は「信じます。信仰のない私をお助け下さい」と答えた。これはとても逆説的な言葉である。「信じる」と言っておきながら「自分は信仰が無い」とも言っているからである。一見すると矛盾しているようにも感じるがそうではない。我々の多くが、信じることと信じられないことの中にいるからだ。この父親の姿はあたかも我々の姿を投影するかのように描かれる。彼は、イエスのもとに息子を連れてくるほどの信仰を持ちながら、しかし尚も「もし出来るなら」と、疑いを隠し切れない不信仰を持っている。そして我々こそが、この父親のように、信仰と不信仰との狭間を、葛藤と共に歩むのである。時には堅い信仰心を持って、しかし時には疑いを持ちつつ、そうして練られて鍛えられた鋼のように、いつしか信仰は鋼鉄のように堅く確固たるものへと変化していくのである。
 
 

2019.02.17~23 今週の集会

      今 週 の 集 会
  
  ◎祈祷題「神学校卒業式を覚えて」225
    
    神学校講義(三輪)神学校        18() 900
    歴史編纂委員会(三輪)神学校          18()1330                 〇日本軍「慰安婦」問題と取り組む会(荻窪北)     19()1330        〇聖書の学びと祈りの会                       21()1000
         歴代誌上16章(担当 三輪地塩)                  司会  
        聖書の学びと祈りの会                                   21()1400
            使徒言行録151節~21節                     担当  
        全国青年の集い委員会(大阪姫松)           22()23()