2016年4月17日の礼拝予定

 主 日 礼 拝    午前10:3

  【春のオープンチャーチ】

           奏楽 岩

   
<神の招き> 
招 詞 ガラテヤの信徒への手紙328
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編326節~11
*讃美歌   (21)210
 
<神の言葉>
聖 書 イザヤ書558節~11節  (旧約P.1153)

    マタイによる福音書41節~4 

                   (新約P.4)                                            

祈 り              三 塩                 yle="font-size:10pt;">             

*讃美歌   (21)56
     「人はパンだけで生きるものではない」 
               キスト岡崎さゆ里   
                                                         
<神への応答>

*讃美歌  (21)493   キスト岡崎エイブラハム(ピアノ)

*使徒信条
公 告
*献金感謝          
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏       
    
 
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。
 

2015年11月15日の説教から ヨハネによる福音書8章12節‐20節

      <1115日の説教から>
      『わたしは世の光である』
       ヨハネによる福音書812節~20
                          牧師 三輪地塩
 『光の降誕祭』という説教集の中に、エドゥアルト・トゥルンアイゼンというドイツの神学者が礼拝で語った説教が残されている。ヨハネ福音書15節の説教として以下のように語れている。
 
 「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。とこで極めて明らかになるのはこのことです。イエス・キリストとは何か。それは神ご自身が「私どもと共にいて下さること」、神のいのちそのものである、と。わたくしどもがそのことを疑わずにおれなくなっても、―わたくしどもが、わたくしどもの人生や考えの中で、神は本当に戸口を出て下さったのであろうかと疑わずにおれなくなっても― そこでこそ、この飼い葉おけの幼子、十字架にかけられたこの方は、わたくしどもに言われます。わたくしどもが疑おうが疑うまいが、ご自分は、確かに戸口を出て下さったのであると。この方のうちにこそ、いのちがあるのです!!」
 
 この説教は1937年に語られた。1934年にナチスがドイツの政権を掌握してから数年が経ち、世の中が徐々に怪しい雰囲気に包まれて来たことを国民が感じ出した時期である。このような怪しげな社会情勢の中「本当に神がこの世を支配なさっているのか?」と疑いたくなる緊迫した世の只中でトゥルンアイゼンは言う。「我々の側が疑おうと疑うまいと“キリストは光であり続ける”」と。
 このような状況は、現代社会(とりわけ日本)を取り囲むモヤモヤした雰囲気に何らかの類似性を感じずにはおれない。このような中にあっても「キリストは光である」と告白し、そう信じて生きている中に、我々の真の希望があるのだろう。暗闇の中でこそ光が より強く輝くように、我々はこの光なるキリストに従って歩みたいものである。
 クリスマス時期を我々はどう過ごせば良いだろうか。それは「御言葉に聞き」「真の希望が何である(誰である)のかを見つめ」「暗闇の中で輝く“光”の存在に信頼する」ことである。アドベントとは、まさにこの光を待ち望む時期である。我々は、自らの心を静めて、闇に輝く光に目を向けたい。

12月20日の礼拝予定(2015年 クリスマス礼拝)

主 日 礼 拝    午前10:3

クリスマス合同礼拝・聖餐式

 奏楽
<神の招き> 
招 詞   イザヤ書91  
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編61節~11
*讃美歌   (21)262
 
<神の言葉>
聖 書   イザヤ書111節~5 (旧約P.1078)
     ルカによる福音書21節~7
(新約P.102)                     
祈 り                                                                           n style="font-size:10pt;">                                                                                                                                  
*讃美歌   (21)265
    「主イエスの誕生」   
                          
<神への応答>
*讃美歌   (21)264
*日本キリスト教会信仰の告白
 聖餐式
 讃美歌  (21)79
公 告
*献金感謝 112         クワイア                     
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏       

 ヨハネによる福音書7章53節~8章11節 「あなたを罪に定めない」

 
   <111日の説教から>
       「あなたを罪に定めない」ヨハネによる福音書753節~811節)
                                牧師 三輪地塩
 この箇所は大変有名である。イエスの愛と赦しに満ちている温かく優しい箇所と言えるだろう。我々がこの箇所を読むときに心の中に湧き起こるのは、「痛快感」や「スッキリした思い」ではなかろうか。あるいは「あの憎き律法学者やファリサイ派をやっつけたという爽快感」であろう。トンチで将軍様をやり込めた「一休さん」のようでさえある。
 だがよく考えてみると、この女性は「無実の罪」によって不法にも連行されてきたのではない。彼女は、当時としては赦されるべきではない「姦淫の罪」という逃げ隠れ出来ない罪を犯し、言い訳の出来ない現行犯で捕まっているのである。
 つまりこの箇所は、イエス・キリストが「罪を犯した人の“罪が無くなった”」と言っているのではない。赦されざる罪を犯した者がその後どうなったかを示し、我々は一つの問いを与えられるのである。この箇所が「愛にあふれる箇所である」と我々が感じるとき、我々の目線はどこにあるのだろうか。これを「勧善懲悪の痛快な話」として読む場合、我々の心は「イエスの目線」からこれを読んでいる事になる。あるいは、守られて赦された姦淫の女性の視点に立っていることになるだろう。しかし本来、聖書が我々に投げかけるのは、「あなたも赦されている」ということよりも、「あなたは誰も罪に定めることなどが出来ない」ということである。つまり、他者の罪は非常に厳しく告発するけれども、自分の罪は見過ごしがちな我々に内包される「都合の良い自己愛」に対し、「そのあなたの罪を悔い改めよ」ということが重要ではなかろうか。律法学者を糾弾し、ファリサイ派をギャフンと言われた痛快感に浸る我々は「被害者」としてこれを読んでいる。しかし本来読むべきは逆なのだ。我々は「加害者である」という視点からこれを読むとき「愛に満ちた箇所」というよりも、我々の罪そのものを糾弾される 「心に痛く突き刺さる御言葉」となるのである。
 主イエスは「この女に石を投げなさい」と言っているように、決してして律法を破って良いなどと言ってはいない。しかし「あなたも罪を犯していることに気づきなさい」と、内省的に自己吟味することへ促されている言葉である。「ああ イタタタ・・」と、心に痛みを感じながら読んでもらいたい箇所である。