8月16日~21日の集会

聖書の学びと祈り      18日(水) 午後 7:30
イザヤ書6章1節-13節      司会 安井国雄
(担当 大 和 文 彦)
 
聖書の学びと祈り      19日(木) 午前10:00
創世記 15章7節-21節   司会 冨岡富士子
(担当 三 輪 地 塩)
北関東青年部修養会     20日~21日(金・土) 益子町

8月15日 敗戦記念日集会 講演

 8月15日 敗戦記念日集会 講演会  朴寿吉(パク・スギル)氏(在日大韓基督教会牧師)

『世界の平和を願って』 ― 在日大韓基督教会の平和教育と関連して ―


はじめに
 1910年8月は韓国が日本の植民地になった時で、今年が丁度100周年になる。特に、今日は太平洋戦争で日本が敗戦して65周年の年にもなる。戦後の日本は平和憲法のもとで今まで平和的に過ごし、経済的な発展を遂げて来た。
 21世紀に入り、また科学技術も想像を超えるように進歩して来たと言えるであろう。しかし、人間の社会が進歩して来たのかと問われたら、答えに迷う人がいるかも知れない。確かに、古代の奴隷社会よりも、現代の資本主義社会の方が人間の平等と福祉をより実現している面は認めなければならないであろう。だが、現代の社会がどのような人間をも公平に扱っていると断言する人はいないであろう。
 今日、科学と技術の発展と共に教育環境に革命的な変化を与えている分野が情報化技術である。「マルチ・メディア」によって、もっと本格的に吹いてくる、ポストモダン(Post-modern)の世界は我々の日常生活をすでに深刻に揺さぶっている。

1.平和をつくり出す教会の教育
 先ず教育とは何かという定義をして見る必要性があると思う。定義は理解を明確にし、思想や行動に方向を与え、相互関係のために共通の基盤を提供して、意見の不一致がある中でも人々が共に考えることを可能にする。
コロサイの信徒への手紙・3章9~10節に「あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」と記され、第二コリントの信徒への手紙二・3章18節に「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と記されている。
人間の内にキリストのかたちを形成するのは神の業である。即ち神の恩寵の業であり、奇蹟である。神は聖霊を通して人間の内にキリストのかたちを形成される。そのキリストの仲保媒介性において、聖霊を通して行われる人間形成の業が平和をつくり出す教会の教育なのである。
 私たちが教育の根本目的を考える時、個人と社会は決して分離して考えることはできない。 教育は個人を主体にし、社会をその場とすることによって成される作用である。学ぶ喜びを体験し、継承することなしに、教育を具体的に考え、それに取り組むことはできないと思う。
 また、寛容は決して真理に対する無関心を意味しない。確固たる確信を持つことは、寛容の必要条件である。自分と対立思想の持ち主に対し、無関心を装うことが寛容なのではない。対立を対立と認めながら自分自身の立場に潜む相対性と不完全を率直に認め、学問の多元性を維持しようと努める時、私たちは寛容の精神を現実化できるのではなかろうか。

2.在日大韓基督教会の平和教育宣教
 在日社会は、戦前・戦後を通してその大半は苦節の生活を強いられてきた時代であった。1970年代からの在日の生活権確立と人間の尊厳への取り組みは、在日をはじめそれまでの外国人に対する閉鎖的な日本社会において、外国人の人権問題がすでに避けて通れない社会的な課題となった。この間徐々にではあるが、法的・制度的及び社会的差別が解消され、在日の生活の安定にも大きな影響を与えてきた。その延長線上に「多民族・多文化共生社会」という21世紀へのビジョンが明確にされてきた。
 また、在日社会は今日多様化に直面している。在日社会の構成員の多様化やアイデンティティーの多様化である。在日社会の世代交代が進み、一世はごく少数となり、日本生まれの世代に中心が移り、すでに五世も生まれている。国際結婚による多国籍家族、日本籍取得者、また80年代以降来日した新一世及びその二世も増加している。後者はそれぞれの世代、地域性や生活環境、民族教育の有無、母語の使用、民族名使用の有無等を背景としての民族的アイデンティティーの多様化である。これらの多様化は在日コリアンのライフ・スタイルにも関係している。
 21世紀における日本社会の目指すビジョンは「多民族・多文化共生社会」の実現である。日本社会は外国人と日本人の「共生」を達成し、新しい時代を迎えるために、新しい価値観が必要である。外国人の人権と民族的・文化的独自性、そして地域社会の住民としての地位と権利を包括的に保障することが不可欠である。同時に在日社会においてもそれに向けたライフ・スタイルの変化、すなわち責任をもって自らの住む地域社会に参画し、その発展を共に切り拓くことが求められている。
 ここで、在日の歴史や現況を確実に捉えて、宣教戦略の可能性を共に見出して行きたい。それには今までの情報や経験を生かしながら、その具体的な戦略を話し合って行くことが望ましい。在日大韓基督教会は、2008年に宣教100周年を迎え、自らの方向性をもう一度確かめながらその信仰継承をして行くために、どのような教会の教育をして行くべきかを考えて見た。過去の歴史を振り返る必要性と100周年を記念し、多元的な教育宣教について共に取り組んで行きたい次第である。


