マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』  2012年2月5日

 マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』 2012年2月5日

 3.11以来、日本では国内外から莫大な金額の募金が集められいますがその中でも驚いたのは、ある篤志家である某企業の社長が100億円のポケットマネーを寄付したという報道でした。ポケットなどに入り切る筈もない莫大なマネーであります。これが発表されたのが4月初旬でありまして、その1月半後、まだ一円も入金されていない事が話題になり、メディアはこれを二つの見方で捉えました。

 一つ目は、株の売る時期を見計らっていると言うものです。この社長には6800億円の資産があると言われますが、勿論現金で持っているわけではなく、その大半が自社の株であるという事であります。その株を100億円分まとめて現金化しますと、株価が大暴落してしまい、この企業自体の存続に影響しかねない。それで少しずつ換金をしていくため、その時期を見ているのだ、という肯定的な見解であります。

 そしてもう一つの捉えられ方は、そもそも100億円など出す気はなく、一種の企業戦略であり売名行為に等しい、という批判的なものでありました。見せガネとして100億という莫大な数字を見せ世論を味方につけるという戦略であるというものです。そもそもこの社長さんは、東日本大震災をビジネスチャンスと捉えているのではないかという事も言われる事があるそうです。
 このような報道は、一部のメディアで言われている、いわば三面記事的な内容でありますし、その情報ソース自体がどこに由来するのか分からないものでありますから、今お話しした内容も話半分でお聞き下さればと思うわけです。しかし善意というものは、面白いもので、ある一つの善意が行われた時、それが善意であるのか、偽善であるのかという正反対の見方があり、どちらの内容にも真実味があるように思われます。彼が行なった莫大な募金が、完全な善意であるなら、後者の報道は全く事実無根であり、名誉棄損にもなりかねない見方でありましょう。しかしこれが、売名行為やビジネスへの足掛かりとして行われていたのなら、それこそ企業の存亡に関わる問題であろうと思います。私はこの事に対してどちらなのかという事は申し上げられませんし、この資産家である彼自身しか、本当のところが分からない、というのが事実であろうと思うのです。しかし人は、それをああでもない、こうでもないと言う。今ここでお話ししている事も、その類に属するのかもしれません。

 つまり何が言いたいのかと言いますと、人間は善意も悪意も、人に見られるという事によって受け止められ、それによって行われた行為は善意にも悪意(もしくは偽善)にもなるということです。言い換えるならば、善意の行動は、往々にして人に見られる事の中で評価され、批判される、という事であります。

 今日与えられた箇所は、この戒めが私たちには厳しい言葉であることを示します。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」このように厳しい言葉が示されます。そしてここで言われている善行とは、2節にあるように「施し」である、というのです。

 当時のユダヤでは、一般的に施しが行われていました。彼らの生活は、日常生活と信仰生活が分離されていない、一体化したものであり、信仰者としての行為として、神の憐れみを他人に分け与える具体的な行為として施しが行われていたのです。これは律法に基づいており、申命記15章11節にその事が示されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」このように律法で命じられる事によって、ユダヤ人たちは貧しい人々への施しを一般的な行為として行っていたのです。そう考えますと、当時のユダヤ人たちは大変立派であったと思います。今日の箇所が偽善的な行為の戒めなので、どうしてもユダヤ人たちの大半が自分の行為を誇っていたというイメージで読んでしまうのですが、しかしこれらの行為自体がもし偽善であったとしても、何もしないよりは随分立派な事ではないかと思うのです。アジアのある国で、5歳の男の子が車に轢かれて血を流しているのに、何十分もそのまま放置されて死亡した様子が、防犯カメラに全て写っていたという事件が起こりました。人通りの少なくない道で倒れている子どもを、我関せず、と素通りしていくという事が往々にして起こり得る世であります。このような現状が現代社会であるとするなら、主イエスの生きられたユダヤ人社会は、律法に根差した大変立派な心掛けであると思うのです。

 この立派な行いが当時も評価されていた事でありましょう。しかしこのような立派な行為は、得てして「人に見られる事を好む」と主イエスはおっしゃるのです。立派な行為の中には隠された誘惑があり、善意は偽善となる可能性を秘めていると言うのです。

 善意と悪意という事を考えてみます時、それが決定的に異なるのは、見られたいか否か、に尽きると思います。例えば、空き巣はそれを悪い事と知っているから人目に付かないように犯行を行います。悪い事をしていると自覚する者は、人に見られたくないと思い、隠れて行動します。世の中で起こる殆どの悪い事は、人に知られたくないと思われて行われているはずであります。

 しかしそれと正反対に行われるのは、「善意」です。良い事をしている、というのは見られても良い、否、見てもらいたいと思うものなのです。あの100億円の募金者も、究極的には、誰にも知られずに募金する事も出来たはずですが、しかしそれを公表する事によって、善意を公に知ってもらいたいという思いがどこにも無かった、とも言い切れません。勿論そうではない人もいるでしょう。誰にも知られないで良い事を行なう。多額の募金という事だけではなく、ひっそりと行われた慈善的行為、隠れてなされたみんなの益となる助け。それらは実はこの世で行われている筈なのです。しかしそんな事があったかどうか、誰も知りません。そのような慎み深い良い行為であるなら、それこそみんなに知られて欲しいと私たちは願います。しかしそんな事は起こり得る筈がありません。なぜなら誰にも気付かれずに行われるからです。

