<9月3日の説教から>
『いついかなる場合にも対処する秘訣』
フィリピの信徒への手紙4章10節~14節
牧師 三輪地塩
11節には「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と書かれている。「満足する」は「アウタルケース」というギリシャ語だが、「自立」「自足」を意味するストア派哲学の用語であった。ストア哲学で「満足する」「自足する」とは、「自己訓練・修行・鍛錬によって獲得する徳目」である。だがパウロは、当時一般的に使われていたストア派の概念ではなく、キリスト教的アウタルケース、キリスト教的「満足」としてこの言葉を使っている。すなわち、13節「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」に示される。ストア派の「アウタルケース」「自立」「自足」は「自分の力でするもの」であった。しかしパウロは、「キリスト教的な満足」は「神によって満たされるもの」と述べる。それをパウロは「習い覚えた」と言う。「習い覚える」とは、ギリシャ語で「マンサノー」と言い、「体験や経験によって体得・習得する学びである」という意味である。
「体験や経験によって体得・習得すること」は、「信仰」の行為そのものである。洗礼を受けても、すぐ教会から離れる方々を見かけるが、大変もったいないことである。信仰とは、いつも浸かり続ける「風呂」であり、飲み続ける「漢方薬」のようなものである。特効薬や外科手術ではない。我々の罪は、特効薬的に即座に消えるものではない。「罪なきお方の十字架によって、罪なしと見做された」状況を「続けて行くこと」が重要である。
「いついかなる場合にも対処する秘訣を」を我々は「既に」「授かっている」(12節)。キリストと共にある時、我々は、どんな悪い状況、環境、人間の目に悪と映ることさえも、それを乗り越える力を与えられる。キリストの十字架こそ、究極的な悪い状況からの栄光が示された出来事であった。
つまり、イエス・キリストこそが「いかなる場合にも対処する秘訣」そのものである。この方こそが福音であり、この方以外に我々の救いは無いからである。神の導きを信じ、キリストから離れずに、信仰の歩みを続けたい。