使徒言行録11章1節-18節 『エルサレム教会内の洗礼論争』

 使徒言行録11章1節-18節 『エルサレム教会内の洗礼論争』(伝道礼拝)
                                       2010年11月21日


 ご承知の通り、南アフリカ共和国の「アパルトヘイト」(人種隔離政策)と呼ばれるこの政策は、全人口の15%程度の白人が、残りの85%の人々を国民として扱わず、厳しい差別が法律で制定されていたというものでした。国際連合はこれを「人類に対する犯罪」とまで呼びました。

 アパルトヘイトは個人的な気持ちで行う差別ではありませんでした。その一つひとつが法律で定められた社会的システムでありました。差別のために作られた法律は数え切れないほど多くあります。
例えば【原住民土地法】という法律では、国土面積の14%の土地が黒人専用とされ、そこに10個の「ホームランド」と呼ばれる狭い「国」を作らせて、黒人はそこの「国民」とされました。黒人は南アフリカという国にとって「外国人」となるため、南アフリカ市民としてのさまざまに権利は一つも持てないことになります。選挙にも参加できません。選挙したければ、ホームランドの「国」でしろ、というわけです。
【隔離施設留保法】という法律では、全ての公共施設が白人用と白人以外用に区別されるというものでした。レストランのテーブルで、白人と黒人がなかよく食卓を囲むことは法律で禁じられていたわけです。海水浴場でさえ、白人専用ビーチがあり、そこに立ち入った黒人はすぐに逮捕されました。
【雑婚禁止法】という法律では、人種の違う男女が結婚することを禁じておりました。
たとえ結婚しなかったとしても、恋愛関係だけで罰せられました。これは【背徳法】という法律です。
 南アフリカの人種差別は、ヨーロッパの白人が、先住民のコイサン人やアフリカ黒人よりも優れていると思いこむ「優越意識」から生まれたものであります。しかし20世紀になりますと、その優越意識による人種差別を正当化するために「理論化」されていったのです。

 この政策では、個人の努力とは関係なく、色の違いが生活の全てを決めてしまいます。白人は、きれいな校舎で学校生活を送り、庭付きの大きな家に住み、家事を行う黒人をやとってのゆとりある生活が約束されました。一方、黒人たちは、白人が経営する農園や工場で働くことを余儀なくされました。給料は白人の10分の1以下であり、住む家もままならず、空き地に粗末な小屋を立てて生活する人も大勢いました。

 差別は町並みの違いとなってもあらわれました。よく整備され、完全舗装された白人地域の道路にはゴミ一つ落ちておらず、それは黒人のてによって毎日整備されておりました。黒人居住区の道路は舗装されていない道が多く、町のいたるところに汚水やゴミがたまっています。
 この人間の尊厳を踏みにじるアパルトヘイトをなくすために多くの人たちが立ち上がりました。しかし自由を掲げた人たちの多くが、命を落としていったのです。アパルトヘイトを守ろうとする人たち、特権を持った人たちに殺されたわけです。

 そしてとうとう、1994年春、全ての人種が参加する総選挙が行われ、27年間投獄されていた黒人政治家ネルソン・マンデラが新しい大統領に選ばれたのです。その後アパルトヘイト関連の法律は全て廃止され、人間の平等が新しい南アフリカの理想となりました。大統領就任演説でマンデラは「『悲しみの大地』から『虹の国』(レインボーネンション)へ、大きな一歩をふみだした」、と語り、又「虹の国がここに始まる。和解がここに始まる。赦しがここから始まる」とこれからの希望に向った演説をしたと言います。
 しかし現状では、人種差別が完全になくなったとは言えず、まだまだ多くの課題が残されているようです。37%という驚異的な失業率を下支えするのは多くの黒人たちの苦しみであり、HIV感染率20%という信じられない数字の被害者の殆どが黒人たちであります。
長い年月を掛けて差別してきた意識と、差別的生活は、長い年月を掛けて取り除かれていくことでありましょう。

 さて、私たちは、優越主義と差別意識が内在する国を概観したわけですが、2000年前のユダヤ地方でも似たような民族意識がありました。そのことが今お読み頂いた聖書に書かれております。2節「ペトロがエルサレムにのぼって来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」。この言葉は、はっきりと民族優越主義的な言葉であります。

 「選民思想」と呼ばれる考え方が、ユダヤ人の思想の中にあります。それが顕著に表されているのが、この言葉であるのです。選民思想とは、自分たちだけが神に選ばれた民族である、という「選ばれた者の意識」であります。ユダヤ人たちは、自分たちの信じる神が、イスラエルを選び、それ以外の異邦人はご自身の神の民としてお選びにならなかった。それは私たちが特別な民族として扱われているからだ、という意識。それが選民思想であります。

 この選民思想は、個人的な優越意識ではありませんでした。先ほどお話ししたアパルトヘイトにも似て、それは法律化され、法的に除外されるべき民族として、異邦人たちを排除していたのです。
 その律法の一つは、割礼を受けていない者は、神の祝福を受けるに相応しくない、というものです。そしてもう一つは、割礼を受けていない者と一緒に食事をしてはならない、というものであります。ですから彼らユダヤ人たちは、この二つの律法に抵触しているのではないか、と言って、ペトロを非難しているのです。それはあたかも、あなたは肌に色のついた者たちと一緒に食事をしただろう、などと言って、その行為を糾弾されているかのようであります。ユダヤ人たちは異邦人が神の祝福を受ける権利を持っていない、選ばれていない民族であるという意識を持っていましたから、罰の対象になるのではないか、と言っているのです。

