2024.4.28 の週報掲載の説教

2024.4.28 の週報掲載の説教
<2024年3月3日説教から>

『荒れ野で叫ぶ声がする』
        ヨハネによる福音書1章19節~28節

牧師  鈴木 美津子

 
わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。(23b)」

当時のエルサレムの堕落は深刻であった。当時のユダヤ社会の権力者たちが、「主の道を」歪めていたからである。彼らの堕落した姿によって、イザヤの預言がむなしく響くような信仰がエルサレムに蔓延していたのだ。そのような彼らに対して、洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となったのである。つまり、洗礼者ヨハネの声は、堕落したエルサレムをもう一度荒れ野に引き戻す声なのだ。もう一度バビロン捕囚からやり直して、『主の道をまっすぐにせよ』、と洗礼者ヨハネは荒れ野から悔い改めを大声で叫んだ。

しかし、『主の道をまっすぐにせよ』というこの言葉は、当時のユダ人たちだけに向けられた言葉ではない。この私たちに対しても叫ばれている。叫ばれ続けている。なぜなら、私たちもまた御言葉に背き、或いは自らの都合を御言葉に優先させるような者だからだ。いつの間にか、主の道を歪めているのが私たちなのだ。

さて、「荒れ野で叫ぶ声」である洗礼者ヨハネは、居心地の良い場所で自分だけの平安、安寧を楽しむような信仰生活を送らなかった。彼はヨルダン川のほとりの荒れ野に住んで、ひたすらに救い主に仕え、また救い主を宣べ伝える声、また救い主を指し示す者となった。やがて、ここからキリストの教会の歴史が始まるのである。

この浦和教会は来年教会建設90周年を迎えようとしている。その最初は、ヨハネのようにまさしく荒れ野で叫ぶ声、主イエス・キリストを指し示す者の姿であったのではないか。いま、その歴史の中を歩むわたしたちも、洗礼者ヨハネと同じように主イエス・キリストを証しする声になりたい。そうなることが出来る、そのように確信する。なぜなら、主に招かれ、悔い改めてキリストに立ち帰ったからには、この私たちが、「荒れ野で叫ぶ声」、とされなければならないからである。「荒れ野で叫ぶ声」、それは福音宣教の叫びである。