マタイによる福音書4章1節-11節 『荒れ野の誘惑』

 マタイによる福音書4章1節-11節 『荒れ野の誘惑』

 主イエスが洗礼を受けられた、という出来事のすぐ後に、主イエスが誘惑に遭われたという出来事が起こります。この話はまた不思議な内容となっています。神の子が何故誘惑に遭わなければならないのか。この「悪魔」とは一体何なのか。悪魔と対話をしながら誘惑を受けるというのをどう受け止めればよいのか、という問題。そしてここでの最も重要なことは、ここでの出来事は、どのような誘惑であるのか。このような疑問が湧きあがってくるのであります。
 日曜学校のお話しなどで、度々選ばれるこの箇所は、この不思議さとは裏腹に、意外に有名でありまして、「荒れ野の誘惑」と呼ばれる出来事として知られているのです。
 例えば私たちは、日曜学校などでこれをどのような物語として聞いてきたでしょうか。私の経験から申しますならば、小学生の低学年の頃、日曜学校のお話の中でこの箇所の説教を始めて聞いた時、説教者がこのように説明しておりました。「イエス様は神様だから、石をパンに変えることも、どんな高いところから飛び降りることも、世界の国々を支配することも可能なのだけれども、悪魔の言う事に従わなかった。イエス様は誘惑に負けるような堕落した人ではなく、清く正しいお方だったのだ」。このような話をされたように記憶しています。子供心に、「ああ、そういうものなのか」と思っていましたけれども、今になって良く考えてみると、あの説教では何一つとして誘惑の意味について説明がなされていなかったなと思うのです。

 「誘惑」という言葉を聞くとき、皆さんは何をお感じになられるでしょうか。誘惑に駆られる人間は「堕落した人」だし、「心も体も魂も弱い人」、それが誘惑に負ける人である、と、こうお考えになるかもしれません。広辞苑で誘惑という言葉を調べてみますと、「人を迷わせて、悪い道へ誘い込む事」と書かれておりました。誘惑は「悪い道」であり、「堕落の道」であり、「低くされる道に誘われる事」である。それが誘惑だ、というわけです。今日はこのことに基づいて、聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。

 イエス様と悪魔が対話するという形で話が進んでいくのですけれども、ここでは三つの誘惑を受けていることが分かります。最初の会話は3節~4節で、「石をパンに変えてみたらどうだ」という誘惑。二つ目は5節~7節で、「神殿から飛び降りてみたらどうだ」という誘惑。そして三つ目は8節~10節までで、「世界中の繁栄を与えるから悪魔を拝みなさい」という誘惑であります。
 このうち、三つ目の誘惑に対し主イエスが断固として聞き入れなかったため、悪魔は諦めてイエスから離れていき、イエスが悪魔の誘惑に打ち勝ったのだという、内容であります。

 しかし、これらの会話の言葉を、さらっ、読み飛ばしてしまうとあまり気が付かないのですが、よく読んでみると色んな事が疑問に思えてくるわけです。まず一番目の「石をパンに変える誘惑」についてですけれども、私たちはこの話を、「荒れ野の誘惑」として読みますから、その時点である種の先入観がはたらくわけです。つまりこれは「誘惑なんだ」という先入観。しかしその先入観を取っ払ってよく考えてみますと、何故これが誘惑なのでしょうか。イエス様は、空腹を覚えた弟子たちに対して、安息日であっても麦の穂を摘んで食べる事を許された方であります。ですからなぜパンを食べる事が誘惑なのか、という疑問が浮かび上がってくるのです。勿論悪魔が言っているから悪い事だ、という状況的なことは言えるかもしれませんが、しかしそんなに単純に考えてよいのでしょうか。

 まあ3番目は、権力・支配に対する事柄なので、これが誘惑であることは分かりやすいのですけれども、問題は2番目です。皆さんもお感じになるかもしれませんが、なぜ神殿の上から飛び降りる事が誘惑なのだろうか、別に飛び降りてもいいじゃないか、と感じるのです。

 しかしこの箇所は、「イエスは悪魔から誘惑を受けるために導かれた」と書かれていますので、この箇所は、押しも押されもせぬ「誘惑」がテーマの話であります。
ですからここで考えねばならないのは、これらの誘惑は、文字通りの誘惑と言うよりも、むしろ何かを象徴的に語っているという事であります。まして「悪魔が言っているから誘惑なんだ」と単純化してしまっては、聖書がここで語ろうとしている本質に全く触れる事が出来ないのであります。

 つまりこの箇所から分かるのは、「聖書が示す誘惑の本質について」であるということです。第一番目に示されているのは、誘惑というのは、「貧しさの中で湧き起こる誘惑について」示し、二番目に示されるのは、「宗教的・信仰的な誘惑について」を示し、そして三番目は、「富と権力についての誘惑」ということが象徴的に描かれているということです。

 聖書の中で人間が初めて誘惑に負けてしまったのは、どこでしょうか。創世記3章1節以下の、エデンの園での蛇の誘惑であります。神に食べてはいけないと命じられた善悪の木の実を、蛇に唆されて取って食べてしまうという、あの誘惑であります。今日の箇所でもそれと同じように、目に見える単純化された行為に対してではなく、神に対する誘惑の本質と闘っている、という事が出来るのであります。

