2月14日~19日の集会

 ◇浦和教職者会(超教派の牧師会)  14日(月) 10時00分~13時00分
  
 ◇家庭集会(大戸集会)       15日(火) 13時30分~

 ◇家庭集会(杉戸集会)       16日(水) 13時30分~

 ◇聖書の学びと祈りの会(祈祷会)  16日(水) 19時30分~

 ◇聖書の学びと祈りの会(祈祷会)  17日(木) 10時00分~

 ◇婦人会委員会             〃      〃  終了後













 

2月20日の礼拝

2月20日(日) 10時30分~
 この日の礼拝は南浦和教会との講壇交換です。

 浦和教会
  説 教  「足れり、主よ、足れり」
  聖 書  マタイによる福音書6章25節~34節
  説教者  小池創造(南浦和教会牧師)

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 南浦和教会
  説 教  「タビタ、起きなさい」
  聖 書  使徒言行録9章36節~43節
説教者  三輪地塩(浦和教会牧師)

使徒言行録15章1節-35節 『エルサレムでの使徒会議』

使徒言行録15章1節-35節 『エルサレムでの使徒会議』 2011年2月6日

 今日の箇所は、突然場面が展開しています。これまでのような、宣教活動に成功してきた喜びに溢れた場面から、突如「ある人々」と呼ばれる人たちが乗り込んでくるのです。それは、律法を厳格に守るユダヤ人たちが、パウロのアンティオキア教会に乗り込んできて「律法を厳守せよ、割礼を受けないと救われない」と教えたということです。アンティオキア教会は異邦人の教会でしたから、割礼を受けた人はおりませんでした。ですから「割礼を受けなければ救われない」という教えは、彼らにとっては信仰の根本を揺るがせる事柄でした。割礼を受けていない者は救われないのだろうか。このことに関して、パウロたちとユダヤ人たちは激しい論争となりました。「割礼は必要ない、いや必要だ」という言い争いであったと思います。このユダヤ人たちは、ユダヤ教徒ではなく、キリストを信じる信仰者です。しかしキリストがユダヤにルーツを持ち割礼を受けていたのならば、当然キリスト者もユダヤ人となるべきである、そのための割礼なのだ。それが彼らの主張だったと思います。
 しかしパウロたちはこれに納得いくはずもありません。使徒言行録10章では、ローマ軍の百人隊長コルネリウスが既に割礼無しで信仰者になっています。その後、キプロスの総督が改宗し、イコニオンやリストラでも、多くの異邦人改宗者を得たわけです。キリストを信じることによって全ての者がキリスト者となるのだ、これがパウロの見解でした。

 この疑問を晴らすために、パウロとバルナバたちは、キリスト教会の総本山であるエルサレム教会まで出向き、その真意を探りに乗り込んで行きました。エルサレム教会に着いた彼らは、歓迎される一方でファリサイ思想を持つ者たちから「割礼を強要すべきだ」という意見を聞かされたのです。ここでエルサレム教会のペトロが立ちあがり、異邦人にも聖霊がくだり、彼らは割礼の徴ではなく、心の信仰が認められたことを全会衆に向かって証言しました。そこでバルナバとパウロが立ち上がり、自分たちを通して神が異邦人をどのように救われたのかについて話したのです(12節)。

 これに対して、教会の代表者であったヤコブが答えて19節でこう言います。「それで私はこう判断します。神に立ち返る異邦人を悩ませてはなりません」。この言葉は割礼なしでもキリスト教信徒であり、神の救いに預かる確証を得る、という事を示します。その後パウロたちがアンティオキアに帰るのに伴ない、エルサレム教会の指導者たちを同行させました。彼らはアンティオキア教会で事の次第を説明しました。結果として異邦人教会はエルサレム教会に認められることとなり、その契機となったのがこの「使徒会議」であったのです。

