マタイによる福音書5章17節-20節 『一点一画も消え去らず』

 マタイによる福音書5章17節-20節 『一点一画も消え去らず』 

 キリスト教会で、律法と言うものは大変重要なものと考えます。モーセの十戒に示されているような、ユダヤ教の時代にシナイ山で神から与えられた法律の書。生活規定でありながら、民法、刑法、刑事訴訟法の法律的な要素もあり、また宗教儀式、例えば犠牲の捧げ方や、神殿での礼拝の仕方などに至るまで、宗教的指針としての役割も持っているもの。それが旧約律法であります。それによって人間は規定され、そのように生きる事が重要だと考えられ、その生き方こそが神に与えられた本当の人間らしい生き方であると信じて当時の人たちは生活していたのであります。
 律法の中には例えばこのようなものがあります。安息日には神様が休めと命じられた日であるから、何もしてはならない。極力家にいて、出歩くにしても一日1500歩までとか。もし安息日に飼っている牛がドブに落ちたとしても安息日なのだから助けてはいけないとか。サマリア人など宗教の異なる者、徴税人、娼婦などは罪人であるから、関わりを持ってはいけない。一緒に食事をするなどはもってのほかである。とにかくこのような事細かく決められた律法を守る事によって、自分たちの信仰が守られ、またそれが自分たちの生き方であると信じられていたのであります。

 しかしイエス様という方は、悉く違う事を行ったのです。安息日には何もしてはならないという律法があるにも関わらず、手や足の萎えた人々に癒しの行為を行ったり、忌み嫌われた罪人として敬遠されていたサマリア人、徴税人、娼婦たちと共に食事を囲んだりと、全く律法とは異なる事を行ったのです。

 それに対してユダヤ教の指導者たち、特にファリサイ派と呼ばれる律法に厳格なグループたちは、イエスは神の律法を軽んじ、またこれを破壊しようとしているのだ。と罵られたのです。イエスという輩は、神を冒涜し、神の言葉である律法を破壊しようとしていると反逆者のレッテルを張られたのでした。
 主イエスは、律法的に厳格に、一語一句寸分たがわぬ生き方をする事が律法的に生きるということではなく、神が我々に何を語り、何を求め、どのように生きよと言われているかを示しているのかを律法から読み取り解釈する。それが律法的に生きるという事だ、と言っているのでありましょう。律法が完全無欠であり。杓子定規に捉える事が神の喜ばれる事だと考えられていた時代背景の中で、この主イエスの大らかで、人を生かす律法解釈はあまりにも斬新であり、それ故に伝統的な律法学者、ファリサイ派の人たちからは忌み嫌われたのであります。そして結果としてそれが十字架に繋がっていくのです。

 律法的に杓子定規に生きるという事は、単に形式ばって生きるという事だけを意味しません。むしろこの律法に忠実に生きている自分が問題になって来るわけです。つまり自分は律法に忠実に生きる事が出来るという事が、それ自体目的になってしまうのです。それは人間としての功績や業績を求める生き方であり、自分が徳を積んでいき、周りから立派だと思われるべく生きたいという欲求を満たす生き方なのです。それが律法主義の生き方であります。それは決して人の為、人を愛する為、最も身近な友人知人、家族でさえも犠牲にしてまでも自分の偉さを誇って生きる生き方となっていく。つまり律法主義は、自分のために生きる主義に変容してしまうのであります。

 しかしここで主イエスが言っているのは、律法は確かに神の言葉である。しかし神の言葉は本来人を生かすものであり、人を愛するためのものである事に目を向けよ、ということなのです。だから20節で主イエスは言います。「あなた方の義が、ファリサイ派の義に勝るものであってほしい」という事を要求なっているのです。


