2024.7.28 の週報掲載の説教
<2024年6月2日の説教から>
「上から来られる方」
ヨハネによる福音書3章31節~36節
牧師 鈴木美津子
「上から来られる方」、「天から来られる方」。これは神の独り子イエス・キリストのことである。これに対して、「地から出る者」、「地に属する者」とは、洗礼者ヨハネをはじめとする私たち人間のことである。私たちは誰もが、この地上で生まれ、地上に生きる者である。
イエス・キリストは、神の御子であり、さらには神がその手にすべてを委ねたメシアであるが故に、すべてのものの上におられる。故に、すべての人がこの方に従わなくてはならない。そして、その神の命令こそ、主イエスの証しを信じて、永遠の命を得ることである。主イエスを通して、罪赦され、神との永遠の愛の交わりに生きることである。その主イエスを通して現わされた神の御意志に従わない者は、命に与ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。これは、主イエスの証しを受け入れないから、神の怒りがその人の上に降るというのではない。「神の怒りがその上にとどまる」とあるように、罪をもって生まれてくる私たち人間の上には、神の怒りがはじめからとどまっているのだ。その怒りに私たちは気づかないだけなのである。だから、主イエスを信じないで平気でいられるのである。
けれども、その神の怒りが私たちを食い尽くすときが来る。そのことを私たちに教えるのはイエス・キリストの十字架である。主イエスは、十字架の上で、神からまったく見捨てられ、呪いの死を死なれた。主イエスはそれによって、神の怒りのもとにある人間の死がどのような死であるのかを身をもって示してくださったのである。その十字架の死が、自分の罪のためであり、この方こそ救い主であると信じるならば、その人は神の怒りから解き放たれる。主イエスが、すでに神の怒りを、十字架において余すところ無く受け入れてくださった故に、主イエスを信じる者は、今既に神の怒りから解き放たれる。そればかりか、主イエスを信じる者は、神を父とし、永遠の命に生きることができるのである。
2024.7.14 の週報掲載の説教
2024.7.14 の週報掲載の説教
<2024年5月26日の説教から>
「喜びに満たされる」
ヨハネによる福音書3章22節~30節
牧師 鈴木 美津子
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない(27)」とは、具体的には「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(30)」ということである。「ねばならない」とは、神のご計画の必然をあらわす言葉である。ギリシア語の原文では、この「ねばならない」は、「あの方は栄え」に掛かっている。ヨハネが言いたいことは「主イエスが栄えること、主イエスの御名によって多くの人に洗礼が授けられること、それが神のご計画である」ということである。そのために、自分は、あの方こそメシアであると証ししてきた。今、その役目を終えようとしている。そうして衰えていくのが自分の定めであるとヨハネは言うのである。ヨハネの言葉は、何だかもの悲しい言葉のように聞こえるが、決してそうではない。その直前に、「わたしは喜びで満たされている」とあるように、彼は、大きな喜びに満たされているのだ。
なぜ、彼は喜びに満たされて、このような言葉を語る事ができるのか。彼はその理由を、自分と主イエス、そして救いに与る人々を結婚式の花婿と介添え人そして花嫁に例えて語る。ユダヤの習慣では、花婿には花婿の親しい友人が介添え人となった。結婚式の当日、介添え人は、花婿のために花嫁を迎えに行く。花嫁の姿を見た花婿が喜ぶ声を聞いて、介添人も喜ぶのである。この例えが意味することは、花婿である主イエスのもとに花嫁である人々が集い、洗礼を受け、介添え人であるヨハネは花婿の喜びの声を聞いて、その友人の心が喜びで満たされるように、大きな喜びに溢れる。しかし、「介添え人」は、あくまで主役である「花婿」の引き立て役である。決して目立ってはならない。それが洗礼者ヨハネの役割であり、それでも彼は「大いに喜ぶ」のである。「大いに喜ぶ」を直訳すると「喜びに喜ぶ」となる。さらに、「喜びで満たされている」とは、喜びが、外にあふれ出し零れてしまっている状態のことである。もはや、言葉で言い表すことが困難な喜び、想像を絶する喜び、これが、引き立て役に徹してきた洗礼者ヨハネに今与えられている喜びなのである。そして、これこそが主イエスを証するために用いられる者に与えられる喜びなのである。
