使徒言行録17章16節-34節 『神はどのようなお方なのか』

 使徒言行録17章16節-34節 『神はどのようなお方なのか』 2011年3月20日

 原子物理学に触れてこなかった文系の私は、「ゲンパツ」という言葉は知って居ましたが、全く自分の範疇外の学問として考えてきました。しかし皮肉なことに、このような私でさえ、電力会社のホームページにアクセスしてみたり、本を読んだりして、その情報を知らざるを得ない状況にさせられています。核分裂、臨界、制御棒、濃縮ウラン、プルサーマル、MOX燃料。取り立てて気にかけることのなかったこれらの用語の「概要だけ」は分かるようになってしまいました。
 しかし一人のキリスト者として、また牧師として、この今のような危機的状況を、どのように神学的に捉えることが出来るのか。また、これをどう理解し、ここから神の何たるかを知り、御言葉をどう聞きうるのか。それが先週一週間の私のテーマでありました。

 大地震によって津波が起こり、目を覆いたくなるような悲惨な出来事と共に、放射線の恐怖に私たちが怯えるとき、私たちは何を考えるでしょうか。「どこの電力会社が悪い」「政府の対応が悪い」と、特定の企業や集団、あるいは政治体制に対して苛立ちをぶつけてしまうと思うのです。しかし事柄はそんなに単純ではありません。一方から見ると、一方は正しく見え、逆の光を当てると、それが正しいようにも見えてしまう。何が正しくて、何が間違っているかの判断は、私たち人間にとって最も困難な事柄の一つであるのです。

 人間は、人間にコントロールしきれないものに手を出してしまった結果が今の状況を生み出している。これが率直な思いです。私たち人類は、人類に出来ない事は何もないと豪語し、制御出来ないものを制御できると思い込んでしまってきたのです。それは私たちのエゴです。人間はもはや、人間を越えてあたかも神の領域に手を出す権威を持っているかのように、そのエネルギーに手を出し、制御不能になることなど考えもせず、人間が人間としての限界を越えようとした結果、そこに疑問を持たずに、単に科学的な事として理解し、神の被造性と神の秩序の問題として考えてこなかった結果が、この事故なのではないかと思うのです。

 これらのことを通して、今日の箇所に向かい合いましょう。
 今日与えられた箇所は、使徒パウロが、アテネという学問の都市で宣教活動をした結果、みんなからあざ笑われ、相手にされなかった、という話です。皆さんはこの箇所をどう読むでしょうか。平和なとき、私たちは、この箇所を、単なる「パウロの失敗」として読むのではないでしょうか。パウロも伝道に失敗することがあるのか。猿も木から落ちるとはよく言ったものだと、そんなのんきな事を考えながら、今日の箇所を読むと思うのです。

 しかし今、多くの被害者を出し、危機的な現状の中にある私たちに、この箇所が与えられました。パウロの言葉をあざ笑ったアテネの哲学者たち。それでも懸命に「神とはどのような方であるのか」を熱心に伝えようとしたパウロがここにいるのです。

 ここに出てくるのはエピクロス派、ストア派の哲学者たちです。この「哲学」は、私たちの良く知る、「デカンショー」の「西洋哲学」とは違います。それは学問の一分野としての哲学です。しかし古代ギリシャにおいて「学問」は哲学しかありませんでした。文学も医学も天体観測や数学も芸術も、哲学のカテゴリーに含まれていました。その最高峰であったのが「アテネの哲学者たち」です。さながら、ハーバードやオックスフォード、ケンブリッジの学者たち、スタンフォードの科学者たちが、アテネに終結しているようなものであります。まさに世界の学問の中心地、それがアテネでした。

 パウロはこのアテネに来て、神の事を伝えるのです。哲学者たちの反応は様々でありました。「このおしゃべりは何が言いたいのか」「彼は外国の神を宣伝する者らしい」などと噂しました。パウロの評判は上々であったと考えて良いでしょう。最初からあざ笑っていたのではなく、強い興味関心を引いているのです。さすがに学問の最高峰アテネの有識者たち、と言った印象を受けます。彼らの学問に対する飽くなき追及心が伺えます。彼らはパウロを「アレオパゴス」という会議場に連れて行き、ここで神の事を聞かせてくれというのです。とても低姿勢であります。教えを乞う姿勢が見られます。それほど彼らは純粋に学問を求めていたのでしょう。

 そこでパウロは語ります。アレオパゴスの真ん中に立ち「アテネの皆さん~」と語りだすのです。「アテネを散策していると『知られざる神に』と刻まれた祭壇を見つけました。私はその「知られざる神」をあなた方に伝えに来たのです。その神は、世界と万物をお造りになった方で、人間の手で造った神殿などに住むことはありません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのは、この神なのです」‘。このように、神とはどのような方であるのかについて力強く語るのです。

 祭壇に刻まれた「知られざる神に」という言葉は印象的です。「知られざる神に」それは言い方を変えれば、人間は神を知らない、ということにもなります。 そこで思うのは、今の世の中です。私たちは、本当の神を知っている世界に生きているのでしょうか。むしろ、このアテネのように、「知られざる神」の存在は知っているけれども、どんな神かは知らないし、知ろうともしない、そのような世の中に生きているのではないかと思うのです。

