聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記11章1節-26節

創世記11章1節-26節 2010年7月8日
 バベルの塔の物語は、原初史の最後を飾るに相応しい大変有名な物語です。この話は、バベルという名前から想像されるように、古代バビロニアのジッグラドという巨大建造物がモチーフとなっていることは明白です。古代の都市文化の象徴であり、豊かさと権力のシンボルであるこの塔が、人間の建造物として如何にして建てられ、神によってどう崩壊を迎えたのか。そのようにメッセージは明確であり、大変分り易いように思われます。’「天にも届く建造物を作り、神になろうとした。だから言葉を混乱させ、散らされるという裁きを受けた。人間は神のようになろうとしてはいけない」‘。このように読まれることが多かったバベルの物語ですが、今日の私たちがこれをどう読むのか。注意深くこの箇所を紐解いてみたいと思います。
 3節では彼らが’「れんが」‘を使っています。またしっくいの代わりに’「アスファルト」‘が用いられています。これは当時の最先端の科学技術であると言ってよいと思います。彼らはこれ以上ない建築の粋を集めて、最先端の建造物を造ろうとしているのです。彼らは’「さあ天まで届く塔のある町を立て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」‘これがバベル建造の目的でした。
 因みに、バベルの塔のモチーフになっているジッグラドですが、ウルクの遺跡から出土した楔形文字の粘土板には、紀元前300年ごろのものですけれども、このような寸法であったと書かれているようです。
1階:90×90×33(m) 2階:78×78×17 3階:60×60×6 4階:51×51×6
5階:42×42×6     6階:33×33×6  7階:24×24×15
 この7階分の高さを合計すると、90メートルになり、1階部分の長さと同じ高さになることが分かります。大阪の通天閣が100メートル、函館の五稜郭タワーが107メートルですから、紀元前の話としては相当なものであることが分かると思います。
 このようなバベルの塔の物語ですけれども、冒頭でも申し上げたように、人間が全地に散らされたという事が裁きとして結論付けられるのが、これまでの受け取り方であったように思います。しかしそのことについて、今日の箇所の核心部分に迫ってみたいと思います。
 まず’「散らす」‘という言葉に注目してみたいのですが、この言葉は本来バビロン捕囚の文脈で用いられることが多く、(エゼキエル書11:17、20:34、20:41、28:25)、それゆえに否定的な用語として受け取られています。しかし今日の箇所の特に原初史の文脈で考えるならば一概にそうとは言えないことが分かるのです。特に10章32節には’「地上の諸民族は洪水ののち、彼らから分かれ出た」‘とあるように、’「分かれ出ること」‘が主によって祝福され、是認され、意図されていることが分かります。この’「分かれ出る」‘の言葉も’「散らす」‘と同じ語幹に由来する言葉です。また10章18節では’「カナン人の諸氏族が広がった」‘とも書かれておりまして、この文脈でも、’「広がる」‘こと自体は決して否定的に受け取られておらず、まして主の裁きが執行される内容にもなっておりません。
 この観点から見ますと、11章4節に記されている’「そして、全地に散らされることのないようにしよう」‘と話し合っている人間たちの言葉は、散らされることを恐れ、それを阻止しようという意図が働いていることが分かる。つまり主が’「散らされること」‘を良しとしている文脈の中でそれを阻止しようとしている人間がいるということですから、この4節の言葉は神への反逆の言葉と捉えることが出来るわけです。
 この流れで考えるならば、バベルの塔建設が罪である理由は、’「人間が一致するという罪」‘を犯しているからであると言えるでしょう。私たちは教会の一致、とか、信仰の一致などという言葉を良く聞きますから、「一致することが善である」と勘違いしがちであります。しかし「一致」という事柄それ自体は、極めてニュートラルな行為です。善を行うための一致もありますが、「同質性の固執する一致」であるとか「利己的な自己保全のための一致」であるならば、それは神の意に反した一致であると言えるでしょう。つまりこの物語が言わんとしていることは、神に不従順に結束したから、その裁きとして拡散される、という単純な構図ではなく、地の面に散らばっていくという「祝福の拡散」がここで言われているのです。