<2024年5月26日の説教から>
「喜びに満たされる」
ヨハネによる福音書3章22節~30節
牧師 鈴木 美津子
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない(27)」とは、具体的には「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(30)」ということである。「ねばならない」とは、神のご計画の必然をあらわす言葉である。ギリシア語の原文では、この「ねばならない」は、「あの方は栄え」に掛かっている。ヨハネが言いたいことは「主イエスが栄えること、主イエスの御名によって多くの人に洗礼が授けられること、それが神のご計画である」ということである。そのために、自分は、あの方こそメシアであると証ししてきた。今、その役目を終えようとしている。そうして衰えていくのが自分の定めであるとヨハネは言うのである。ヨハネの言葉は、何だかもの悲しい言葉のように聞こえるが、決してそうではない。その直前に、「わたしは喜びで満たされている」とあるように、彼は、大きな喜びに満たされているのだ。
なぜ、彼は喜びに満たされて、このような言葉を語る事ができるのか。彼はその理由を、自分と主イエス、そして救いに与る人々を結婚式の花婿と介添え人そして花嫁に例えて語る。ユダヤの習慣では、花婿には花婿の親しい友人が介添え人となった。結婚式の当日、介添え人は、花婿のために花嫁を迎えに行く。花嫁の姿を見た花婿が喜ぶ声を聞いて、介添人も喜ぶのである。この例えが意味することは、花婿である主イエスのもとに花嫁である人々が集い、洗礼を受け、介添え人であるヨハネは花婿の喜びの声を聞いて、その友人の心が喜びで満たされるように、大きな喜びに溢れる。しかし、「介添え人」は、あくまで主役である「花婿」の引き立て役である。決して目立ってはならない。それが洗礼者ヨハネの役割であり、それでも彼は「大いに喜ぶ」のである。「大いに喜ぶ」を直訳すると「喜びに喜ぶ」となる。さらに、「喜びで満たされている」とは、喜びが、外にあふれ出し零れてしまっている状態のことである。もはや、言葉で言い表すことが困難な喜び、想像を絶する喜び、これが、引き立て役に徹してきた洗礼者ヨハネに今与えられている喜びなのである。そして、これこそが主イエスを証するために用いられる者に与えられる喜びなのである。
2024.7.7 の週報掲載の説教
2024.7.7 の週報掲載の説教
<2024年5月12日の説教から>
「独り子をあたえるほどの神の愛」
ヨハネによる福音書3章16節~21節
牧師 鈴木 美津子
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(16a)」ヨハネの言う「世」とは、神に背き、神に敵対し、神を殺してしまうような存在、つまり暗闇の世界ことである。神は、その世界に独り子であるイエス・キリストを十字架につけるために、遣わされた。そのゆえは、神の本性とも言える愛によるものであった。神は愛のお方であるゆえに、御自分が造られたこの世界、しかし御自分に背き続けるこの世界を滅びるままに放置することはできなかったのである。神に背き続けるこの世界、それは神によって造られたものでありながら、創造主を忘れ、自らを神として歩む世界である。
しかし神は、そのような世界を愛して下さった。「独り子をお与えになったほどに」。これは、神が私たちを愛してくださる愛の大きさを示している。主イエスご自身が神の愛の証拠だからである。神を信じない世に、神に敵対する罪の世に、神の御子であるイエス・キリストの命をくださった、それが神の愛だからだ。この愛を知り、この愛を聞かされた者が、この愛に対して、どのような態度を取るのか。それは二つに一つである。感謝して、この愛を受け取るか、そんなことは信じられないと言って、この愛を拒否するか。この選択に中間はない。神は、この愛を、わたしたちが受け取り、そして信じるようにと招いている。この愛を信じて、神の愛の中で生きる方を選び取ること、それもまた、神の恵みの出来事である。
