2018.12.23 礼拝予定

             主日礼拝        午前 10:30
            <アドベントⅣ・クリスマス合同礼拝>
                        奏楽  三輪 志都

            <神の招き>
 招 詞   イザヤ書7章14節
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩篇 117編1節~2節
*讃美歌   (21)258

             <神の言葉>
  聖 書   詩篇103編17節~22節       (旧約P.940)
         ルカによる福音書2章8節~21節 (新薬P.103)
  祈 り
*讃美歌  (21)263
 説 教   {民全体に与えられる大きな喜び」
                               三輪 地塩
 
             <神への応答>
*讃美歌  (21)265
*日本キリスト教会信仰の告白
 洗礼式
 聖餐式   (21)79
 公告  
*献金感謝   [クワイア   (21)269]
*主の祈り
*頌 栄   (21)46
*派遣と祝福
*後 奏

2018.06.10 説教から

 
610日の説教から>
『今の時代の者たちはしるしを欲しがる』
         マルコによる福音書811節~21
                     牧師 三輪地塩
 例えば近くの公園はどこかに泉が湧き出したとする。その湧き水を飲むと難病が治ったり、その水で患部を洗うと重い皮膚病が治ったり、という事があった場合、人はこの泉についてどう考えるだろうか。「素晴らしい泉が湧き出た」ことよりも、この「泉」「水」自体を、自分の理解の範疇に置こうとするだろう。この泉によって癒やされた人々の苦しみや、悲しみが癒やされたことに注目するのではなく、この泉はどこを源泉とした水なのか。この水の成分は何か?その奇跡は本物か?その奇跡を合理的に説明できるのか?・・・等のような議論が生まれると思われる。つまり我々は、神の奇跡、神から与えられた恵みの出来事に対し、それを疑って見ることをやめず、何とかそれを「科学的」或いは「理知的に」証明可能なものに転化しようとするだろう。それは、神の次元・神の領域でしか分からないことを、我々人間の理解可能な場所へと引きずり下ろそうとする行為に他ならない。
 この箇所においてファリサイ派たちは、神の奇跡や、神の恵みという事に自分の身を置こうとする活動をしているのではなく、「人間の行い」に注目を向ける活動をしていた。当然「神のために」とか「神の言葉を守るため」と彼らは言うのであるが、それが「律法を文字通り事細かに守ること」を人々に強いるのである。安息日規定を守り、食物規定を守り、宗教的穢れを犯すことなく、手を洗い、身を清め、宗教儀礼を重んじることを推奨する。そこに「心」がなかったとしても、それを行うことこそが「信仰である」と解釈して。
 我々の信仰は、「理知的」「理性的」であることをよしとする事が多い。だが、神を信じるとは、「不条理なるが故に我信ず」(ラテン語: Credo quia absurdum)と古代教父テルトゥリアヌス(AD160-220年)が言うように、我々の知覚を超えて、起こされる出来事を信じることである。処女マリアから生まれることも、三日目に死者のうちから復活することも、まさにその信仰である。
 

2018.12.09~15 今週の集会

   今 週 の 集 会
祈祷題「困難な状況にある人々に
    クリスマスの恵みが届くように」
聖書の学びと祈りの会      13日()10:00
  歴代誌上10章(担当 三輪地塩)  司会 室
聖書の学びと祈りの会      13日()14:00
 使徒言行録14章節~節         担当 安 雄 

2018.12.09 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
      <アドベントⅡ>
             奏楽  三 輪 志 都
 
                 <神の招き>
招 詞 イザヤ書7章14節
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編122編1節~9節
*讃美歌 (21)231
       <神の言葉>
聖 書 申命記25章5節~6節  (旧約P.319)
   マルコによる福音書12章18節~27節
               (新約P.86)                         
祈 り              安 井 国 雄                                                                                                                                  
*讃美歌 (21)248
説  教  「復活の問答」      三 輪 地 塩
                                                       
        <神への応答>
*讃美歌 (21)262
*ニカイア信条
 公 告 
*献金感謝            
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄 (21)46
*派遣と祝福
*後 奏 
 
    

2018.06.03 説教から

<6月3日の説教から>
『四千人の給食』
          マルコによる福音書81節~10
                      牧師 三輪地塩
 
 この箇所は決して「5000人の給食」の焼き直しなどではなく、固有のメッセージを持っている。
注目したいのは「籠」という語である。5000人の給食の話では「12の籠」がいっぱいになったとあり4000人の方では「7つの籠」となっている。どちらも「籠が溢れるほどに祝福で満たされた」事を示唆する。「籠」という単語は5000人では「コフィノス」、4000人の方では「スピリダス」。「コフィノス」はユダヤ人が旅で使う籠、「スピリダス」は異邦人が使う籠である。つまり、ここに集まっていた群衆は異邦人であることが分かる。
ところで、群衆の空腹を満たしてあげたいと思ったのは誰なのか?5000人の給食の時は、弟子たちから言い出したのであるが、4000人の給食では、主イエスが言い出していることは興味深い。ここには明らかは意図を感じる。弟子たちはここに来た4000人の群衆、つまり異邦人に対し、「神の民ではないし、神の御前に立ち得る者たちじゃないんだから、そこまで配慮する必要はない」と考えていたのではないか。なぜなら「神に選ばれたのは我々ユダヤ人であり、異邦人は神の前に立つ権利を持たないものたちだから」であると。或いは、こういう思いもあっただろう。「5000人の給食という、あの奇跡の出来事は、ユダヤ人に対して行われた。それを神の前に相応しくない異邦人相手に行うのは勿体ない」と。このような意識が、多かれ少なかれ ユダヤ人である「弟子たち」の中にあったのだろう。
 だがイエスは異邦人たち(群衆)の空腹に配慮し、それを満たそうとされる。「ユダヤ人たち(弟子たち)は、彼らを神の前に立つことが出来ないというがそうではない。ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、困窮し、満たされない者、悲しむ者、痛む者、その全てに、神は隔てなく恵みを与えられる、とイエスは言う。7つの籠いっぱいになったパンは、まさに、全ての人、全ての種族、全ての違いの中に属する者たちへの、救いのパンとなる。

2018.12.02~08  今週の集会

 今 週 の 集 会
祈祷題家庭集会のため」「洗礼志願者のため」
神学校講義(神学校)        3日()  9:00
訪問聖餐(白石徹雄、鈴木さだ江) 3日()15:00
講師と学生の懇談会(神学校)   4日()12:50
大戸集会・武蔵浦和集会合同クリスマス会・聖餐式
    (浦和教会)        5日()12:00
聖書の学びと祈りの会        6日()10:00
  歴代誌上9章(担当 三輪地塩)   司会 松
「生と死」の学び          担当 安
(三浦綾子著「泉への招待」P.162-175) 同
聖書の学びと祈りの会        6日()14:00
 ヘブライ人への手紙15節~14     担当 岡 子               
訪問聖餐(西堂明宅)       6日()15:20
キリスト教史学会(明治学院大学) 8日()14:00