聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記25章19節-34節 2010年12月9日

 創世記25章19節-34節  2010年12月9日
 アブラハムの子イサクがリベカと結婚したことは、24章の出来事によって伝えられております。彼らが結婚したのが40歳のころであったと報告されます。しかし彼らには子ができなかったのでありました。アブラハムたちも同じように子ができないことで悩みの日々を過ごしてきたのですが、イサクたちも同じでありました。
 そこでイサクは祈りました。ここで注目したいのは「妻に子どもが出来なかったので、妻のために主に祈った」、つまり「妻のために」祈ったということです。ここにはおそらく、子ができないということによって、周囲からの目や、彼女自身悩みと苦しみを背負ってきたことが伺えます。子が出来ないから、単に子を授けてください、という単純な祈りではなく、このように苦しむ妻への慰めと平安を与えてください、という祈りではなかったかと思うのです。そしてこの祈りは主に聞き入れられるわけです。
 少し飛んで26節を見てみますと、彼らに子どもが生まれたのは、イサク60歳のときであった、と書かれています。つまり彼ら夫婦は20年間も主の約束を待ち続けていたことになります。父アブラハムが75歳の時から100歳まで、25年間待ち続けていたのと、殆ど変わりのないほど、長い間彼らは待ち続けてきたのです。
 
 さて、この祈りは聞き届けられましたが、お腹の子達は双子であることが分かります。お腹の子たちが押し合うので、リベカは「これでは私はどうなるのでしょう」と言った、と記されております。この言葉には、今後の兄弟の争いが示唆されています。ここには、今後のヤコブの人生が示されていると言えるでしょう。ヤコブは争いの人生でありました。今日の箇所のように、兄弟エサウとの争いがあり、また彼の妻たちの争いがあり、そこ妻たちのそれぞれの子どもたちが揉めて争いが起こります。ヤコブの争いと諍いの人生を象徴するかのような「これでは、私はどうなるのでしょう」というリベカの悩みの言葉ではないかと思います。
 彼女は「主の御心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに出かけたのでしょうか。場所が明記されていません。イサクが住んでいるとされている「ベエル・ラハイ、ロイ」なのか「マクペラの洞穴」近くの先祖の墓の前か、それは分かりませんけれども、彼女は彼女自身の思いを主に打ち明けるための静かな時を持ったということでありましょう。これは密室の祈りであった、私たちにはとても必要なことであります。自分の思いを確かめるために、主に問い続ける姿勢は、私たちの信仰を吟味し、また客観性をもたらします。独りよがりに、主観的に、自分の思いの中に閉じこもるのではなく、私は何者なのでしょう、と問い続けて祈ることこそが、神からの答えを聞く最良の時間なのではないでしょうか。
 そして、リベカの双子の子は、「エサウ」と「ヤコブ」であったことが24節以下に記されます。兄エサウの踵をつかんでいた「アケブ」ので、「ヤコブ」と名づけられたと言います。
 さて、この双子は大きく成長し「エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕の周りで働くのを常とした」と書かれております。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した、と言われていますが、これは親の偏愛であり、ここからリベカの入れ知恵などが後の問題になってきます。しかしイサクがエサウを愛した理由が、その獲物が好物であったから、というのは、あまり説得力がありませんが、とにかくイサクは狩をして好戦的で男らしく力強いエサウを愛した、ということなのでしょう。
 それに対して、ヤコブは「穏やかな人」という書き方がされています。ですから読者は、この対照的な二人に対して、自分の好みこそあったとしても、それほどの違和感もなく、この聖書の文言を受け入れることが出来るのではないか、そのような書かれ方であるように感じます。
 しかし、このヤコブ物語を読み解くとき、彼らがどのような人であったかが大変重要になってくると思います。
 この箇所を解釈した色々な読み物を見てみると、どうしてもヤコブの人格を正統的に扱うものが多いように感じます。イスラエルの父祖となったヤコブは、神様の約束を受け継ぐ正統者として考えられ、イサクからの家督を軽んじたエサウは、神の祝福をも軽んじる者として悪者的に描かれることが多いのです。
 けれども、色々な本の中で彼らは次のように紹介されます。
「エサウは山野を駆け巡る勇敢な狩猟者に成長しました。イサクは、この頼もしい長男に望みをかけていました。」(林嗣夫著「青少年のための聖書の学び『創世記』」p155)