この愛を受け取り、独り子イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば、「永遠の命」を得ると約束される。「永遠の命」とは、単に肉体的に生きている、生存していると言うだけのことではない。神の目から見て、真に生きているということ。体が丈夫であるとか病気であるとか、ないかというような問題を超えた命である。誰もが必ず経験する死によって失う命ではなく、天においても生きる命、それが永遠の命である。
ヨハネの手紙一の4章9節には「わたしたちはそれによって生きる」と書かれている。この命をいただいた者は、神の愛を心の深くに知って生きるようになる。平安、感謝、恵み、喜びの中で生きるようになる。それが永遠の命である。わたしたちは、その神の命で生きるのである。
<2024年5月12日の説教から>
「独り子をあたえるほどの神の愛」
ヨハネによる福音書3章16節~21節
牧師 鈴木 美津子
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(16a)」ヨハネの言う「世」とは、神に背き、神に敵対し、神を殺してしまうような存在、つまり暗闇の世界ことである。神は、その世界に独り子であるイエス・キリストを十字架につけるために、遣わされた。そのゆえは、神の本性とも言える愛によるものであった。神は愛のお方であるゆえに、御自分が造られたこの世界、しかし御自分に背き続けるこの世界を滅びるままに放置することはできなかったのである。神に背き続けるこの世界、それは神によって造られたものでありながら、創造主を忘れ、自らを神として歩む世界である。
しかし神は、そのような世界を愛して下さった。「独り子をお与えになったほどに」。これは、神が私たちを愛してくださる愛の大きさを示している。主イエスご自身が神の愛の証拠だからである。神を信じない世に、神に敵対する罪の世に、神の御子であるイエス・キリストの命をくださった、それが神の愛だからだ。この愛を知り、この愛を聞かされた者が、この愛に対して、どのような態度を取るのか。それは二つに一つである。感謝して、この愛を受け取るか、そんなことは信じられないと言って、この愛を拒否するか。この選択に中間はない。神は、この愛を、わたしたちが受け取り、そして信じるようにと招いている。この愛を信じて、神の愛の中で生きる方を選び取ること、それもまた、神の恵みの出来事である。
この愛を受け取り、独り子イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば、「永遠の命」を得ると約束される。「永遠の命」とは、単に肉体的に生きている、生存していると言うだけのことではない。神の目から見て、真に生きているということ。体が丈夫であるとか病気であるとか、ないかというような問題を超えた命である。誰もが必ず経験する死によって失う命ではなく、天においても生きる命、それが永遠の命である。
ヨハネの手紙一の4章9節には「わたしたちはそれによって生きる」と書かれている。この命をいただいた者は、神の愛を心の深くに知って生きるようになる。平安、感謝、恵み、喜びの中で生きるようになる。それが永遠の命である。わたしたちは、その神の命で生きるのである。
2024.6.30 の週報掲載の説教
2024.6.30 の週報掲載の説教
<2024年5月5日の説教から>
「新しく生まれ変わる」
ヨハネによる福音書3章1節~15節
牧師 鈴木 美津子
ニコデモはユダヤ人であり、ファリサイ派に属する議員であった。ある夜、彼は人目を避けるように夜の闇に紛れて、主イエスのもとを訪ねた。彼は主イエスを「神から来られた方」だと言った。ニコデモは主イエスが為された奇跡や癒しの業を見たので、主イエスから「どうやったら神の国に入ることができるのか。救われるのか。」その教えを請おうとしてやってきたのである。ニコデモからすれば、信仰とは、特別な天の知識を得ることであったのだ。
