2018.02.23 靖国学習会のお知らせ

     
     【靖国学習会のお知らせ】
223()14001600 南浦和教会

・テーマ:「どう取り組む、これからのヤスクニ」

・講 師:
 
  登家勝也(横浜長老教会牧師)
      
     これまでの取り組みの意味
     
  大石周平(府中中河原伝道所牧師)
      
     これからの取り組み方

2017.09.10の説教から

        <910日の説教から>
         『あなたがたの益となる豊かな実』
         フィリピの信徒への手紙415節~23
                           牧師 三輪地塩
 フィリピ書の最後は、締めくくりの「挨拶文」である。ここには、個人名は語られず2人称複数・3人称複数に対する挨拶となっている。例えば、ローマ書の最後の16章には、28名もの個人の名前が呼ばれ、それぞれに「宜しく」と書かれている。これに対してフィリピ書には個人名が出てこない。しかしそのことによって「パウロがフィリピ教会の信徒たちに手を抜いていた」とか、「個人個人のことを忘れている」と考えるのは早計である。すなわち、重要な事は「エン・クリストー」「主にあって」「キリストに結ばれて」というところから教会は始めなければならない、という事であろう。
 
 最後に、「よろしく」という言葉が3回出てくる。「宜しく」とは「挨拶する」であり、英訳聖書では「Greet」(グリーティングカードのグリート)と訳されている。挨拶には、時に社交辞令としての挨拶などもあるが、挨拶は人間のマナーであり、人間の礼儀と言うことが出来るだろう。だが、教会において挨拶は「他者存在の是認」である。言い換えるならば、相手に対し、「あなたは確かに、ここに存在していますよ」、という事を、自他共に認める作業、それが「挨拶」といえる。演技の練習や独り言でない限り、誰も居ないのに「こんにちは」とか「おはよう」とは言わない。挨拶は「ここ・そこ」に「誰かがいるから」行う、存在と安否を確認する作業である。
 
 挨拶を大切にしない国や民族はないだろう。多少の違いがあったとしても、挨拶は世界共通の初歩的・初期的なコミュニケーションである。「こんにちは」の中に、安否の確認があり、意志の疎通がある。聖書にも、神が人間に語られるとき、まず人間を呼び、挨拶から始まる箇所がたくさんある。受胎告知の時、乙女マリアに天使ガブリエルが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリアは戸惑い、この「挨拶は」何のことかと考え込んだ。」とある。この挨拶は、単なる意志伝達の道具でなく、「神がそこに存在する」という事の証しである。パウロは、この「宜しく伝えて下さい」という言葉を3度も繰り返し、神の存在を確認しつつ、この書を締めくくるのである。

2018.02.04~10 今週の集会

 2018.02.04~10       
     
今 週 の 集 会
 
祈祷題「神学校を覚えて」
北関東牧師研修会(喜連川)     5日(月)~6日(火)
神学校建物検討委員会(神学校)   6日(火)1100
聖書の学びと祈りの会          8日(木)1000         
  列王記下3章 (担当 三輪地塩)   司会 大月 美智子               
聖書の学びと祈りの会          8日(木)1400
  使徒言行録101節~33節    担当 安 井 国 雄

2018.02.04礼拝予定

 
  
   主 日 礼 拝  午前 10:30
           < 聖 餐 式 >
       奏楽 板
招 詞  イザヤ書421a
*讃 詠   545B
*罪の告白と赦し 交読詩編511219
*讃美歌 
<神の言葉>
聖 書   エレミヤ書243節~7旧約P.1222                
マルコによる福音書320節~35
      (新約P.66
祈 り                                                                                                                                                                                   
*讃美歌 Ⅱ161(1-3)
 教 「神の御心を行なう人こそ」

三 輪 地塩
<神への応答>
*讃美歌    532
*日本キリスト教会信仰の告白
 長老任職式   211
 聖餐式   Ⅱ179
 公 告  
*献金感謝(21)402        クワイア
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄     541
*派遣と祝福
後 奏 
 

2017.09.03の説教から

    
              <93日の説教から>
        『いついかなる場合にも対処する秘訣』
                       フィリピの信徒への手紙410節~14
                                       牧師 三輪地塩
 
 11節には「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と書かれている。「満足する」は「アウタルケース」というギリシャ語だが、「自立」「自足」を意味するストア派哲学の用語であった。ストア哲学で「満足する」「自足する」とは、「自己訓練・修行・鍛錬によって獲得する徳目」である。だがパウロは、当時一般的に使われていたストア派の概念ではなく、キリスト教的アウタルケース、キリスト教的「満足」としてこの言葉を使っている。すなわち、13節「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」に示される。ストア派の「アウタルケース」「自立」「自足」は「自分の力でするもの」であった。しかしパウロは、「キリスト教的な満足」は「神によって満たされるもの」と述べる。それをパウロは「習い覚えた」と言う。「習い覚える」とは、ギリシャ語で「マンサノー」と言い、「体験や経験によって体得・習得する学びである」という意味である。
 「体験や経験によって体得・習得すること」は、「信仰」の行為そのものである。洗礼を受けても、すぐ教会から離れる方々を見かけるが、大変もったいないことである。信仰とは、いつも浸かり続ける「風呂」であり、飲み続ける「漢方薬」のようなものである。特効薬や外科手術ではない。我々の罪は、特効薬的に即座に消えるものではない。「罪なきお方の十字架によって、罪なしと見做された」状況を「続けて行くこと」が重要である。
 
 「いついかなる場合にも対処する秘訣を」を我々は「既に」「授かっている」(12節)。キリストと共にある時、我々は、どんな悪い状況、環境、人間の目に悪と映ることさえも、それを乗り越える力を与えられる。キリストの十字架こそ、究極的な悪い状況からの栄光が示された出来事であった。
 
つまり、イエス・キリストこそが「いかなる場合にも対処する秘訣」そのものである。この方こそが福音であり、この方以外に我々の救いは無いからである。神の導きを信じ、キリストから離れずに、信仰の歩みを続けたい。

2018.0128~02.03 今週の集会

       

      

今 週 の 集 会

 

祈祷題信教の自由が守られるため」(211日)

聖書の学びと祈りの会        1日(木)1000         

  列王記2章 (担当 三輪地塩)   司会 板垣 玲 子 

「生と死」の学び          担当 菊 地 晴 子              

聖書の学びと祈りの会     1日(木)1400

  使徒言行録101節~33      担当 安 井 国 雄