使徒言行録7章1節-53節

使徒言行録7章1節-53節 『ステファノの説教』 2010年9月5日

 使徒言行録にはたくさんの説教があります。その中でも最も大きなスケールで相当な分量で書かれているのがこのステファノの説教です。今日の箇所を簡単に整理して見ますと、2節から8節まではアブラハムの事について話されています。9節から16節まではヨセフ物語。そして17節から43節はモーセと律法について。44節から50節までは幕屋と神殿。51節から53節は聴衆に対する言葉。これがまとめの言葉ということになっているわけです。この区分から分かるように、量の多さから言って最も力点が置かれているのが、モーセについてです。ここが今日の焦点になっていきます。私たちは、ステファノの躍動する肉声を聴く思いをもって、この御言葉に聞きたいと思うのです。

 1節に「大祭司が訴えの通りかと尋ねた」とありますが、では何が訴えの通りなのかということですが、先週の箇所でが6章11節でステファノを告訴するユダヤ人たちはこのように言っていました。「私たちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」。この告発の言葉に答えるためにも、彼はモーセについて積極的に言及したのでしょう。

 19節にはこうあります。「この王は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。この時にモーセが生まれたのです」。21節「その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです」。つまりモーセはその出生から幼年期に掛けて、既にモーセ自身の特徴、つまり彼は「捨てられ」そして「拾い上げられた」が含まれているということです。この線に立ってステファノはモーセを語ります。

 23節以下、26節以下、そして34節以下でモーセは、捨てられる者として書かれています。けれども彼は「誰が指導者、裁判官にしたのか」と言われた彼が、神に任命されているのです。モーセははじめの頃から同胞のユダヤ人たちに拒絶されていた、という事を、ステファノは様々な聖書箇所を例証して語っているのです。あなた方が律法を受けとったあのモーセにさえも、あなた方が大切にしているあのモーセをも、あなた方自身が拒絶したではないか。そのことにちゃんと目を向けなさいと、ステファノは言います。27節で『誰がお前を指導者や裁判官にしたのか』といっているのが単数の「男」であると書かれています。。しかし35節では「人々が」と複数になっているのです。つまりここではモーセを拒否するのが単数から複数になっている。ここにステファノの、また著者ルカの巧みな語りかけがあります。拒絶するのが個人から民のレベルに広がっている、ということです。それは一人ひとりの罪が増大し、イスラエル全体の神への拒絶になっているのだ、ということなのです。

 イスラエルの民たちがエジプト脱出を果たした後「命の言葉」(律法)を受けます。しかし39節「けれども先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い、アロンに言いました。『私たちの先に立って導いてくれる神々を造って下さい。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で作ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました」

 その後ステファノの説教は、幕屋と神殿の事について説明します。その結論が48節にあります。「けれども、いと高き方は、人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っている通りです」。つまりイスラエル人たちが大切にしているその神殿は、神が元々住まわれるような場所ではなく、人間の手によって作られた人工物に過ぎないのだ、とステファノは言います。それはイスラエル人の信仰に対しての否でありました。あなた方の守ってきたもの、すなわち神殿の絶対化、そしてそこにしがみつく宗教システム。それは残念ながら意味を成さないものであるのだ。このようにいうのです。これを裏付ける言葉として49節以下の、イザヤ書66章1節~2節の言葉が引用されております。「お前たちは私に、どんな家を建ててくれるというのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらは全て、私の手が造ったものではないか」。この言葉を引用し、裏づけにするのです。

 そしてステファノの説教は最終的な段階に入ります。それは彼がこの長い説教の中で最も言おうとしたものです。それが51節以下です。「かたくなで、心を耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったいあなた方の先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなた方が、その方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」。これがステファノの最終的な宣言であり、警告でした。

 それを聞いた人々はどうしたかと言いますと、54節「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向って歯ぎしりした」とあります。この「怒り」を石に込めて襲い掛かった、というのです。この後ステファノは殉教の死を遂げていくことになります。このように真の御言葉を語った者が殉教の死を遂げていく。