3. 教会の教育的使命
 教会は、全ての人間が神御自身の姿に似せて造られたから人間を神と対話する「神の子ども」(ヨハネによる福音書・1章12節)として、あるいは「神の家族」(エフェソの信徒への手紙・2章19節)として見ている。「神の家族」形成はただ他者の「ために」ではなく、生命あるものと「共に」という視点を持っている。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマの信徒への手紙・12章15節)教会である。
 また、教会はキリストの十字架と復活を通して神と人間との霊的であり、人格的関係の出来事が発生する信仰共同体である。教会は永遠と時間が交差する神の啓示的な出来事と人間の応答が出会って、絶えず創造していく神秘的共同体である。
 その共同体の中で、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」とキリストは痛みをもつ者に対して、語っておられるのである。そして、弱さと痛みの極限にいる者と痛みを共にして下さるという恵み、これが福音なのである。
 このように、教会は、この世にあって様々な痛みを持つ人々に対し
て、特に、愛する者と死別し、悲嘆の過程にいる人に対して、キリストの愛、「神の痛みに基礎づけられし愛」を示すために奉仕をするという役割があるのである。
 この意味で教会はいつも社会より一歩先立てて行くべきである。これは神的命令である。そしてこのような状況が教会をもっと教育する教会に要請しているのである。
 生活と仕事の教育的意味の解明を通して、我々が整理してみることができる確かな教訓は、教会が教育的使命を正しく遂行するために、学校の教育理解と教育方法を無反省的に受容することを中止しようとする事実である。
主イエスは12弟子と共に生活しながら教えられた。教育と生活が分離されていなかった。教えと生活と仕事が一つであった。教育の本質である生活と仕事を教会が回復していく事が今日の教会の教育的使命なのである。

終わりに:共に生き、共に生かし合う社会を
 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(ペトロの手紙一・2章9節)
 ここにはペテロの驚きがある。「驚くべき光」の中に招き入れられている。我々の教会は「驚くべき光」の中に、暗闇を照らす光、否定を肯定に変える光の中に包まれている。この光のゆえに自分の弱さが誇り(コリントの信徒への手紙二・12章9節)となる世界の中に生かされている。このキリストの光に包まれて、否定的なことも肯定して受け入れ、しかも、それを今生きる力にしてしまう。こんな明るい心を育て合う教会になれたらと思う。

 2004年の8月、第24回世界改革教会連盟(WARC)総会がアフリカ・ガーナにて開催され、代議員として出席する機会が与えられた。全世界107カ国の218教団・教派からキリスト者が1,000名程集まる世界会議であった。
 その時、“巡礼の旅”と称したフィールド・トリップがもたれ、15世紀末頃からアフリカの人々を奴隷としてヨーロッパやアメリカ大陸に運ばれた拠点であったCape Coastとエルミナ港にある奴隷城なども訪ねた。暗い奴隷地下牢で、韓国から参加された女性神学者とある黒人の方は500年前の黒人奴隷のつらさを思いすすり泣きをし、ある白人の方は涙して告白した。それは、自分たち白人は宗教改革の頃、教会の教理に対しては命をかけて戦っていたが、実はその時にも、目の前にいる、最も汚くつらい仕事をさせられ、最も虐げられている黒人奴隷のことは全く眼中にもなく、むしろ彼らが奴隷でいるのは当然であると考えていたのではないかという点であった。この黒人奴隷の問題に対しても共に戦い、黒人達は奴隷から解放されるべきであるのに、そのようなことには全く気付かなかったという自分たち白人の罪を告白し、悔い改めて泣いていたのであった。
 その会議では、主に南北の経済格差について話し合われた。私自身も、現在においてはアメリカ、ヨーロッパ諸国、日本同様、経済的には北側の豊かな国に属しているものである。そして日頃の生活の中で自分の豊かさに慣れ、貧しい南に属する人々を顧みていない罪を示され、悔い改めた。私がその時、見てきたアフリカの現状や、今なお貧しい国々に対する正しい理解と支援などを伝えていき、いと小さき者と共に生きるという平和教育をしていく事も、我々の使命の一つであると考える。

 私は、自分が住む周辺の兄弟姉妹が負わされてきた歴史に対峙する姿勢が必要であると思う。最近までのイラク戦争を見ても、強力な軍事力によって人々は決して動かされないことが、悲しい形で証明されていた。力によって人に強制するものではなく、魅力によって人を引き付けるものを提示する平和教育が求められる。
平和とは、ただ戦争がない状態であればいいのかというとそれはむしろ消極的平和である。本当の平和とは、一人一人が安全であり、人権が保障されている状態であると言える。そしてその様な状態を作り出す者もまた私たち一人一人なのである。そのために自らを教育し、教育されていく必要があるのではないかと思う。
また、社会的弱者、すなわち、少数者(Minority)、難民、障害者、日雇い労働者、いじめや家庭内暴力等の問題を抱える者、引きこもりや自殺願望のある者、エイズやアルコール中毒者の問題などと係わることを通しても成熟していく面もあり、そこのような社会と共に歩む平和教育が今切実に求められている時である。

8月22日の礼拝

 説教題 「信仰と聖霊に満ちた者たちを選んだ」 

 聖 書 (旧約)申命記31章1節~8節
     (新約)使徒言行録6章1節~7節 

 説 教  三輪地塩 牧師