説 教 「新しい年が与えられて」
聖 書 創世記12章1節~9節 (旧約P.15)
ヘブライ人への手紙11章8節~12節(新約P.415)
2018.06.24の説教から
<6月24日の説教から>
『私を何者だというのか』
マルコによる福音書8章27節~30節
牧師 三輪地塩
「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」この質問は非常に深い。周囲の人々(民衆たち)の客観的な評価ではなく「あなたがたはどうなのか」と、弟子たちの主体的信仰告白を問うている。これは我々への問い掛けでもある。
この問いは、ゲーテ、トルストイ、ニーチェ、太宰治、遠藤周作など多くの文学者たちの関心事でもあった。文学者の関心は、「史実のイエス像」に迫ることではない。彼ら文学者たちが、イエスをどう理解し、どう聖書から読み取るか。また、彼らにとってイエスとは誰なのか、という問いである。あらゆる文学作品には、書く者の人間観、信仰観、人生観などが反映され、ロマンティックな人はロマンティックなイエスを、革命的な人はイエスを革命家として描き出してきた。
だが、この箇所の「私を誰というか」の問いは、必ずしも文学者たちの関心事を言っているのではない。「あなたたちにとって、イエスとは何なのか」である。
我々にとって、人と人との関係はいつも決断的である。例えばこんなことがあるだろう。自分の親友の悪い噂を聞いた時、我々はどうするか。本人に何も確認することなく、その噂話を信じるのか。それとも自分が知っている親友を信じて、噂話を一蹴するのか。そこには、我々の決断がある。「いじめの構造」なんかも、似た構造をしているかもしれないが、重要なのは、その人が(親友)が、あなたにとって誰なのか、あなたにとってどういう存在であるのか、に掛かっている。問題は人の噂ではない。自分の主体性である。人がなんと言おうと、私はその人をどう理解し、どう信じるか、である。
我々の信仰もこれに似ている。あなたにとってキリストとは誰かの問いに対し、ペトロが躊躇せずに「あなたはメシアです」と答えたように、告白したいものである。
2019.01.06~12 今週の集会
今 週 の 集 会
◎祈祷題「中会日曜学校教師研修会のため」
「各団体総会のため・新委員のため」
〇大会歴史編纂委員会(西経堂伝道所) 8日(火)11:00
〇初週聖書の学びと祈りの会 10日(木)10:00
歴代誌上11章(担当 三輪地塩) 司会 安 井 英 子
〇「生と死」の学び(「泉への招待」三浦綾子著) 同 上 後
担当 伊木 美穂子
〇初週聖書の学びと祈りの会 10日(木)14:00
ヤコブ書3章13~18節 担当 大月 美智子
〇トレインキッズ(餅づくり) 12日(土)11:00
2019.01.06 礼拝予定
主 日 礼 拝 午前 10:30
<新年合同礼拝・聖餐式>
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 詩編119編105節
*讃 詠 546
*罪の告白と赦し 交読詩編125編1節~5節
*讃美歌 6
<神の言葉>
聖 書 創世記12章1節~9節 (旧約P.15)
ヘブライ人への手紙11章8節~12節
(新約P.415)
color="#000000">祈 り
*讃美歌 312
説 教 「新しい年が与えられて」 三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 332
*日本キリスト教会信仰の告白
聖餐式 205
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 541
*派遣と祝福
*後 奏




