創世記の概略
創世記という書名は、中国語の漢訳から来たものでそれを踏襲しています。
LXXでは「ゲネシス・コスムウ」、ウルガタでは「ゲネシス」、ヘブライ語聖書ではベレーシート(「初めに」の意)
創世記は1章~11章までを原初史(始源史)と言われ、天地創造からノアの洪水までをそう呼んでいます。12章から最後の50章までを「父祖たちの物語」と言い、中でも12章1節~25章18節がアブラハム物語、25章19節~36章43節がヤコブ物語、37章~50章がヨセフ物語と呼ばれています。
創世記の位置づけに関しては、モーセ五書、恐らく紀元前6世紀末から5世紀前半であると見られます。この書物は(特にモーセ五書全体を通して)、特定の人によって書かれたものではなく、それまで言い伝えられてきたもの、また新たに書き加えたもの、既に出来上がっていた文学作品(ヨセフ物語)等を組合わせて編纂されたものと考えられています。
学問的には、ヤハウィスト資料(J)、エロヒスト資料(E)、祭司資料(P)の3資料によって書かれています。
ヤハウィスト(J)=人間の罪に対し神の救済の働きを主に叙述している。神名ヤハウェ。
エロヒスト (E)=「父祖の神」として幻や夢を通して人に神が顕現する(断片的)。神名エロヒーム
祭司 (P)=祭儀、祭司、系図や年代に関心を持ち、ワンパターンの定型的な表現や数字、人 名、地名を用いて、世界の宗教的、時間的、空間的秩序を叙述する特徴を持つ。神名 はエロヒームを用いるが、父祖に対しては「全能の神」エル・シャッダイが使われる
創世記は聖書の第一の書物として、聖書全体のプロローグです。この書物は、私たちが根源的に持っている大命題が見事に提示されています。例えば、神の存在とは何か、人間とは何か、世界とは何か、なぜ人生には悩みや悲しみがあるのか、なぜ人間には罪があるのか、その罪をもって私たちはどう生きればよいのか、など、聖書の根本主題がここに提示されている、と言ってよいのではないかと思います。
冒頭の1章1節は印象深い出だしになっています。「初めに神は天地を創造された」。ここで面白いのは、神の存在証明などを一切せず、「神は」と語りだしているということです。神様はいるのか、いないのか、どこにどうやって存在するのか、というようなことを述べず、神の存在そのものは自明のこと、明白な根本事実として語りだしています。
2節「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。この言葉には大変に深い思想が込められていると思います。神様は1日に一つずつ作業を進めていきまして、少しずつこの世界をお造りになっていくわけですけれども、その一番初めに光をお造りになった、というわけです。天地創造はこのあと、2日目に空と海を創造し、3日目に海と陸を、そして4日目に天体を創造する、という具合に続いていくわけです。4日目に天体を造っているのに、1日目に光が作られている、というのは、どこと無く矛盾を感じるかもしれません。
私たちは光は天体から、夜は月や灯火から与えられるものであると考えています。しかし聖書はそうではないと言います。この1日目で言われている光というのは天体の光ではなく、もっと根源的なものであると考えているわけです。
またこの光を創造した力が「言葉」であったということもまた興味深いことです。ヨハネ福音書に冒頭にある「はじめに言葉があった」と始まるこの4節に「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれていますが、この聖書の根本の光、このことを想起させられます。また、詩編には「御言葉はわが足の灯火」という言葉がありますように、光は秩序であり、道しるべであり、また希望であります。それが神の言葉の根源であるということが創世記の中から読み取ることが出来ると思います。
3日目に海と陸、4日目に天体、5日目に水中と空の動植物の創造が語られます。ここにあるのは、4日目の天体、イスラエルにも大きな誘惑であった天体崇拝と関連して、太陽、月、星のランクを落としているのだと考えられています。6日目には神の形にかたどって人間が創造されたと書かれています。しかし今日はこのことに触れずに、来週に持ち越したいと思います。