主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」言われた。これに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えた。ニコデモは主イエスの言葉の意味を全く理解していなかった。なぜなら、ニコデモは人が「変わる」ということを、自分の力、自分の努力によって変わると捉えていたからである。それに対して、主イエスは「神の力によって変わる」と言っているのである。
人が、信じる者になる(変わる)、というのは、確かに自分の意志で、自分で決断して信じることである。しかしそうであるから、信じるということが不確かなことのようにも思われる。自分の意志や決断は必ずしもその後に及んで維持できるかどうかはわからないからである。しかし、主イエスが教えられるのは、神の思い、神の意志があって、主なる神が「霊」を注いでくださることによって、信じる者となる、ということである。そこに、私たちが信じることの確かさがあるのだ。
私たちが「永遠の命を得る」ということは、「神の国を見る」、あるいは「神の国に入る」ということである。それは、この地上の命では、ニコデモも考えたようにできないことなのである。
ニコデモが、この時、どのように受けとめたかは、これ以上記されていないのでわからない。しかし後にアリマタヤのヨセフと共にピラトに申しでて、十字架で息を引き取られた主イエスの遺体を引き取り、墓に納めている。それは、ニコデモが主イエスの弟子であることを公にすることでもある。主イエスが十字架に上げられるに及んで、主イエスが言われていたことが確かなことであり、十字架において「人の子が上げられる」確かな「しるし」であることをニコデモは理解したのである。
<2024年5月5日の説教から>
「新しく生まれ変わる」
ヨハネによる福音書3章1節~15節
牧師 鈴木 美津子
ニコデモはユダヤ人であり、ファリサイ派に属する議員であった。ある夜、彼は人目を避けるように夜の闇に紛れて、主イエスのもとを訪ねた。彼は主イエスを「神から来られた方」だと言った。ニコデモは主イエスが為された奇跡や癒しの業を見たので、主イエスから「どうやったら神の国に入ることができるのか。救われるのか。」その教えを請おうとしてやってきたのである。ニコデモからすれば、信仰とは、特別な天の知識を得ることであったのだ。
主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」言われた。これに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えた。ニコデモは主イエスの言葉の意味を全く理解していなかった。なぜなら、ニコデモは人が「変わる」ということを、自分の力、自分の努力によって変わると捉えていたからである。それに対して、主イエスは「神の力によって変わる」と言っているのである。
人が、信じる者になる(変わる)、というのは、確かに自分の意志で、自分で決断して信じることである。しかしそうであるから、信じるということが不確かなことのようにも思われる。自分の意志や決断は必ずしもその後に及んで維持できるかどうかはわからないからである。しかし、主イエスが教えられるのは、神の思い、神の意志があって、主なる神が「霊」を注いでくださることによって、信じる者となる、ということである。そこに、私たちが信じることの確かさがあるのだ。
私たちが「永遠の命を得る」ということは、「神の国を見る」、あるいは「神の国に入る」ということである。それは、この地上の命では、ニコデモも考えたようにできないことなのである。
ニコデモが、この時、どのように受けとめたかは、これ以上記されていないのでわからない。しかし後にアリマタヤのヨセフと共にピラトに申しでて、十字架で息を引き取られた主イエスの遺体を引き取り、墓に納めている。それは、ニコデモが主イエスの弟子であることを公にすることでもある。主イエスが十字架に上げられるに及んで、主イエスが言われていたことが確かなことであり、十字架において「人の子が上げられる」確かな「しるし」であることをニコデモは理解したのである。
2024.6.23 の週報掲載の説教
2024.6.23 の週報掲載の説教
<2024年4月28日の説教から>
「主はわたしたちの心の中を知っておられる」
ヨハネによる福音書2章23節~25節
牧師 鈴木 美津子