 そして興味深いことに、この箇所は、福音書記者であるルカの視点から描いた使徒会議ですが、実はパウロの視点から書いた使徒会議が、ガラテヤ書2章1節以下に記されています。「それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任せられたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」。パウロはこのように言っているわけです。使徒会議で決まったことは、ユダヤ人伝道と異邦人伝道とを区別して、それぞれの教会の地域性と特殊性に合わせた宣教を行なおうという話し合いの結果を得た、ということです。決してエルサレムとアンティオキアの教会が分裂し、相容れない関係として、それぞれ独立した組織となっていったのではなく、同じガラテヤ書2章9節で「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目される主だった人たちは、私とバルナバに、一致の徴として右手を差し出しました」とあるように、この時の会議の結論は、別々の働きを認めつつ「一致する」ことであったのです。キリストによる一致の中にあって、主のもとで別々の考え方を認め合うという結論なのです。
 彼らのこの会議の結果は、我々に多くの事を教えてくれます。全く別の考えの中にある兄弟姉妹たちが対峙したとき、教会は如何にしうるのでしょうか。如何にしてキリストを見上げて歩むことが出来るのだろうか。その答えを見るようです。

 そもそもこの話は「ある人々」と呼ばれるユダヤ人たちがやってくることから始まります。この人々は、保守的な考えを持ち、福音とはユダヤ人の伝統を守ることだと主張していたのです。エルサレム教会自体も、少なからずこのような考え方が正統的であると思っていたと思われます。ガラテヤ書では、パウロとペトロが割礼の考え方の違いで対立していることが出てくるぐらいです。しかしこれがエルサレム教会の考え方でした。保守主義のユダヤ的な考え方です。しかしユダヤ人たちが、異邦人の救いについて消極的なわけではありません。むしろ積極的に宣教の成果を喜んでいたことは明らかです。ギリシャ人もローマ人も同じく救われる、それはイエス・キリストの教えなのだ。地上の氏族が全て祝福に入ると創世記12章で神が宣言なさったアブラハム契約に、全ての人がこの神の預かることが出来るのだ、と考えていたのです。しかしどうして割礼という徴がないのに、その約束を得たと言い得るのだろうか。割礼は祝福への通行手形である。その徴は異邦人にも必要なのだ。こんな素晴らしい徴なのだからどうぞ割礼をお受けになって下さい。これがユダヤ人たちの考え方でした。もう一方で、彼らはこうも考えていたと思います。祝福と救いは、ユダヤ人だけに与えられた特権なのだから、異邦人であるあなたがたにそれを分けるためには、まずあなた方がユダヤ人にならねばならない。あなたが選ばれた民とならないことには、救いを受けることができないのだ。このように考えていた人たちもいたことでしょう。

 しかしこの考え方は、私たちキリスト者にも言えるように思います。つまり、私たちがこれまで行なってきた宣教は、自分たちのところに追いついてきた者たちだけがキリスト者になることが出来るのだ。という考え方であります。難しい本を読み、難しい教理を見につけ、聖書の箇所を暗誦し、毎週欠かさずに礼拝と祈祷会に参加し、理想的なキリスト者になった者が、救いを受ける資格を得るのだと。

 これまで西欧のキリスト教会は、植民地政策にのっとり、異文化圏の西欧化を進めてきました。つまり西欧的な考え方が神の御心であ
り、正義である、という考え方のもとで、世界宣教が行なわれてきたのです。アフリカも、東南アジアも、ラテンアメリカも、全てが西欧文化の生き写しの教会とならなければ教会ではありえない。このように考えて宣教してきたのです。

 しかし歴史には、その反動としての反ユダヤ主義もございます。ナチスドイツがユダヤ人を投獄し処罰する理由として「アーリア条項」というという考え方を政治的に広めました。それは、ユダヤ人の血を引く者は全ての重要ポストから排除し、アーリア民族であるドイツ国民だけが神の目に優越される民族であるという考え方です。しかしユダヤ主義も、反ユダヤ主義も、お互いの論理は全く同じです。つまり「こうでなければならない」という論理です。キリスト者とはこうでなければならない。信仰者とは、求道者とはこうであらねばならない。と、もしそのような考えを持ち込むのならば、アーリア条項と何ら変わらない論理の中で生きることとなってしまうでしょう。