 それに対して使徒ペトロは4節以下で「事の次第を順序正しく説明し始めた」のです。その内容は232ページの10章1節からずっと語られてきているもので、次のような内容です。「あるときペトロの前に幻が現われ、『神様からユダヤ人も異邦人も区別してはならない、神が清めたものを清くないなどと言ってはいけない』と言われた。そして神は、
『あなたは異邦人のコルネリウスのところに行きなさい。彼は御言葉を求めている。悔い改める者には洗礼を授け、信仰の道へと導きなさい。』」このように言われたのだ、という事を順序立てて説明したのです。
 それを聞いたユダヤ人たちは、18節「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ』といって、神を讃美した」のです。ここに表されているのは、ペトロを非難していた人たちの心の壁が取り除かれた瞬間であります。人間は、神が与えた律法を拡大解釈し、既に人間の制定した法律になってしまっていることに気付き、神の本当の心を知る瞬間がここに訪れたのです。表面的にしか人間を見ていなかった律法の拡大解釈に、気付いたのです。

 人間は外側で判断する生き物であることは、世の中を見ていて明らかであります。白いから、黄色いから、黒いから、という理由で、人を表面的に判断する。割礼を受けているか否かに関しても、又、同じであります。割礼は人間が体に刻んだ、表面的な徴です。その徴の有無に関して厳密であろうとすることは、肌が何色だから優越される、という外見上に厳密になるのにも似ています。そして私たちは、えてしてこの表面を気にするのです。表面で人を判断し、表面で人を憎み、表面で人を阻害する。表面で救われるとか、優越される、ということまで、決めてしまいます。この世の中に広がっている私たち人間の意識は、この外見上の事柄に非常に左右され易いのです。それは何と浅はかなことで、何と愚かなことでありましょう。
 
 養老猛という解剖学者がおりまして、彼は数年前ベストセラーの「バカの壁」という本を著しました。お読みになった方もおられると思います。その中で彼はこう言います。「人間は自分の頭の中に『バカの壁』を築き、その向こう側の事など想像もしない。起こっている自分の意識だけが世界の全てであると思ってしまう。それがバカの壁であり、乗り越えることは困難だが、それは乗り越えねばならぬ壁でもある」このように言うわけです。世界を戦禍に陥れるテロリズムも、宗教原理主義も、その人たちの頭の中で、自分の主義主張から一歩も離れることも出来なくなった者たちが、これ以外の正しさはありえないと言って、壁を作ってしまっているために起こるものであります。そこの向こう側にある世界観を知ろうとはせず、自分はその場所で安住しようとしてしまう。そのような壁が私たちの中にあるとするならば、人種差別も、優越主義も、選民思想もまた、「バカの壁」の強烈な形なのであろうと思うのです。

 しかし神様は12節、「ためらわないで行きなさい」と言われます。この力強い言葉の中には、私たちが「ためらう者であること」を予想しているかのようであります。つまり神様は、私たちが抜け出すことの出来ない、固定観念や、主義主張に雁字搦めに縛られる者たちであることをご存知であるのでしょう。
 しかし私たちは、神の救いには垣根は無く「悔い改める者は誰でも、救いの道が備えられている」ことを、神様から教えてもらっています。それが10章から続く、異邦人に聖霊が降ったという出来事であります。
 後は私たちが、その垣根を取り除くのです。神様の次元では既に取り除かれている。あとは私たちの側の問題であるのです。だから主は「ためらわないで行きなさい」と仰っているのです。その壁を越えることの出来ない「ためらい」その、一辺倒な考え方から抜け出すことの出来ない「ためらい」が、もしあるとするならば、この主の御声に耳を傾けねばならないのです。
 この世の中には、未だに多くの差別が残ります。苦しむ者はさらに苦しみ、悲しむ者はさらに悲しむ。差別意識は連鎖し、親から子へ受け継がれ、人間の憎悪のスパイラルの中で、私たち人間の闇と無力さを思い知らされることの多い世の中です。世界の紛争や、内乱、テロリズム、アパルトヘイトのような優越主義、ジェンダーの問題、イジメや、各種のハラスメントに至るまで、それら全ての原因の中に、私たち人間の一方的な意識、容易に変えることの出来ない大きな壁が立ちはだかっているのです。

 けれどもその壁は、神様の側では既に取り除かれている。神は分け隔てなさらず、差別なさらず、私たちの命を、一人ひとり、それぞれを最も大事なものとして大切にしてくださっています。私たちが悔い改め、救いを真剣に求めるとき、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、優位な立場など無く、それぞれの命の大切さに目を留めて下さるのです。それが私たちの信じる神様であります。
 この神様を信じるからこそ、私たちは他者に対して、深い隣人愛をもって接することが出来るのです。多くの隣人との壁を乗り越えることが出来るのです。神の側では取り除かれている、後は私たちがそれを取り除く番である。それが今日のメッセージです。どうかここに集う全ての方が、この神様を信じて、真の神の愛を実践することの出来る者として歩んで頂きたいし、共に歩んで行きたいのであります。