多くのユダヤ人が「イエスの名」を信じたが、主イエスご自身は彼らを信用されなかった。なぜなら、主イエスは何が人間の心の中にあるかを、よく知っておられたからである。主イエスは、人間の心の中がどれほど罪深く愚かなものであるかをよく知っておられたのである。彼らは、見るべき「しるし」ではなく、主イエスがなさった不思議なわざに驚いて、「この人はすごい人だ」信じたからだ。
目に見える「奇蹟」「癒し」を重んじて、求めていく心が人間の中にある。「見たら信じられる」という心である。そのような心、信仰の態度、一時的な熱狂によって信じる者を主イエスは信じない。神はもちろん、病いを「癒す」ことがおできになる。しかし、それが自分の思い通りに叶わなかったら信じないのであれば、単なる「御利益信仰」である。もちろん私たちは苦しみの中で、救いを求め、切羽詰まった状況の中で神に近づくことがある。神はそのように助けを求める思いを拒否なさらず、受け入れてくださる。その中で神との関係、神を信頼するというつながりができていく。そのことなしに単なる願いのみに留まるのであれば、神が自分の願いを叶えなかったり都合の悪いことが起こったりしたら神から離れていく、というような自己中心の信仰で終わってしまうのである。
しかし、このことは、単に「しるし」を見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない。私たちがどのようなきっかけで信仰に入るにせよ、私たちは「イエス・キリストの十字架の死と復活」という「しるし」こそ信じなければならないからである。いや、むしろ、私たちの信仰にとっては、これだけあれば十分なのだ。
神は主イエスの十字架の死と復活を通してご自身の愛と真実を表わされた。その神を信じ、良い時も悪い時も信頼して生きて行くことが求められている。「信仰」とは「神への人格的な信頼」である。そうであるから、私たちは主イエスを「救い主」と信じ、交わりを持ち、神と相対して生きることが求められている。そのような信仰でなければ、私たちは人生の危機の中で信仰を全うすることができないからである。
<2024年4月28日の説教から>
「主はわたしたちの心の中を知っておられる」
ヨハネによる福音書2章23節~25節
牧師 鈴木 美津子
多くのユダヤ人が「イエスの名」を信じたが、主イエスご自身は彼らを信用されなかった。なぜなら、主イエスは何が人間の心の中にあるかを、よく知っておられたからである。主イエスは、人間の心の中がどれほど罪深く愚かなものであるかをよく知っておられたのである。彼らは、見るべき「しるし」ではなく、主イエスがなさった不思議なわざに驚いて、「この人はすごい人だ」信じたからだ。
目に見える「奇蹟」「癒し」を重んじて、求めていく心が人間の中にある。「見たら信じられる」という心である。そのような心、信仰の態度、一時的な熱狂によって信じる者を主イエスは信じない。神はもちろん、病いを「癒す」ことがおできになる。しかし、それが自分の思い通りに叶わなかったら信じないのであれば、単なる「御利益信仰」である。もちろん私たちは苦しみの中で、救いを求め、切羽詰まった状況の中で神に近づくことがある。神はそのように助けを求める思いを拒否なさらず、受け入れてくださる。その中で神との関係、神を信頼するというつながりができていく。そのことなしに単なる願いのみに留まるのであれば、神が自分の願いを叶えなかったり都合の悪いことが起こったりしたら神から離れていく、というような自己中心の信仰で終わってしまうのである。
しかし、このことは、単に「しるし」を見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない。私たちがどのようなきっかけで信仰に入るにせよ、私たちは「イエス・キリストの十字架の死と復活」という「しるし」こそ信じなければならないからである。いや、むしろ、私たちの信仰にとっては、これだけあれば十分なのだ。
神は主イエスの十字架の死と復活を通してご自身の愛と真実を表わされた。その神を信じ、良い時も悪い時も信頼して生きて行くことが求められている。「信仰」とは「神への人格的な信頼」である。そうであるから、私たちは主イエスを「救い主」と信じ、交わりを持ち、神と相対して生きることが求められている。そのような信仰でなければ、私たちは人生の危機の中で信仰を全うすることができないからである。