 つまり結論から言いますならば、誘惑とは「良い事だと思われている事柄の中にこそ存在する」と言う事が出来るのです。すこし大胆な言い方をしてしまうと、「やってはいけないと知りつつ行なう事」は、実際は誘惑ではないのかもしれません。それはルール違反であったり、礼儀や人格を問われる問題であるかもしれませんが、しかしこの箇所で語られる「誘惑」は「良いことだと思われるような事をするように招かれる事」なのです。空腹だから石をパンに変える、それ自体は何も悪くはありません。政治的支配力を得る、それ自体も何も悪くありません。神殿から飛び降りる、それ自体も何も悪くはないのです。けれどもここで重要な事は、本当の誘惑というのが、「落ちていく事ではなく、自らが上昇して行くと思われる事の中に隠されている」という事であります。

 冒頭で、「誘惑とは堕落する事、落ちていく事だと考えるのが一般的であろう」と、申し上げました。けれどもこの箇所で示される、つまり聖書で示されるところの
誘惑は、一概に、落ちる事や堕落することだけが問題なのではないのです。
 エデンの園で、アダムとエバは蛇に何と言われて唆されたでしょうか。「この木の実を食べると堕落するよ」「これを食べると悪魔のようになれるよ」とは決して言われませんでした。これを食べて「神のようになりたくないか」「神と同じような知恵と判断力を持ちたくない」と言われたのであります。ここには堕落はありません。それをすると素晴らしいと思われる事の中に、上へ上がりたい、上昇したいという心の内に、本当の誘惑は潜んでいる、と、聖書は言うのであります。

 人間は誰でも貧しさの中にあると、そこから這い上がりたい、と願うでしょう。しかし富んでいても同じように、それ以上を願うのです。国民全員が総中流階級と言われた時代も今は昔、格差社会と言われる現代日本の状況です。しかしいずれにしても、貧しさの中にあってもそれ以上を望む誘惑があり、富裕層の中に生きても、それは同じなのであります。人間としてのプライドや自尊心の中に生きる事、自分の強さ、能力の中にのみ真実を見出す事こそが、神と人間との関係の根幹を揺るがす誘惑なのであります。誘惑とは弱さが試される事柄ではなく、強さが試される事であるのかもしれない。 強さの誇示、自尊心と誇り、才能と技術、その中で神を見失い、自分の強さと戦うことこそが、聖書の言う誘惑であるのです。悪魔は、主イエスの弱さに働きかけたのではなく、神の子である故に何でもできるという強さに働きかけでいるのです。

 宗教的な誘惑も同じであります。我々は信仰を持っています。これに支えられます。神の言葉によって生かされ、神の言葉によって安堵し、そこに平安を見出します。しかし今日の箇所をよく読んでみて驚いたのですけれども、神の言葉は悪用される事があるのです。主イエスを神殿の屋上に立たせた悪魔は何と言っているでしょうか。6節「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神はあなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石にうち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』と、詩編91編11節の言葉を引用しているのです。つまり誘惑者は、主イエスに対して、聖書引き合いに出して、自分の言葉の正しさを証明しようとしているのであります。これは大変な驚きであると同時に、信仰者として心しなければならない事でありましょう。宗教的な誘惑とは、自分の信仰心を誇り、他人の不信仰をあおる事ではありません。「これこそが忠実な信仰である」「私の信仰こそが正しいのだ。」という事の中にある誘惑が存在すると、聖書は言うのです。信仰者として神に強められている反面、それが自らの強さと混同してしまう時、信仰は誘惑に変わるのです。もしかすると信仰は迷いの中にある時の方がより堅固で、強いものなのかもしれません。自らの信仰を誇り、自信に満ち溢れ、聖書の御言葉を剣のように振り回すという、信仰者の誘惑が「信仰その物の中に潜む」のであります。

 このように見ていきますと、私たち自身には何の救いもないように感じてしまいます。けれども、それで良いのであります。何故なら私たち自身には救いは無いからであります。私たちの救いは、ただ一人、主イエス・キリストにのみあるのです。
 キリストは、全てにおいて神であり、強さであります。けれどもキリストは強くある事を望まず、強さを求めず、強さの中を生きませんでした。徹底的に弱さの中を生き、それは十字架の死に至るまで徹底的に自らを低くし、我々の罪を担うべく歩まれた方であります。私たちが如何に強さを求める誘惑される者であろうとも、キリストは、この誘惑される我々のために、弱く、低く生きて下さったのであります。私たちはキリストの歩みに従って、私たちの道しるべとして、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めとしてこの方を追い求めるのです。すなわち、人はパンによって生きるにあらず、人はキリストによって生きるのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年10月9日)

10月16日の礼拝

     < 伝 道 礼 拝 >

 日 時:10月16日(日)10:30~11:30
 
 説 教:「死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」
        
 説教者:三輪地塩牧師

 聖 書:マタイによる福音書4章12節~17節