すべての人の心をごぞんじである主

箴言18:18、使徒言行録1:12 -26 

牧師 三輪地塩
 
 一つの言葉に注目してみたいと思います。それはギリシャ語の「デイ」という言葉。「ねばならない」という言葉が使われていることです。16節「ユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」。そして22節「いつも一緒にいた者の中から誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。この2箇所の「ねばならない」によって強調されるのは、聖書の必然の成就として、また神様の意志として起こった「ねばならない」であるということです。つまり主イエスがユダに裏切られたという悲劇的な出来事さえも、神の意志の中で捕えられ、神の計画の進展の中で考えられているということなのです。

 イスカリオテのユダが選ばれている事の中に神の計画と必然があります。主イエスに選ばれた者たちは、人間的な完璧さや、素晴らしさ、優れた資質などによって選ばれたのではありません。むしろ、それに全く価しない者たちを呼び寄せ、その者たちを愛し、赦すための十字架であったのです。ユダは弱い人間の代表者です。しかしキリストはこの弱いユダのために十字架にお掛かりになりました。十字架は、自らを滅ぼした彼の為にも聳え立つ神の愛であります。十字架の救いは、滅びる者の滅びを自ら引き受けて下さる神の愛です。救いに価しない者が救いに価することを告げる神の愛なのです。

 私たちが今、この教会に集っているのは、偶然ではなく、神の必然、神の「ねばならぬ」の中に生きているから集まるのです。たまたまそこに教会があったから入ったという神の必然。たまたま連れ合いがキリスト者だったから教会に来た、という「たまたま」という神の「必然」があるのです。私たちに起こるすべての事は神の必然の中で起こり、私たちは神の必然の中に生きている事を「信じる民」なのです。この12人の選びが、今現在ここに集う私たちへの選びであり、この12人を選んだ十字架の愛が、私たちに対しても同じく与えられる愛なのであります。神の愛に価しない者が愛される。集められるに相応しくない者が集められる。それが私たち自身に起こっている出来事なのであります。裏切り者のユダを選び、くじによってマティアを選んだ必然の神がここに居られる。そのことを今一度想起する時としたい、そのように思うものであります。