さて、今日の話を終えるにあたって、一つ注目しておきたいことがあります。それは今日の箇所の最も印象的な言葉、1章1節です。
初めに神が天地を創造される以前はどうなっていたのだろうか、という疑問が浮かびます。しかしこれこそが私たちの神様の根本であり、また中心でもあるメッセージが込められています。すなわち「神は無から有をお造りになった」ということです。無から有を造るというのは、物質的な事柄として考えることに留まらず、私たちの心のうちの、また生活のうちで与えられる、全ての無が有に転じさせる、その根源的な力をお持ちである、ということを覚えたいのです。
つまり、私たちはこの世の中に生き、生活し、紆余曲折ありながらも歩んでいく者たちでありますが、その中には多くの不毛な出来事も含まれることであろうと思います。人間がその人生の中で必ず併せ持つ、全ての無の出来事。ここから何も生み出されることは無い、と思われる出来事。ここには何の幸せもなく、何の生きがいもないと思われる状況があります。しかし聖書の神は、創世記の1章1節の言葉によって私たちに語り掛けます。「私はあなたの無から有を創造する」と。
私たちに振り掛かり押し寄せる、全ての挫折、失望、不毛な思い、絶望感の全てを、神はご存知であり、さらに神は、その無から有を創造なさる方である。そのことを信じ、また信じさせられる出来事こそが、「天地創造」であるのです。
5月30日の礼拝予定
聖 書 ヨエル書 3:1-5 (旧約P.1425)
使徒言行録2:14-36 (新約P.215 )
説教題 「ペトロの説教」
説教者 三輪地塩 牧師
『教会の誕生日』
<先週の説教から>
創世記11章1節-9節
使徒言行録2章1節-13節
・・・その意味でペンテコステは、教会が教会足りえる日、教会の本来の姿が回復された日、と言えるのです。教会が不毛の土地から大いなる収穫を得た日と言い換えてもよいかもしれません。主イエスが昇天したあとの弟子たちは、気力もなくなり、途方に暮れていたと思います。心は燃え上がらず、何かを成し遂げようとする思いにも至らなかったのでしょう。しかしこのような弟子たちの落ち込む時が聖霊によって収穫の時に変えられました。家から出られず、互いに話をする気力すらも失っていたであろう弟子たちが、聖霊に満たされて語りうる力をえたのです。このような不毛の時期をも収穫の時として下さったのです。それこそがペンテコステの出来事なのです。
同じく私たちも、イエス・キリストを信じ、聖霊に満たされるならば、どのような時も収穫の時となり得ます。心沈むときも、喜びにあふれる時も、聖霊に満たされているのなら、これもまた収穫の時なのです。苦しみもまた収穫であり、嬉しさも、落ち込む事もまた収穫となりうる。そのことをペンテコステの日は私たちに語るのです。
私たちはこのペンテコステを覚え、聖霊による「回復の恵み」を喜びましょう。弟子たちはひっそりと息を殺して過ごしていたはずです。ローマ当局に見つからないように、静かに祈って生活していたはずです。しかしその彼らが、「聖霊に引っ張り出され」、日の光を浴びる者となったのです。それは神から隠れる生活から、神との関係を回復された生活に戻る瞬間でもあるのです。神との回復。人間との回復。自分自身への回復。そのことを覚えたいものです。
5月30日~6月5日
○聖書の学びと祈り 2日(水) 午後 7:30
イザヤ書5:1-7 (奨励 大 和 文 彦)
○聖書の学びと祈り 3日(木) 午前10:00
創世記 5章 (奨励 三 輪 地 塩)
○生と死の学び (担当 岡 野 庸 子)
5月24~29日の集会
ヘブライ書1:5-14 司会 安 井 国 雄
(担当 角 野 託 司)
創世記 4章 司会 岡 野 庸 子
(担当 三 輪 地 塩)
5月30日の礼拝
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。