 言い方を変えましょう。「神の見えざる手」を信じる市場経済は、それがイエス・キリストの父なる神であろうと、別な違う神であろうと、どうでもよいのです。「神の見えざる手」という言葉に示された神は、経済活動にとっては「知られざる神」で十分だからです。つまり誰でも良い。どのような神であっても良い。それが需要と供給を安定させ、商品価格を適正に保たせるならば、それが「見えざる手」であっても「知られざる神」であっても、どちらでも良いからです。

 市場経済において各個人が自分の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方、アダム・スミスは「国富論」の中で実は一度しか使っていないこの >「神の見えざる手」という言葉が、独り歩きしてしまい、これが市場原理の神の姿として、認識されてしまったのです。私たちはこの市場経済・資本主義経済の中で、たくさんの需要に対して、たくさんの供給を求めようとします。人間が欲するところに欲するだけの商品を作り出そうとするのです。それが社会全体の利益であると信じているからです。欲しい人がいるのに、品物が不足することをビジネス用語では、「チャンスロス」と言うそうです。逆に、「欲しい」人のところに「欲しい物」があることを「チャンスゲイン」と言うそうです。利益を上げるために、チャンスを生かし、チャンスゲインをしていき、多くの利幅を得ていく。決してそれは悪いことではないのですが、しかしひとたび今起きている出来事に目を向けるならば、電気の需要に対して、あらゆる手段を使って電気の需要を満たし、チャンスロスの無いように無いように、と発電を追い求めていった結果、辿り着いたのが、効率よく、巨大な発電力が得られる、利幅が取れる、原子力という制御不能なエネルギーであった、ということでありましょう。「神の見えざる手」つまり「知られざる神」を知ろうとせずに、「知られざる神」がどんな神であろうと関心をもたず、神への無関心と人間の過信の延長線上に起きた出来事。それが人間のコントロールしきれないものであることをどこかで知っていたとしても、需要と供給という知られざる神にばかり目を向け、その代償しての悪魔のような危険をぼやかしにしてしまった。その結果を、私たちは今、目の前で見せ付けられているのではないでしょうか。
 
 パウロはこの「知られざる神」がどのようなお方であるかを克明に語ります。「神は、世界と万物をお造りになった方で、人間の手で造った神殿などに住むことはありません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのは、この神なのだ」と。「すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのが、この神である」のです。すべての人に命を息とその他すべてのものを与えるのは、市場経済でもなければ、核分裂でもないのです。ただ全能の神、創造者としての神のみなのです。創造主と被造物の関係があるだけなのです。私たちはそれを等閑(なおざり)にしてはなりません。被造物は、創造者を制御できず、コントロールするのは神の側であり、我々は自らが神であるかのように、振る舞うことなど許されないのです。この時代、神に対する慎みと、謙虚さが欠如しているならば、私たちは今すぐ神に向き直って、新たに生き直さねばなりません。

 「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆、悔い改めるようにと、命じておられます」。この言葉は、今の私たちに対して、本当に突き刺さるような言葉であります。この無知な時代を大目に見てくれた、だから悔い改めなさいと聖書は言うのです。

 そしてパウロは、この哲学者たちに「キリストの復活」を伝えます。それは命の根源が、どこにあるかを伝える、究極的な神の使信、神のメッセージでありました。けれども彼らの反応は「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のです。

 彼らはキリストの復活を拒否しました。「知られざる神」に対しては興味を持っていた彼らが、復活という人間の為し得ない出来事、人間の不可能性の中に神がおられることを伝えると、人々はあざ笑い、立ち去ったのです。復活は、究極の神の業です。しかし信じないものにとっては、神話でしかないのかもしれません。けれどもこの神には不可能はないのです。人間には不可能でも神には可能なのです。哲学者たちは、自分の想像できる領域が神の領域であると信じていたのでしょう。それは、すべてを人間が制御し、人間に出来ないことはないと、心のどこかで信じている、現代人の姿がダブって見えるようです。

 さあ私たちは、今こそ、真の神に立ち帰るときであります。本当の神を見出し、知られざる神が、どのような神であるのかを、知る時であります。信仰は、神を知ってから入るものではなく、知ろうとしたときに既に信仰の内側に入っているのです。

 今日の箇所に、一筋の希望が見られます。それはアテネの議員ディオニシオとダマリスという夫人が、信仰に入った、という最後の小さな一節です。しかしこの小さな一節は、信じる者が与えられるという意味で大きな一節なのです。議員ディオニシオは、男性であり、裕福な社会的ステイタスを持った人物でした。ダマリスは、女性で、取り立てて裕福でなかったし、社会的な地位を持っていたとも考えられません。しかしこの正反対の者たちが、たったの二人だけれども、イエス・キリストの福音に聞き、復活を信じ、新たな希望に生きることが出来たのは、この箇所にとって、そして今、危機の中を過ごす私たちにとって、大きな希望となります。神はどのような神か。それを知ることによって人間は、真の人間として、被造物として、謙虚に、慎み深く、しかし大いなる希望の中を生きることが出来るのです。神を知りましょう。そして信じましょう。