 ここに一つの矛
盾が生じます。「誰にも知られない」という事は、その知られなかったという事自体が評価されるべきなのですが、しかし「誰にも知られない」という事は、誰からも評価されない、という事になるのです。つまりここに今日の箇所の示す意味があります。それは「評価の問題」です。

 どうして人は、自分の良い行いを見てもらおうとするのでしょうか。口語訳聖書ではその事が明確に示されます。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」。「自分の義」それは自分自身の正義であり、自分自身の正しさであります。自分の正しさを人に見てもらいたい。そのような心の働きが起こるのであります。先ほどの悪い行為と表裏一体です。悪い行為は誰にも見られたくない、しかし良い行為はみんなに見てもらいたい。それが私たち人間の本質にあるのだと言うのです。

 今日の言葉の確信はここにあるのだと思います。つまり誰が評価するか。誰の下で行為するかが問われているのです。人に見られて人の評価の中で自分が善行を行う時、その評価の基準は人であり、人が自分を如何に見ているかが重要になってきます。人からの評価の高さがその行為の高さであり、その人自身の高さになっていく。人からの評価が低い場合、その行為がどんなに素晴らしかったとしても、そこには意味が無くなって来るのです。
 言い換えるならば、誰のための行為となるかという事です。人から評価を受ける事の中で自分を律していく者は、人を重んじ、人を敬い、人を尊重して生きていく。その行為自体は決して悪くありません。しかしそれは突き詰めていくならば、行為の内容そのものではなく、人がそれをどう見るか、人がこの行いをどう評価してくれるのか、という、他者の胸三寸で決まる「善意」となってしまうのです。それは「あなたにとって神とは誰か」という問いになります。人からの評判、人からの噂を神にするのか。それとも真の神を真の神とするのか。その事が問われているのです。

 人は、得てして、どんな評判でも流します。ある事ない事、作り話に至るまで、実しやかに流します。そして人は、その事に一喜一憂し、嘆き、落ち込むのです。立派な行為を、人知れず行っていたとしても、それは見えないので、行っていないのと同じなのです。だから人は、評価してもらおうと見せようとする。その事を言っているのであります。人の評価とは、適当なものであります。莫大なポケットマネーを募金したとしても、その評価は全く正反対になるのですから。

 だから誰がその行為を見ているのか。その事をいつも念頭に置きなさい、と聖書は言うのです。「評判」と言う神。「人の評価」という神ではなく、真の創造主なる、御子イエス・キリストの父なる神、その方こそが、あなたの行為を知っておられるという事であります。ディケンズの『クリスマスキャロル』の中で、主人公スクルージが回心したのも、自分の行為が主に見られているという恐れに気付かせられたからであると語られます。聖書の中にも、レプトン銅貨2枚を献げたやもめの行為が神に見られている事が語られ、ニネベに行く事から逃れようとした預言者ヨナの行為は神に見られていたことが語られ、カインとアベルの思いの違いを主は見ておられ、使徒言行録5章のアナニアとサフィラの夫婦が貧しい者たちへの施しをごまかした事を主に見破らその場で主の裁きを受けた事など、主が我々を見ておられると多くの箇所で語られているのです。
 誰が見ているのか。人を主人にしてはならない。主イエス・キリストの父なる神こそ真の主人とせねばならない、この事が言われているのであります。

 そして最後に、山上の説教全体を通してこの言葉を考えてみたいと思います。それは5章16節であります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」という言葉と、見せることなく善行に励めという言葉は矛盾するのではないか、という事であります。あちらでは立派な行いをしろと言い、こちらでは人に見せるなと言う。これは矛盾なのでしょうか。否、良く読んでみるとそうではない事が分かります。それは「あなた」と「あなた方」という2人称単数か、複数かの違いであります。つまり、あなた自身の善行は、独りよがりのものになりかねない危険を孕んでいるけれども、しかしそれが複数で行われる、共同体的行為である時、その責任はその共同体にあり、その責任の下で、その善行を吟味し、世にある共同体としてあり続ける意味を持つのであります。つまり言い換えるならば、そこにキリストをかしらとする教会の意味があるのです。2人もしくは3人いるところに私は居るのである、と主はおっしゃいました。それは複数の信仰の友らの交わりと祈りの中で行われる主イエスを中心とした行為こそが、その光を輝かしなさいと言われる行為であります。そこに教会形成の意味があり、そこに教会がこの世に存在する意味があるのです。

 今日は新任の長老と執事が任職式を迎えます。この浦和教会が、主によしとされた良い教会形成をし、良いしもべとして導かれる事を、主は望んでおられる。それはこれ見よがしに自分の善行を世に知らしめる行いではなく、慎み深く、人を慈しみ、隣人を愛する中で行われる行為であり、見えない行為を見ておられる神の名を崇める事になるのです。
私たちの行いが、主によって良い者とされますように祈る者であります。

 
(浦和教会 2012年2月5日 主日礼拝説教)