『教会の誕生日』

   <先週の説教から> 
       創世記11章1節-9節 
       使徒言行録2章1節-13節
              
 ・・・その意味でペンテコステは、教会が教会足りえる日、教会の本来の姿が回復された日、と言えるのです。教会が不毛の土地から大いなる収穫を得た日と言い換えてもよいかもしれません。主イエスが昇天したあとの弟子たちは、気力もなくなり、途方に暮れていたと思います。心は燃え上がらず、何かを成し遂げようとする思いにも至らなかったのでしょう。しかしこのような弟子たちの落ち込む時が聖霊によって収穫の時に変えられました。家から出られず、互いに話をする気力すらも失っていたであろう弟子たちが、聖霊に満たされて語りうる力をえたのです。このような不毛の時期をも収穫の時として下さったのです。それこそがペンテコステの出来事なのです。
 同じく私たちも、イエス・キリストを信じ、聖霊に満たされるならば、どのような時も収穫の時となり得ます。心沈むときも、喜びにあふれる時も、聖霊に満たされているのなら、これもまた収穫の時なのです。苦しみもまた収穫であり、嬉しさも、落ち込む事もまた収穫となりうる。そのことをペンテコステの日は私たちに語るのです。
 私たちはこのペンテコステを覚え、聖霊による「回復の恵み」を喜びましょう。弟子たちはひっそりと息を殺して過ごしていたはずです。ローマ当局に見つからないように、静かに祈って生活していたはずです。しかしその彼らが、「聖霊に引っ張り出され」、日の光を浴びる者となったのです。それは神から隠れる生活から、神との関係を回復された生活に戻る瞬間でもあるのです。神との回復。人間との回復。自分自身への回復。そのことを覚えたいものです。

5月30日~6月5日

○聖書の学びと祈り      2日(水) 午後 7:30
  イザヤ書5:1-7   (奨励 大 和 文 彦)

○聖書の学びと祈り      3日(木) 午前10:00
  創世記 5章        (奨励 三 輪 地 塩)

○生と死の学び        (担当 岡 野 庸 子)

5月24~29日の集会

◎祈祷題「北関東連合長老会」

○聖書の学びと祈り      26日(水) 午後 7:30
  ヘブライ書1:5-14      司会 安 井 国 雄
    (担当 角 野 託 司)

○聖書の学びと祈り      27日(木) 午前10:00
  創世記 4章            司会 岡 野 庸 子
(担当 三 輪 地 塩)

5月30日の礼拝

10:30~ 伝道礼拝

説教「ペトロの説教」

使徒言行録 2:14-36  三輪地塩牧師

9:00~ 日曜学校

説教「フィリピでの投獄と救い」

使徒言行録 16:26~34

祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。


【連絡先】

〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2

TEL 048-861-9881

FAX 048-861-9966

【交 通】

JR京浜東北線、宇都宮線、高崎線・浦和駅西口下車

JR埼京線・中浦和駅下車 徒歩15分

すべての人の心をごぞんじである主

箴言18:18、使徒言行録1:12 -26 

牧師 三輪地塩
 
 一つの言葉に注目してみたいと思います。それはギリシャ語の「デイ」という言葉。「ねばならない」という言葉が使われていることです。16節「ユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」。そして22節「いつも一緒にいた者の中から誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。この2箇所の「ねばならない」によって強調されるのは、聖書の必然の成就として、また神様の意志として起こった「ねばならない」であるということです。つまり主イエスがユダに裏切られたという悲劇的な出来事さえも、神の意志の中で捕えられ、神の計画の進展の中で考えられているということなのです。

 イスカリオテのユダが選ばれている事の中に神の計画と必然があります。主イエスに選ばれた者たちは、人間的な完璧さや、素晴らしさ、優れた資質などによって選ばれたのではありません。むしろ、それに全く価しない者たちを呼び寄せ、その者たちを愛し、赦すための十字架であったのです。ユダは弱い人間の代表者です。しかしキリストはこの弱いユダのために十字架にお掛かりになりました。十字架は、自らを滅ぼした彼の為にも聳え立つ神の愛であります。十字架の救いは、滅びる者の滅びを自ら引き受けて下さる神の愛です。救いに価しない者が救いに価することを告げる神の愛なのです。

 私たちが今、この教会に集っているのは、偶然ではなく、神の必然、神の「ねばならぬ」の中に生きているから集まるのです。たまたまそこに教会があったから入ったという神の必然。たまたま連れ合いがキリスト者だったから教会に来た、という「たまたま」という神の「必然」があるのです。私たちに起こるすべての事は神の必然の中で起こり、私たちは神の必然の中に生きている事を「信じる民」なのです。この12人の選びが、今現在ここに集う私たちへの選びであり、この12人を選んだ十字架の愛が、私たちに対しても同じく与えられる愛なのであります。神の愛に価しない者が愛される。集められるに相応しくない者が集められる。それが私たち自身に起こっている出来事なのであります。裏切り者のユダを選び、くじによってマティアを選んだ必然の神がここに居られる。そのことを今一度想起する時としたい、そのように思うものであります。

地の果てに至るまでわたしの証人となる

2010.5.9 使徒言行録1章6節-11節  三輪地塩牧師

 イエス様は私たちに「地の果てに至るまでわたしの証人になりなさい」と言い残して昇天されました。つまり主イエスは宣教の働きを私たちにお委ねになったのです。

 ともすれば教会の集まりは、古の指導者イエス・キリストをノスタルジックに懐かしむ行為となってしまうかもしれません。しかし礼拝はイエス様の記念会ではありません。礼拝は週毎にイースターを想起することの中にその本領があるのです。だからこそ天使が現れてこう言うのです。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのか」と。つまりイエス様の昇天をただポカンと見上げ、黙って懐かしんでしまいがちな私たちに対し「イエス・キリストの証人となりなさい」と我々を派遣するのです。

 もちろん私たちには賜物の違いがあります。体の動く人。動かない人。それぞれ出来ることと出来ないことがあります。しかし一人ひとりが信仰者として生かされ、赦されていることを実感しているならば、その生かされ赦された事実を背負って生きる事それ自体が主イエスの証人となることなのです。特別な伝道活動は必要です。それぞれの賜物を生かして宣教に励むことなくして教会は教会として立ちえません。しかし神様が、あなたのその動かないからだ、聞こえない耳、見えない目、弱る気持ち、そして心に渦巻く不信仰さえも用いて、イエス・キリストがあなたの中に生き、あなたを生かし、あなたを励ますならば、そのあなた自身が既にキリストの証人足りえるのだと主はおっしゃるのです。今あなたに出来る最良の仕方で、キリストの証人となろうではありませんか。