使徒言行録13章42節-14章7節 『異邦人の光』

 使徒言行録13章42節-14章7節 『異邦人の光』 2011年1月23日

 反ユダヤ主義というものがあります。これは一般的には、ナチス・ドイツのプロパガンダとして使われた政治政策のように捉えられがちですが、しかしその起源は古く、既に中世ヨーロッパで起こっているようです。イスラム教の成立によって弾圧は強まり、十字軍によってキリスト教に迫害され、そして20世紀に入り、ユダヤ人たちは史上類を見ない受難のときを迎えることとなったわけであります。つまり大変に根の深い問題であるがゆえに、政治的プロパガンダとして悪用されやすかったのでありましょう。

 宗教改革者マルティン・ルターでさえも、反ユダヤ主義を標榜し「ユダヤ人とその虚偽について」というパンフレットまで発行しているぐらいであります。ヒトラーは、このルターの言葉を過大に用いて、反ユダヤ主義を正当化する証拠として使ったのであります。そしてあの忌まわしき600万人もの大虐殺という人類のなしうる最大の凶悪犯罪が起こったわけであります。

 では、聖書は何と言っているのか。私たちにはそれが一番の問題です。主イエスは、ユダヤ人でした。しかし敵対者たちもユダヤ人でした。同じユダヤの同胞たちから迫害を受け、十字架に掛けられたのです。祭司長も、律法学者も、ファリサイ派も、敵対する者たちすべてがユダヤ人であったのです。ですからユダヤ人はキリスト教徒の敵である。このような論調がまことしやかにささやかれるようになり、ユダヤ人を敵視する傾向が強まり、反ユダヤ主義が、聖書に基づく、正統的な考え方とされるようになったのであります。

 今日の箇所を読んでみましても、それを裏付けているかのような言葉が出てまいります。45節「しかし、ユダヤ人はこの群集を見て、ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」。そして50節「ところがユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」。14章2節「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」このようにあります。これら言葉は、反ユダヤ主義を助長させて余りある言葉ではないでしょうか。特に「ねたみ」「口汚いののしり」「扇動して」「迫害させ」「悪意を抱かせた」などのような言葉を並べますと、「イエスを十字架にかけよ」と口々に叫び続けたあのユダヤ人民衆たちを想起させるかのようであります。それに対してバルナバは「あなたは異邦人の光たれ、と主に言われたのだ」と言って、異邦人の救いのために働く事を宣言しております。ですから聖書はやはり反ユダヤ主義なのか、そのように考えてしまうかもしれません。

 しかし聖書は前後関係が大事です。文脈の中で読まず、新聞の切り貼りをするように読んでしまっては、肝心要の事に目を向けられなくなってしまいます。つまり、今日の箇所は、反ユダヤ主義的な言葉のように捉えられてしまうのですが、実はそうではないということです。神の寛大さと気前の良さに満ち溢れております。そのことに目を凝らしてみたいのです。

 今日の箇所は、パウロとバルナバの伝道旅行の話です。彼らの伝道は成功し、たくさんの改宗者を得ることが出来たようです。しかしそれをねたんだユダヤ人たちは、45節のように振舞ったのです。バルナバは46節でこう言います。「救いというのは、本当はユダヤ人のためにあったのだが、彼らはそれを拒否し、永遠の命を軽んじてしまった。だから私たちはユダヤ人への宣教を止めて、異邦人のところへ行く」と、このように宣言するのです。しかしこれに怒ったユダヤ人たちは、50節で反撃に出ます。町のおもだった人たちにデマを蒔いたのでしょう。彼らを扇動し、パウロとバルナバを迫害させたのでありました。このようなやり取りが中心となっているのが、今日の箇所でありますが、ここの前後を見てみたいのです。

 それは238ページ下の段、13章14節「パウロとバルナバは~そして安息日に会堂に入って」とあります。それからパウロは長い説教をするわけですが、その後、今日の箇所の13章44節で「次の安息日になると」とあります。これは1週間が経って次の週になってから、また次の安息日にパウロとバルナバは宣教を始めた、ということです。そして14章1節のイコニオンでも同じように「ユダヤ人の『会堂に入って』話をしたが~」とあるように、これら一連の話は、全てユダヤ人のユダヤ教の会堂、「シナゴーグ」で神の言葉が宣べ伝えられていたということを示しているのです。