2024.6.9 の週報掲載の説教
2024.6.9 の週報掲載の説教
<2024年4月21日説教>
『イエス様の言われる神殿』
ヨハネによる福音書2章13節ー22節
牧 師 鈴木美津子
この個所は「イエスの宮清め」と呼ばれている。エルサレム神殿境内の「異邦人の庭」で、犠牲に献げる動物が売られ、また外国の貨幣をイスラエル通貨に両替する店が軒を連ねていた。主イエスはこれらから生じた「商売」に怒り、商人たちを追い出したのだ。
しかし、これにはもっと根深い問題があった。神殿を運営している祭司長を筆頭とする「神殿当局者」たちが神殿を食い物にしているという状況がそこにはあったからだ。神殿でささげられる「犠牲の動物」には、厳密な規定がある(レビ記1章ほか)。それらは全て「無傷」のものでなければならない。しかし人々が自宅から「無傷」な状態で保って持参することは大変難しい。そのため、「犠牲の動物」が神殿の境内で販売されていた。更に、神殿で通用する貨幣はユダヤ社会の通貨シェケルに限られていた。「犠牲の動物」を購入するためにはシェケルへの換金が必要な場合が多く、そこで不当な利潤を得るユダヤ人たちが存在した。主イエスはそのような不正を見逃すことができなかったのである。
このような行為に出た主イエスに対し、対立する「ユダヤ人」たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか(18)」、と詰め寄った。一体、あなたにどんな資格や権威があってこのようなことをするのか明らかにせよ、と迫ったのである。それに対して、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(19)」、と答えた。しかし、ここで主イエスが新しく建てる神殿は、全く違う「神殿、神の宮」のことである。そして、「神殿、神の宮」とは主イエスご自身のからだ、復活の主イエスご自身のことである。
ここにおいて主イエスご自身こそが真に礼拝されるべき方であるということが訴えられ、ユダヤ教的祭儀の廃棄が宣言されている。復活された主イエス・キリストにおいて、場所にとらわれない、霊と真理からなる礼拝が実現したのである。
<2024年4月21日説教>
『イエス様の言われる神殿』
ヨハネによる福音書2章13節ー22節
牧 師 鈴木美津子
この個所は「イエスの宮清め」と呼ばれている。エルサレム神殿境内の「異邦人の庭」で、犠牲に献げる動物が売られ、また外国の貨幣をイスラエル通貨に両替する店が軒を連ねていた。主イエスはこれらから生じた「商売」に怒り、商人たちを追い出したのだ。
しかし、これにはもっと根深い問題があった。神殿を運営している祭司長を筆頭とする「神殿当局者」たちが神殿を食い物にしているという状況がそこにはあったからだ。神殿でささげられる「犠牲の動物」には、厳密な規定がある(レビ記1章ほか)。それらは全て「無傷」のものでなければならない。しかし人々が自宅から「無傷」な状態で保って持参することは大変難しい。そのため、「犠牲の動物」が神殿の境内で販売されていた。更に、神殿で通用する貨幣はユダヤ社会の通貨シェケルに限られていた。「犠牲の動物」を購入するためにはシェケルへの換金が必要な場合が多く、そこで不当な利潤を得るユダヤ人たちが存在した。主イエスはそのような不正を見逃すことができなかったのである。
このような行為に出た主イエスに対し、対立する「ユダヤ人」たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか(18)」、と詰め寄った。一体、あなたにどんな資格や権威があってこのようなことをするのか明らかにせよ、と迫ったのである。それに対して、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(19)」、と答えた。しかし、ここで主イエスが新しく建てる神殿は、全く違う「神殿、神の宮」のことである。そして、「神殿、神の宮」とは主イエスご自身のからだ、復活の主イエスご自身のことである。
ここにおいて主イエスご自身こそが真に礼拝されるべき方であるということが訴えられ、ユダヤ教的祭儀の廃棄が宣言されている。復活された主イエス・キリストにおいて、場所にとらわれない、霊と真理からなる礼拝が実現したのである。