2019.8.11 週報掲載の説教

<2019年1月20日の説教から>

『真実の祈りと真実の献金』

マルコによる福音書12章38節~44節    牧師 三輪地塩

一人の貧しいやもめがやって来てレプトン銅貨2枚(1クァドランス)を献げた。これは当時の日当を5000円とすると、78円程度の金額である。日当が10000円ぐらい出ると考えても156円。このやもめの女性は、神殿の献金箱に約100円前後の「なけなしのお金」を献げたのだった。

イエスは神殿で、大勢の金持ちの献げ物と、貧しいやもめの献げ物の両方を見て、弟子たちをわざわざ「呼び寄せ」、このやもめが一番多くの物を献げた、と言うのである。「はっきり言っておく」という、イエスが注意喚起をするために使う定型句を加え、「これを見なさい」と念を押すかのように語る。それこそがこのやもめのささげっぷりであった。

この箇所を読んでいて腑に落ちない思いが起こるとすれば、お金持ちがたくさんの献げ物をしているにも関わらず、「それは有り余るものの中から捧げた「はした金」である」と言われているように聞こえることだろう。彼らだって、いくらたくさん貰っているからと言っても、大金を献げるのは、それは褒められて良いのではないか、と思うかもしれない。

しかし、この金持ちと、やもめの彼女にとって、「お金」が意味する事柄がそもそも違うのである。彼女にとって1クァドランスは「生活費」として数えられる。つまり、金持ちのお金が、「財産」「資産」として数えられるのに対し、やもめの彼女の「お金」とは「命そのもの」であり、「彼女の全て」という意味を持つ。つまり彼女は、彼女の生きる全存在を献げた、という意味がある。ここで言われるのは、金額の大小ではなく、献げたものが「命そのものである」と言っても良い。

この出来事の終わりには、イエスのまとめの言葉がない。「あなたも行って、このようにしなさい」とか「あなたの信仰があなたを救った」という模範を示す言葉がないのである。それは、この箇所のメッセージが、「倫理的、道徳的な教訓」を示すものではないからだ。つまり「献金のススメ」ではなく、イエス自らが歩もうとしている十字架の道が、命を献げる道であることを示そうとしているのだ。彼女の行為を、受難の道を行こうとする自らと重ね合わせて弟子たちに示しているのである。我々は、讃美歌332番から、献げるキリストと応答する我々を見比べて学びたい。

2019.8.4の礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30

< 聖 餐 式 >

奏楽   板 垣 玲 子

<神の招き>

招 詞  ローマの信徒への手紙12章17節~18節

*讃 詠  546

*罪の告白と赦し 交読詩編144編12節~15節

*讃美歌  56(1-3)

<神の言葉>

聖 書 イザヤ書53章7節~10節  (旧約P.1150)

ペトロの手紙一 2章18節~25節(新約P.431)

祈 り

*讃美歌  269

説  教「キリストの受けた傷によって」三 輪 地塩

<神への応答>

*讃美歌  298

*日本キリスト教会信仰の告白

聖餐式  205

公 告

*献金感謝 (21)575      クワイア

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  539

*派遣と祝福

*後 奏

聖餐補佐  松谷、三浦、増田、森﨑

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は

お座りのままでどうぞ。

礼拝当番(今週)増田、岩本、志賀洋、鈴木惠

(次週)松谷、新畑、武政み、武政明

 
掃除当番(今週)入江、増田、塩澤、岩本

吉田耕、吉田さ、武政明

(次週)菊地晴、松本、浜田、佐藤真

加藤ヨ、板垣、草野

*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.8.4のお知らせ

次 週 礼 拝

<平和記念礼拝・こどもとおとなの合同礼拝>

説教「死を超えて共にいてくださる方」  三 輪 地 塩

詩編113編1節~3節

ルカによる福音書20章27節~40節

讃美歌 545A、58、529、531、540    三 輪 志 都

【牧師予定】
〇牧師夏期休暇(前半) 8月5日(月)~10日(土)

◇三輪地塩牧師夏期休暇中の緊急の場合の連絡は書記に

お願いします。

森﨑千恵  増田裕子

◇8月11日(日) 平和記念礼拝午後の予定

①かき氷大会は礼拝後直ぐに1階で行います。

おとなのみ¥100です。

②13:30~「平和記念コンサート」

出演:コ-ロ・アンジェルス  入場無料

*ご家族・友人・知人をお誘いのうえ、どちらもご自由にご参加ください。

*昼食は各自でお済ませ下さい。

*当日、年3回行っている「あしなが育英基金」への

募金を行います。ご協力お願いいたします。

2019.8.4~8.9今週の集会

〇日曜学校                 9:00

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入会準備会                9:00

〇入門の会(担当 休会)           9:45

〇クワイア練習                9:45

〇コイノニア                礼 拝 後

〇定期小会                12:45

今 週 の 集 会

◎祈祷題「平和記念礼拝・コンサートのため」(8月11日)

〇聖書の学びと祈りの会は午前・午後とも

718()~912()まで休会です

牧師予定】
〇牧師夏期休暇(前半) 8月5日(月)~10日(土)

2019.8.4 週報掲載の説教

<2019年1月13日の説教から>

『ダビデの子』

マルコによる福音書12章35節~37節

牧師 三輪地塩

紀元前600年~500年頃から、「メシアはダビデの末裔から生まれる」という「メシア待望」がユダヤ教の中で生まれた。ユダヤ人たちはメシアの到来を待ち望んでいた。イエスの時代、ユダヤ人たちはローマの圧政を受ける中で、強いメシア、解放者、戦う救世主の到来を願っていた。ダビデのように、南と北を統治し、統一王国を作るほどのリーダーの資質を持った者であり、戦闘民族ペリシテ人の「身長3メートルのゴリアト」を、投石一撃で倒してしまった、あの武勲に長けた人物。それが、民衆の望むメシアの姿であった。

しかしイエスは、今日の箇所で「どうしてメシアがダビデの子なのか」と、否定的に語る。それは、この時のユダヤ人たちが、単に「英雄」を求めていたからに他ならない。

エイブラハム・リンカンを英雄として信じる者たちは、リンカンを神と同じと考え、神格化されたリンカン像を待望するわけです(そこにバラク・オバマがリンカンを彷彿とさせる仕方で登場し、当時の米国は熱狂した)。

当時のユダヤ人たちは、イエスに対し、自分たちの勝手な「英雄像」を当て嵌めて「神格化」したのである。イエス・キリストを神格化した、というのは言葉の矛盾ではあるが、しかし、「神格化されたダビデ」を当て嵌めて「イエスを神と呼んでいる」ところが問題なのである。

旧約聖書の「サムエル記」は、ダビデを神格化することを殊更に嫌い、彼を徹頭徹尾「罪ある」「間違いを犯す」「人間」として描くことを是としている。ダビデは立派な王であったのは事実かもしれないが、結局人間の域を超えることのできない弱い人間でしかなかった。しかしユダヤの人々は、彼を英雄視しすぎてしまい、過剰な期待を込めて、到来するメシアが「ダビデの子」であると信じ込んでしまっていたのだ。そのためイエスは言うのである。「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。

イエスが、明らかに「父なる神の独り子であった」ということは、英雄であったからではない。最も端的に、そして目に見える仕方で、「神の愛」を示されたからに他ならない。彼はダビデのような武勲はない。領土を広げることに心血を注いだのでもない。彼は十字架の上で「神の独り子」であることを証しした。人を殺めて英雄になるのではなく、人に殺められて、神の子であることを証しした「真の人にして、真の神」であった。