 今日の言葉は大変に厳い言葉であります。これまでペトロの説教を見てきましたけれども、ステファノのそれはペトロの語るような優しさではなく、辛辣に、激しく語るのです。しかし彼は前の箇所でも言われておりますように、彼は「信仰と聖霊に満ちている人であった」と言われている言葉からはこの辛辣さは想像できません。その彼がなぜこのように辛辣にそして激しく語り得たのか、ということが疑問に残るわけでありますが、しかしそれは、彼でなければ語りえなかった、と言う方がただしいかもしれません。つまりステファノはヘレニスト、ギリシャ語を話すユダヤ人であったのです。神殿宗教の体質を、大祭司たちに操られて形骸化したこの体質を温存したままで主イエスを受け入れたとしても、キリストの福音とは相容れぬものであると見
たのでしょう。それはヘブライ人であったペトロには出来ないことでした。そしてこのような事を語ると、迫害され死に至ることを彼は十分に承知していました。しかし主は真の御言葉としてこれを語らしめたのであります。それはアブラハムがハランから出発したときとの信仰的決断と同じように、また、モーセが主の真実な御言葉に応答するために、口下手を自認していた自分自身を奮い立たせた決断をしたようなに、一見無謀にも見えるステファノの決断は、信仰から生まれたものであったのです。そして彼はこれを語ることによって殉教することにはなりますが、しかしこの後福音を世に広めていく大きな力となっていくのであります。神は、このように言葉を用いて、優しい言葉、辛辣な言葉、真そして人を用いて、神の業を実現させるのであります。

 とにかくこのステファノの説教を聞くとき、大変に重苦しく論争的で、敵対感溢れた論調であるように感じます。先ほども言いましたけれども、ペテロの説教を思い起こして頂きますと、例えば2章38節では「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。3章19節「だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」。このように悔い改めが語られているのです。しかし今日の箇所では、ステファノの説教においてそれは見られません。最後まで論争的であり、敵対的であるこの説教から、私たちは何を御言葉として聞けば良いのでしょうか。

 まず私たちが考えねばならないことは、今日の箇所全体を通して語られていることが、神の救済の歴史である、ということです。アブラハムから始まり、ヨセフ、モーセ、と繋がっていくこの説教ですが、聖書に語られた救済の歴史をステファノは語っているのです。

 しかし私たちはこの救済の歴史に対してどうやって応答してきたであろうか。それは拒絶という形をもって応答であったのです。私たちは心かたくなに、いつも聖霊に逆らっていることを今日の箇所から汲み取ることができるのです。人類は、モーセに対して拒絶したように、イエス・キリストに対しても拒絶してきたのです。

 今日の箇所を私たちは、一見すると客観的に読みがちであろうと思います。ユダヤ人とステファノの対話。論争的な言葉。そして最終的には殉教の死を遂げていく。そのような客観的な読み方をしてしまいがちではないかと思います。けれどももしそのように第三者としてこれに聞くならば、そこにあるのは「頑なで、聖霊に逆らう私たちの姿」ではないでしょうか。

 つまり、もし私たちがこれをユダヤ人の出来事として自分から切り離して聖書から聞くならば、それはステファノの言葉に耳を貸さない者と同様であるということです。ここに出てくるのは、ユダヤ人であるとか、ギリシャ人であるというような、どの人種に対して何を拒絶したのかではなく、私たちが主の言葉を拒絶したということ、その罪の中に私たちは入れられるのです。今日のステファノの説教の言葉を聞き、あなたも同じですよねという彼の言葉を聞きます。その彼の問い掛けに対し、「いいえ私たちはそうではありません」と答えるならば、これを聞いて「歯ぎしりして激しく怒る」イスラエル人と同じ拒絶をしているも同然です。

 しかしひとたびこの言葉を聞いて、アーメン、その通りです。それこそ私の姿、私の罪です、と告白するならば、そこには「悔い改めなさい」というペテロのあの優しく語りかける言葉が含まれてくるのです。この言葉は私たちを辛辣に罵倒するのではなく、また苦しめるために語られたのではなく、私たちを救いに導く悔い改めのために与えられた言葉となるということです。ステファノの言葉は裁きの言葉です。けれども良く考えてみて下さい。裁きとは一体何か。裁きは神の怒りであるでしょうか。確かにそのような一面もあるかもしれません。けれども、その怒りは、私たちを神の方に向けるための怒りでもあります。私たちを真の道に歩ませるための裁きです。私たちに祝福を与えよう与えようと何度も何度もあの預言者たちを送ったように、そして最終的にはイエス・キリストを私たちに送って下さったような恵みの裁きであるのです。つまりステファノの説教に隠されているのは、私たちに悔い改めよという真の救いの御言葉である、ということです。ここにある豊かさに私たちは気付き、ここにある恵みに気付くとき、私たちの心はかたくなではなく、主に対し、開き、そして心に洗礼を、心に割礼を受ける者として主に向って真の福音に従って歩む者となるのです。