 バベルの塔の物語は、民の散らばりによって締め括られています。これまで創世記1章から失楽園、カインとアベル、ノアなどの様々な物語を読んでまいりましたが、これまで神は、裁きではなく最終的には救いと恵みの神であることが伝えられてきました。皮の衣を着せたこと、復讐されないように徴をつけたこと、箱舟で救い出したこと、など、その全ての締め括りが祝福だったわけです。しかしこのバベルの物語は、一見すると裁きで終わっているように見えてしまいます。神はとうとう諦めたのか。人間を救おうとする意思を失ったのか。そのように捉えることも出来るわけです。
 フォン・ラートというドイツの偉大な旧約学者は「旧約聖書神学Ⅰ」の中で「バベルの塔は恵みなしに終わるのである」(220頁)と結論付けているということです。彼はこの物語を、人間のエスカレートする罪の頂点と看做しているのでしょう。しかしラートは単に神が人類を見放したということではなく、12章からのアブラハム物語の「祝福」の言葉の中に、神の祝福を見ています。
 しかしバベルの塔が祝福なしに終わっている、という結論付けは、聊か早計であろうと思います。本当にこの物語は祝福なしに裁きの物語なのだろうかと。ですから、8節の「主は彼らをそこから全地に散らされたので」の言葉を、裁きではなく、「主の祝福として散らされる」と受け取ると、この物語の恵みが深くされると思うのです。
 つまりここで彼らは、4節にあるとおり、一つであること、同じであること、お互いの違いを認めないことの中に生きようとしていたのです。しかし私たち人間がお互いの違いを認めないことを主が本当に求めているのか、という事が問題となるのです。お互いに散らばっていくことは、バベルの建設工事を頓挫させるという意味で、裁きであったかもしれません。けれども同時に、人間はお互いに違いを見つけ、それを認め合い、多種多様な生き方と、文化を承認すると
いう新たな生命を、神は人間にお与えになったのではないでしょうか。つまり違いがあってよい、という祝福がここに示されているのです。むしろ一つであることの方が問題であると。色んな言語があってよい。色んな文化や民族があってよい。そういうお互いの違いを大切にしていき、多様性と相対性を認め合って生き、共存することこそ」が、神の祝福なのである、という事なのではないでしょうか。
 人間の長い歴史を紐解くと、多様性を蔑ろにし、否定し続けて人間は罪を犯し続けてきました。様々な立場や意見を、隠し、殺し、飲み込むことによって、人間は抑圧されてきたのです。大日本帝国も、アウシュビッツも、画一させられた言論統一と検閲の中で、多様性、自由発言の統制の中で、罪を犯してきたのです。我々人間が全く同じ考え、同じ言葉という事自体が異様なことなのです。世界を英語で統一しようとする大航海時代のイギリスも、大東亜共栄圏の旗印の下でなされた日本語教育も、アルザス・ロレーヌも、共産主義も、その全てが人間の罪の中にあると言ってよいと思うのです。みんな揃って君が代を歌い、日の丸を有難がることが、神の似姿としての人間の尊厳と生命を表しているのだろうか。そのことが問われるのであります。
 もちろん、一致することは決して「悪いこと」ではありません。しかし何のために一致するのかが問題なのです。「天まで届き、神に近づくため、有名になるために一致する」のか。「主のために一致する」のか。そのことが問われているのです。その意味では、「バーラル」と言われている、あえてなされている混乱それ自体も、神の祝福であると言えるのかもしれません。
 この箇所で私たちは、神の問いかけを聞きます。主と我々の関係は正確に保たれているのか。主の祝福を聞き取ることが出来ているのか。一見すると祝福ではない事柄の中に、主の真の祝福を見出す信仰があるのか。そのことが今、この21世紀の私たち信仰者に問われていることなのだと思うのです。忘れてはならないのは、私たちは如何なるときも主の祝福の中で生きている、ということです。ここから離れることなく、歩む道を示されたいと思うものであります。
 参考資料:J.C.L.ギブソン著「創世記Ⅰ」DSBシリーズ1 新教出版
      W.ブルックマン著「創世記」(現代聖書注解)教団出版   
      高柳富夫著   「今、聖書を読む」    梨の木舎