 お分かりになりますでしょうか。先ほども言いましたが、この箇所は、見方によっては、あからさまな反ユダヤ主義を煽るように読めてしまいますし、これを契機に異邦人宣教へと舵を切って、新約聖書はユダヤ人たちと決別していったかのように読み取ることが出来てしまうのです。45節のユダヤ人の悪口、バルナバの言葉を読む限りにおいて、ユダヤ人たちは完全な敵対者であるかのように映ってしまうのです。 
 けれどもそうではない。反ユダヤ主義でいようとするならば、なぜ敢えて必ず「ユダヤ人の会堂で」宣べ伝えようとするのでしょうか。なぜ敢えてそれを続けようとするのでしょうか。一度ならずも、二度も三度も、神のみ言葉を拒否するあのユダヤ人たちの懐不覚に入り込んで、彼らに語らせるのでしょうか。それは、神が「彼らを招こう」とされているからであるのです。

 46節によると、ユダヤ人はもともと救われるはずでありました。旧約の預言者の時代から、彼らを救おう救おうとしてきたのです。しかし預言者を迫害し、神の言葉を軽んじ、預言者を痛い目に遭わせて、拒否し続けてきました。けれども彼らは、そうであっても愛された神の被造物であり、選ばれし神の民ということなのでありましょう。

 彼らは何度も拒否いたしました。究極的には、主イエス・キリストという神の啓示を「肉となった神の御言葉を」拒絶し、ののしり、悪口を浴びせ、最終的にはユダヤの法律にはない、最も残虐な方法である、十字架という処刑法を通して、神の言葉を抹消しようとしたのです。

 普通、人間同士の関係ならば、人間同士の契約関係、また企業や学校、医療機関などの
法人の契約関係ならば、もしそこまで拒否する人がいれば、簡単に契約は解除され、もう二度と関係を持つことはないかもしれません。万が一詫びを入れ、もう一度関係を結びましょうと打診されたとしても、今度は限りなく不平等な契約であったとしても、それを飲まねばならず、それは自分が拒否したことのツケであるのだ、と納得せざるを得ないところだと思うのです。

 しかし神は、私たちとの関係を断ち切らないで継続されるのです。神は寛大な神であり、気前の良過ぎる神であられるからです。このような拒否に拒否を重ねたユダヤ人たちであっても、神を拒否し続けたどのような者たちであっても、神は最終的に、その人を救いに招こうとされる神なのであります。

 あのペトロが、あなたを決して拒否しませんと豪語したすぐ後に「知らない、知らない、知らない」と三度言い放ったように。「キリストが本当に復活したのなら、証拠を見せろ」と息巻いたあのトマスのように。ニネべに行きなさいとの命令を無視し、タルシシュ行きの船に乗り込んだあのヨナのように。私たち自身も、神に背を向け、神のなさる業を否定し、神の計画を拒否することがあると思うのです。神から離れよう離れようとし、そこから逃げようとする心。もしそれがあったとするなら、私たちもまた、このユダヤ人と同じではないですか。あの、キリストに敵対した、ユダヤ人。神の計画に賛同せず、人となられた神の御言葉を消し去ろうとするあのユダヤ人こそが、私たちであるのです。

 けれども、今日の箇所が私たちに希望の光を見せています。なぜなら、このユダヤ人こそが、神に何度も何度も招かれ続けているからです。何度拒否しても、何度悪口をたたいても、この罪が決して消えないとしても、罪なき者と「見做して下さる」からです。この箇所は、私たちに、異邦人の光である神が、ユダヤ人の光でもあり、また私たちの光でもある事を教えてくださっています。13章39節に「信じる者は皆、この方によって義とされるからです」とあるように、私たちは一時も離れることなく、この神の愛に包まれて、歩もうではありませんか。