 以前もお話ししたかもしれませんが、東後勝明さんという方をご存知でしょうか。1972年から1985年の13年間、NHKのラジオ英会話の講師をしていた方です。その当時学生だったという方は、知っておられるかもしれません。
 東後勝明さんは、高校2年の時に父親に先立たれ、その時「勝明、出世しろよ」という父に遺言されたといいます。それを受けて、周囲の期待に応えて、英語の世界で出世街道をひた走ります。早稲田大学1年生の時、英語暗誦コンテストでリンカーンの演説を行ない600人の中で1位を取った時から、その実力の頭角を現します。大学卒業後、英語教師をしながら、世界の名門ロンドン大学で学業を積みます。留学を終えて1972年にNHKラジオの英会話講座の講師に大抜擢され、37歳で早稲田大学の教員として迎えられるという、大変に順風満帆の生活を送っていたそうであります。次の目標は博士号という事で邁進していましたところ、家庭内で歪が生じてくるのです。
 3度目の留学先のロンドンで、娘さんが中学2年頃から登校拒否になってしまいます。その娘さんが駆け込んだ教会の牧師から電話があり、「娘さんが疲れているようだ。これは家族の中での人間関係にひずみがあるから、娘さんに過分な重荷(おもに)がかかっているためだ、と言われます。家族の人間関係を見直したら如何だろうか」と言われ、初めて現状を知って愕然とするわけです。それから、カウンセリングの本を読み漁り、登校拒否に関して独学で勉強をしたりと、色々頑張るわけです。しかし、言葉では分かっても心ではなかなか分からない。「学校に行きたくなかったら行かなくていいよ」と、本に書いてある通りの言葉を言っても、自分の心の奥底では「なぜ学校に行けないんだ」と苛立ってる自分がおり、娘にはそれが分かってしまう‥。そのように東後さんは回顧しています。
 奥さんもまた、“夫の目標実現のために支えるのが自分の役割”と思っていましたから、“そのために少しくらい家族が犠牲になっても仕方が無い”と思っていたようです。つまり家庭の全ては、学者である夫に合わせた生活であり、名を挙げる為、学位をとる為、夫は家の中でピリピリしており、それが家庭の中に広がります。でもそれが限界に達して破綻するのです。それは、家族でカウンセリングを受けている最中に、奥さんがくも膜下出血で倒れるという形で現れました。12時間の大手術。それだけではなく、続いて、自分も博士論文を書いているさなか、55歳の時、教授会の会議中に倒れてしまったのです。原因不明の腹部出血であったと言います。命の危険もあったようですが、何とか一命を取り留めたというこ
とであります。
 その時に訪ねてこられた牧師がおり、牧師は聖書を読みました。その箇所は詩編23編でした。「主は羊飼い、わたしには何もかけることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を歩むとも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。(詩篇23)」
これを聞き、全身の力が抜けて神様が語り掛けているような声、「おまえさんは、それでいいんだよ」という声が聞こえたようだったと言います。東後さんは、お父さんが亡くなってから、ずっとあるプレッシャーとストレスを抱えていました「このままではいけない。何とかしなければいけない。頑張らなければいけない‥」というような強迫観念にも似た、強い圧迫感であっ。しかしこの聖書の言葉によって、この時に一気に解放され、大きなものに生かされている、という心になったと言います。「このままでいいんだ‥」ということに気が付かされたのです。
 そしてちょうど56歳の誕生日の日、洗礼をお受けになりました。死んでも良い状態から、神様から命のプレゼントを貰った。東後さんは、人が生きていくうえで、また自分の人生にとって最も大切なものは何なのかを、もう一度考え直す事が出来た。博士論文よりも家族の再生が自分の人生で最も大切な事であるという心境になった。そして、それまでの頂点を目指していた時から価値観の大転換があり、家庭内に目を向けるようになりました。
その後、娘さんも心を開いてくれるようになったのだという事であります。

 この話は色々な事を教えてくれます。もちろん学問を追及し、その道に励むことは素晴らしい事です。それによって結果として名声を得たり、自らを精進させ向上させるという意味において素晴らしい生き方である事は間違いありません。しかし見方を変えると、それはあまりにも杓子定規な生き方であり、〇か×かを選び、こうせねばならない、こう生きなければならない、という歩みに変化してしまう生き方であることに、東後さんは気付いたのであります。結果的に功績や結果が生まれるのではなく、功績や結果を求める生き方は、この律法主義の生き方に類似するのではないかと思うのです。律法主義は、最終的に自分を求める生き方です。そこに神様が排除され、自分の追求と自分の名誉が焦点となります。神と私が挿げ替えられ、こう生きなければならないという生き方に忠実に生きる事の出来た「私」であった時、初めて私が満足いく私となり得るのであります。
 しかし彼は、ここで人間が生きるとは神の愛に生きる事である事に気がついたのです。こう生きねばならない。登校拒否をするなんて自分には考えられない。根性が足りないからだ。やる気がなくだらけているだけだ。そのように「ネバならない」の中に生きた時、失うものが大きかった事が明らかとなったのです。
 そうではなく神の愛に生きる。律法主義的に神の言葉に生きるのではなく、それで良いのだ。欠けがあってもそれで十分なのだ。学校に行けなくったっていいじゃないか。神はその家族も愛されているのだから。仕事が上手くいかなくったっていいじゃないか。それによって神様の愛が変わる事はないのだから。

 この神の愛に生きるかのごとく、主イエスは、律法を読み取り、解釈したのです。一点一画も変わらない律法であるけれども、しかしそれは人間を追い求める律法ではなく、神様が私たちを愛して下さっているゆえの律法である事に、今私たちも気付きたいのであります。

 司会者にお読み頂きましたコヘレト11章1節には「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってそれを見出すであろう」とあります。これは全くの無駄な行為です。折角得たパンを水に流す事に何の意味があり、何の利益があるのでしょう。しかしこれこそが「神の言葉に従う」ということではないでしょうか。人間の目に見える事、人間の目でそれと分かる成果、功績を尊重するならば、パンというものは、水に流さずに、今すぐ硬くなる前の美味しいうちに食べてしまった方が、効率よくパンを用い、自分の為、自分の利益のためになる事だと言えるでしょう。しかし旧約の知恵者は、パンを水に流せと言います。それは月日が経ってからそれを見出すからだ、と言うのです。
 そして私たちは、この言葉通りに生きられた方を知っております。それがキリストです。十字架は人間の目には全く無駄な生き方であるかもしれません。無駄に命を落としたように見えるかもしれません。しかしその後、それを見出したのです。否、それ以上の「復活の命」としてそれを見出したのです。私たちはこの神の赦し、底知れぬ愛を示されています。神の言葉として一点一画も変わらない律法が、神の言葉としてどのように私たちのものであるのかを確認したいのであります。

(浦和教会主日礼拝説教 2011年11月20日)