2020.3.22 週報掲載の説教

<2019年6月16日説教から>

天に上げられ、神の右に座した
マルコによる福音書1614節~20
              牧師 三輪地塩

イエスは、弟子たちに「福音を宣べ伝えよ」と語り、その後「天に上げられた」と聖書は伝える。再臨がまだ起こっていない以上、イエスについての地上の最後の行為が「昇天」なのだが、そもそも主イエスは、なぜ昇天する必要があったのだろうか。「キリストの昇天」が我々にとって、どんな恵みとなるのだろうか。マルコ福音書の最後を締めくくるにあたって、そのことを考えたい。

20世紀チューリッヒの神学者エミール・ブルンナーは、「キリストの昇天は神学的に意味はあまりない」と説く。彼は、可視的出来事としてのキリストの昇天は、パウロの神学にはないため(パウロ神学の傾向を強く受けている新約聖書全体にとって)これは教理の基礎とは考えられてはおらず、すなわち神学的にはあまり意味がない、というのである。

だが、バーゼル大学の神学者カール・バルトは、正反対の見解を述べる。「キリストの昇天は、キリストの復活後の最後の顕現の場面である。そしてキリストの栄光が最後に現われたことを意味し、キリストが直接人々と関係する時期が終わり、教会を通し、間接的に世界に働く中間期間に変化する『救済史の転換点』である」と考えた。そこからバルトは、「キリストの高挙」という独自の神学を展開したという。

バルトの理解を簡単に言うと、「神の言葉は、教会に託されている」ということである。教会は、御言葉が語られ、教会員との交わりがあり、救いが最も端的に語られる場所である。しかし同時に、教会は人間の集まりである以上、「罪」の存在である。しかし「この罪ある場所にこそ」キリストが御言葉を託されたことが重要なのだ、と説く。

ここから考えると、我々が昇天を待ち望むことにも、深い意味がある。この世には様々な問題があり、完全なものではない。信仰者である我々も罪ある存在でしかない。だがこのような存在にさえも「神の国を待ち望むことができる」のである。つまり不完全であり罪深いこの世は、神の期待と、神からの希望を持って生きることが出来るというのである。それが「キリストの昇天の意味である。主は我々に託し、我々に期待された。神の期待に応えるべく、聖化されて歩みたい。

2020.3.15 主日礼拝 配信

主 日 礼 拝  2020年3月15日  午前10:30

〈レントⅢ

緊急配信<YouTube 録画映像 音声付き>

      スマホおよびPADでも視聴できます!
YouTube
https://youtu.be/FynTVG-EJFQ
上記,下線の部分をクリックしてください。YouTubeが立ち上がります、
まだ、テスト段階なので不備がありますがご視聴ください。

nikki浦和教会の教会員の方で視聴された方は下記のメールアドレス(nikki浦和教会執事会)deacon.urawachurch@gmail.com  にタイトル「視聴しました。」として送信をお願いいたします。礼拝視聴者の方の人数確認と、メール登録をさせていただきます。本文にご氏名のご提示もお願いいたします。

<音声のみ>礼拝全体の録音になっています。


<神の招き>
招 詞  ヨシュア記1章5節
*讃 詠    545B
*罪の告白と赦し 交読詩編17編6節~12節
*讃美歌   86
<神の言葉>
聖 書  レビ記14章1節~9節  (旧約P.182)
ルカによる福音書5章12節~16節(新約P.110)
祈 り
*讃美歌   249
説  教   「主よ、御心ならば」     三 輪 地 塩
<神への応答>                     
*讃美歌   257
*日本キリスト教会 信仰の告白
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄   541
*派遣と祝福
*後 奏40

2020.3.15 の礼拝案内

週 報 75巻11号 2020.3.15

イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」(ルカによる福音書5章14節)

主 日 礼 拝  午前 10:30

〈レントⅢ〉        奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞  ヨシュア記1章5節

*讃 詠    545B

*罪の告白と赦し 交読詩編17編6節~12節

*讃美歌   86

<神の言葉>
聖 書  レビ記14章1節~9節  (旧約P.182)

ルカによる福音書5章12節~16節(新約P.110)