 つまり、私たち信仰者が、信仰の本質とは異なる論理を持ち込もうとするならば、それは全く異質な信仰にすり替わってしまう事を忘れてはならないのです。私たちが信ずべき唯一つのことは、イエス・キリストの父なる神への信仰なのであって「信仰+割礼」であるとか、「信仰+道徳礼儀」「信仰+民族主義」というような信仰に付随する何者かがなければ信ずることができないとなった時、私たちは律法主義へ陥る危険を孕んでいることを忘れてはならないのです。

 しかしながら、今日の箇所では、パウロの側も、エルサレム教会の側も、両方が譲歩を引き出して、お互いの考えを歩み寄らせています。ユダヤ人たちは割礼の遵守を求めた。パウロたちは律法の如何なる箇条の遵守も拒否していた。しかし結果として与えられたのは、15章20節にあるような、「律法の中のでも特に『食物規定』だけは守るように」という事でお互いが歩み寄ったのです。それは教会が、新たな展開を見せた瞬間でもありました。ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、ギリシャ人に対してはギリシャ人のように与えられる神の言葉を認めた、ということに他なりません。両者が、それぞれ頑なに守り続けようとし、執着したがるものから離れて、信仰の本質に迫った瞬間であったのです。そこには、いがみ合いや、憎しみ合いではなく、和合すること、お互いに主にあって共に生きる事の実践があるのです。つまり「教会は新しく変わりうるのだ」ということが示されたのです。

 私たちの教会は、信仰者同士で意見が分かれ、お互いの相違が明らかになり、意見の衝突が起こる時、その事実を隠したり、時には公然と批判しあってみたり、あるいは激怒して力ずくで押さえつけてみたりと、決定的な分裂の危機を迎えることが往々にして起こりえます。しかし言ってみれば、その対立意見のどちらも正しいのです。どちらも正論を持っているのです。お互いがお互いの言い分を持っているのです。ユダヤ人にはユダヤ人の生きてきた証としての律法の遵守があるのであり、パウロには異邦人宣教によって肌で感じてきた宣教の方法論があるのであり、どちらも自分が正しい、という正しさの中に生きているのであります。

 しかし教会は、それらに優劣をつけたり、どちらかが一方的に正しいと判断したり、一方を切り捨ててみたり、一方を完全に正しい、もう一方は完全な間違いであると見做したりすることは、福音の本質から言うと、それこそが間違いなのです。教会の目的は、人を断罪し、生き方の幅を狭めることではないのです。福音は、縛られている人を解放し
囚われている人を自由に導く神の言葉です。ルカ福音書4章18節で言われている通りです。教会が求めることは、その人にどう福音が届くのかに腐心し、心砕き、どのように提示していくことが可能なのか、ということ。神の働きとしての如何に宣教を行なうことが出来るのか。その事が求められているのであります。

 「一致する」という行為はそれ自体「ニュートラルな概念」であります。一致すること自体は何も良いことではありません。むしろ一致することで、いじめが起こるし、差別が起こるし、戦争も起こるのです。ですから「一致する」ということそれ自体は、特に良い事でも悪い事でもないのです。しかしひとたびキリストによって一致することが出来たならば、それは大きな力を得るのです。「一人よりも二人が良い、倒れたとき抱き起こしてくれる人は幸いである」と詩編で語られているように、共に生きる目的の中に、キリストが立ち給うのならば、そこには生きる意味があり、共に過ごす必要性があり、共同する可能性が広がるのであります。教会の中で、ユダヤ人が異邦人を認めず、異邦人がユダヤ人を認めないことがあるならば、そこには主の教会は立ち得ないのです。主の教会とは、ユダヤ人が異邦人を愛し、異邦人がユダヤ人を愛する教会であり、割礼の有無を認め合う教会であり、他者の他者性を尊重する教会であります。それがイエス・キリストをかしらとする教会なのです。

 先週私たちは、総会を開催し、様々な報告と、方針と、アイデアを出し合ったことと思います。そして今こうして、一人の新しい執事が、教会の奉仕者として選ばれております。どうかこの浦和教会という主の器が、真実の御言葉に立つ教会であるように。この器が、主に用いられて、真の福音の輝きを照らし出す教会であるようにと、心から願うものであります。