「~しかしヤコブの欠点が、彼の徳と共に語られている。彼は若くして詐欺の共謀者であり、嘘つきでもあった。後半生においても、神との不思議な出会いを通して性格を変えられ、名前もそれに合わせて改められたが、そこでも彼は模範的とは言えない。彼は子育てでも良い親とは言えず、特定の子を贔屓にして、兄弟間に反目と殺意を含んだ争いを引き起こした。聖書がこの人物をイスラエルの始祖としてこのように描くのは驚くべきことである。」(ジョン・ボウカー著「聖書百科全書」p41)
「やがて兄弟は大きくなりました。お兄さんのエサウさんはスポーツマンタイプで、野山を駆け巡って狩をするのが大好きでした。これに対し、弟のヤコブさんは穏やかな人で、狩のような荒々しいことは好きではなく、羊飼いとなり、天幕のまわりで働いていました」
(井上豊著「日曜学校誌『低学年用、説教2』」2010年夏号 p44)
「~先生はだんぜんエサウさんの方が好きです。エサウさんは男らしく、かっこいいからです。こんなお兄さんがいたら良いなあと思います。それに引き換えヤコブさんときたら、あまりぱっとしない人で、いい年してお母さんにべったり、先生はこんな人は好きではありませんでした。ところが聖書は、ヤコブさんの方が良い、エサウさんはだめだ、と書いているのです。・・いったいなぜなのでしょう。」
(井上豊著「日曜学校誌『低学年用、説教2』」2010年夏号 p47)
 このように見てみますと、エサウに肩入れする人も多くおります。いやむしろ、殆どの解釈者たちがヤコブより、エサウを推しているのです。けれども聖書はヤコブを取っ
ている、ということが今日の箇所での驚きに繋がってくるのだと思います。
 ここで聖書が問題にするのは、「家督相続」という一点のみにある、ということです。確かに、ヤコブの取引は明らかに不当なものです。人の弱み、しかも腹ペコの空腹時という、尋常ではない人間の心理状態に付け込んだ、不法な行為であると思います。しかも「今すぐ誓え」と迫っているわけですから、詐欺的でさえあると言っても過言ではありません。不快極まる行為、赦せない行為、と言えるでしょう。
 聖書は、人間の公平さ、親切な思い、人への思いやり、好意、などを大切にします。ですからヤコブのこうした行為は当然批判されるべき対象なのですが、聖書はこれに目をつぶり、お人よしで軽率なエサウを厳しく責め立てます。つまり聖書が問題にしているのは、人間的な事柄ではなく「長子の権利を軽んじた」(34節)ということ一点への批判であるということです。今後の兄弟間の争いの争点は最後までこの論理で進みます。当時、家督相続、長子の権利というのは、長子の重大な権利であると共に、大切な義務でもありました。また神の祝福でもありました。エサウが長子の権利を受け継ぐことは、アブラハム、イサク、エサウ、と続く筈の、神からの祝福を受け継ぎ、神の使命を存続させることでありました。けれども、エサウはそれを一時の感情と軽率さによって、捨ててしまうのです。それは神の祝福を捨てることになります。
 それに対してヤコブは、いざという時、確かにそれは不当な方法ではありましたし、それは決して赦されうる行為であると言えませんが、渾身の力をもって、小さな知恵を絞って、神の祝福を受け取ろうとしているのです。やり方が詐欺的でありましたから、詐欺行為が赦される、という短絡的な解釈をしてはなりませんが、しかし神の祝福を何とかして受け取ろうという彼の思い、つまり神の祝福を重んじようとしていることだけは伝わってきます。神はそこを見ておられるということです。
 エサウはレンズ豆の煮物に目がくらみました。なぜそんなもので家督を捨ててしまうのか、と私たちは思ってしまいます。けれども良く考えてみてください。レンズ豆に象徴されているものは何でしょうか。
 日ごとの糧であり、命を繋ぐ必要なもの、であると同時に「もっと沢山あればさらに嬉しい物」であり、「それ以上の蓄えを欲したくなる欲求物」であり、「必要最小限の確保に留まることなく、飽き足りることなく奪い合ってしまう財産ともなり得るもの」であるのです。それは究極的に、財産や、土地や、金銭などと同じく、人間の欲を満たすものと神の祝福を天秤に掛け、結果として何を手に入れたか、ということが、ここでの問題となっているのであります。
 神の祝福を二の次にして、それ以上のものを欲することは、主イエスの言葉「二人の主人に仕えることは出来ない」と響き合います。聖書は、何よりもまず決定的なものとして、神の祝福を求めなさい、と語るのです。
 人間は欠点だらけです。弱くみすぼらしく、嘘つきです。しかし神の祝福を第一に求めることの一点において、神はエサウではなく、ヤコブを受け入れているのです。
 先ほどの日曜学校誌の最後の言葉ではこう結ばれております。「エサウさんは男らしく、かっこいい人でしたが、神の祝福を受け取ることが出来ませんでした。ヤコブさんの方が一枚上手だったのです。エサウさんには何が足りなかったと思いますか?ヤコブさんの持っていた、どんなことをしてでも神様の祝福を受け取ろうという強い気持ちがなかったのです」
そして、ジョン・ボウカーは次のように結びます。
「神が弱い者を用いても善を行なうことが出来ることを教える。神と人間との出会いにおいては、理解に戸惑うような逆説が多く生じることを、この物語は明らかにしている」
(ジョン・ボウカー著「聖書百科全書」p41)