伊 木 美 穂 子

祈 り

*讃美歌   249

説  教   「主よ、御心ならば」     三 輪 地 塩

<神への応答>                     
*讃美歌   257

*日本キリスト教会 信仰の告白

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄   541

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は

お座りのままでどうぞ。

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礼拝当番 (今週) 安井国、済陽、小川澄、越智

(次週) 伊木、野田、加藤ヨ、菊池

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掃除当番 (今週) 福永、松谷、伊木、須田

国見、佐藤允

(次週) 済陽、森﨑千、國久、新畑

鈴木、小出勝、武政み

☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2020.3.15 週報掲載のお知らせ

次 週 礼 拝

<レントⅣ>

説教 「あなたの罪は赦された」     三 輪 地 塩

詩編32章1節~5節

ルカによる福音書5章17節~26節

 
讃美歌 546、87B、138、142、542   三 輪 志 都

 
日曜学校説教「あなたの隣人は誰ですか」

ルカによる福音書10章25節~37節       岡 野 庸 子

 
同時にスクリーン礼拝を行なっています。

未経験の方にはぜひ試しください。新型コロナウイルス

感染対応のためにも、間隔をとってお座りください。

 
◇「おはなし会」中止のお知らせ

本日午後13:00~南浦和教会で行われる予定の「おはなし会」は中止となりました。

【第69回定期中会】

日時:3月19日(木)(一日だけの開催)

会場:柏木教会

浦和教会の正議員:三輪地塩牧師、安井国雄長老

2020.3.15~2020.3.21 今週の集会

      集 会

〇日曜学校                 9:00

〇「教会員の生活」による学びの会(休会)  9:30

〇朝カフェ(休会)             9:30

〇入門の会(休会)             9:45

〇クワイア練習               中  止

〇コイノニア                中  止

 
今 週 の 集 会

◎祈祷題「第69回定期中会のため」3月19日

〇聖書の学びと祈りの会は、新型コロナウィルス対応のため

午前・午後とも4月まで休会とします。

〇第69回定期中会(柏木教会)  19日10:00~

 
【牧師予定】

第69回定期中会準備 18日(水)

第69回定期中会   19日(木)

2020.3.15 週報掲載の説教

<2019年6月9日説教から>

『マグダラのマリアに現れるイエス』            
      マルコによる福音書169節~13
牧師 三輪地塩

「彼らは二人の言うことを信じなかった」と聖書は証言する。

信じなかった理由は明白だ。「信じて聞かなかったから」である。「信じることが出来ない」という状態は、「何かに縛られた状態」と言い換えることもできる。「復活を信じない」何らかの枠組み、価値観、復活の不可能性に縛られた死生観。それらは啓蒙主義の現代社会にも似ている。

マグダラのマリアはイエスの弟子の一人であったと言われる。彼女は、ガリラヤ湖の北西に位置するミグダル出身であるらしい。彼女について聖書は「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と紹介している。「七つの悪霊」の意味は明確ではないが、少なくとも「ふしだらな女性」を意味しない。むしろ、何らかの病気に罹っていたことを示すのか、または、人間関係や社会構造による「縛り」に取り憑かれるような状態だったのかもしれない。人はしばしば、家族、友人から大きな恩恵を受け、助けを受けて生きている。だが人間関係は、人間を最も強く縛り付ける要素でもある。世間体とか差別的な社会の偏見なども人を縛るかもしれないし、財産、地位、名誉もその要素である。又は、世間が勝手に作り出した「女性像」「女性らしさ」のような価値観が、マグダラのマリアを、がんじがらめに縛り付けていたのかもしれない。「女性らしく生きる」ことが強いられ、イエスの弟子として生きることは「女らしくない」と揶揄されたのかもしれない。様々な推測ができる「七つの悪霊」であるが、その共通項は「その人自身の思いとは異なる価値や状態に縛る」ということになるだろう。

復活のイエスの情報を聞いた弟子たちが、口を揃えて「信じなかった」と証言しているが、この時の聞き入れなかった者たちこそが、復活の命とは異なる価値観に縛られていたからにほかならない。それは、「死人は復活しない」という絶望の価値観である。

しかしキリストは我々を復活の価値へと解き放つ。絶望は命へと変えられる。死は生へと変えられるという希望の価値観である。我々は、根拠のない世間の縛りではなく、キリストの命に縛られたい。使徒パウロが「キリストのドゥーロス(奴隷)」と語ったように、キリストの復活の命に縛られたい。