マタイによる福音書7章1節-6節  『目の中の丸太』 2012年6月3日

 マタイによる福音書7章1節-6節 『目の中の丸太』 2012年6月3日


 今日の箇所を初めて読んだとき、最も印象的な言葉はどれでしょうか。読む人によって印象と言うのは様々でありますが、特に「目の中のおが屑、目の中の丸太」という言葉に驚かせられるのではないでしょうか。
 以前この教会にも伝道礼拝でお呼びした事がありますが、宮田光男という先生がおられます。この方の専門は法学と政治学なのですけれども、キリスト教神学の研究者としても知られております。その著作の中に、「キリスト教と笑い」という本がありまして、その中で彼は、このように述べております。「主イエスが涙を流したという事は書かれているけれども、イエスが笑ったという事は書かれていない。しかし聖書の中にもユーモアや笑いが隠されている」。このように言うわけです。そして新約聖書の中にあるイエスのユーモアの一つとして、実は今日の箇所の言葉が示されております。それこそが「目の中の丸太」という言葉であります。その著書の中でこのように説明しております。「目の中の丸太などという、ありえない事柄が譬えとして誇張されて語られ、それを聞いた民衆は、自分の罪に気付かない自らを省み、自己アイロニー的な笑いを浮かべただろう」、と、このように解説しているわけです。
 確かにこの箇所の言葉は、譬えとしてやや誇張された感があります。自分というのは、もっとも自分が見えていない。自分の罪などは全く見えていない。目の中に丸太ん棒のように大きい罪があったとしても、それにすら気付かない。そのような意味をもって主イエスはこの譬えを語っております。ですから聞いた人の中には少なからず笑った人がいたのでしょう。確かにその通りだな、と感じながら、自分の罪深さを皮肉って笑ったのでしょう。しかし内容的には非常にシュールであります。

 ここには「『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか」とありますが、ルカによる福音書では、「『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えるだろうか」とあります。この「さあ」というのは丁寧語でありまして、いかにも親切心や兄弟愛から出ているような、そういう感じが強められている、そのための「さあ」という言葉であります。つまり今日の箇所においても、同じように、親切心を装いながら、実は慇懃無礼なほどに、自分が絶対であるという思いと共にこの言葉が語られるろいう事が伺えます。
 「『あなたの眼の中のおが屑を取らせて下さい』という人は、物腰穏やかに、親切心からそれを言っているように思えるけれども、実はそうではない」と主イエスはいうのです。私たちがこの世の中で最も分からないのは、自分自身であります。一番近くにいても、誰も見る事の出来ないのが自分自身であります。人を裁き、人の欠点にばかり気づき、そこに目をやり、赦す事の出来ない私。それが人間であるのです。

「人を裁くな」という教えは、私たちも度々聞いているところであります。特に教会の中でよく、本当によく聞く言葉であります。しかし度々この事が問題になる。それは教会で度々言われているけれども、この世から一向にそれが無くならない、という事を示すのです。
人を裁く、という事は、そもそも私たちの関心がどこにあるのかを示しているように思います。つまり、「人が何をしているのか」。という事です。人に関心がある。人のやる事に関心を持つ。それだけをとれば、決して悪い事ではないと思います。しかしそれは、人のやる事に、評価を含む、という事に繋がり、そしてその評価の優劣をつける、という事になっていく。つまり人が行う事が、「その人に適っているか」ではなく、「自分に適っているか」という事によって、判断を下すのです。それが人を裁く事であります。結果として人への関心は、自分の考えと異なる点を見つけ、そこを糾弾するという事への関心となっていく。それは主イエスの言われる「人を裁くな」という事なのです。

 では、人が罪を犯していた時はどうなのでしょうか。人が罪を犯しているのを横目でみながら、「人を裁くな」と言われているから何も言うまい、といって、その罪を放置する事はどうなのでしょうか。しかしそれは「無関心」となってしまいます。その行為を指摘する事から逃れている無関心であります。ですからこの違いが大変難しいのではないでしょうか。裁くな、と言われているけれども、何が裁く事であり、何が裁く事でないのか。その判断が難しいのであります。

 ある説教者は、裁くという事に関して次のように言います。
「たとえキリスト者であっても、一人悦に入り、自分こそキリストに従っている唯一の者だと誇っているなら、それは人と自分を分離するだけでなく、キリストと自分を分離しているのです。イエスに従う者は、イエスと結びつきます。それはイエス・キリストを私たちを裁かず、私たちの罪を負って下さったからにほかなりません。それで私たちも、兄弟や隣人に距離を置いて、その観察者となるのではなく、兄弟の罪に対しても、自分の責任を感じ、その兄弟としっかりと結びつくのです。そうでないと、私たちは、イエス・キリストの観察者になり、その結果、隣人をうがって観察し、人の批評の対象とします。」(蓮見和夫『マタイによる福音書127頁』)とあります。

 人への関心を持つ事は素晴らしいことであります。マザーテレサの言うように、愛するとは「関心を持つ事」に他ならないからです。しかし関心が観察になるとき、私たちはそこに責任を持たず、批評家になっていきます。批評は責任を持ちません。愛があっても無くても出来るのです。自分の子どもを叱る時、そこには責任が伴います。その子の成長を願い、良い事悪い事の判断が出来る子になってほしいと望むから叱るのです。しかし叱る自分にも責任が伴います。今叱っている自分が、もし自分の気分や感情によって叱っているなら、無用な叱りになる、そのような事を考えて、自分の行動にハタと気付かされる事もあります。つまりそこには、子どもを観察する親ではなく、子どもに責任を持って関わり愛する親が存在するのです。関心は責任を伴います。責任は愛を伴います。しかし関心から愛が抜け落ちれば、その関心は、単なる「観察」になり、そのとき私たちは「傍観者」となってしまうのです。

 隣人と距離を置き、隣人を観察するとき、その隣人を愛
せよ、と命じられたイエス・キリストを傍観する事になります。キリストを傍観し、あの教えも、あの受難も、そしてあの十字架と流された血をも、私たちの観察対象となっていくのです。その時、私たちは、キリストの救いを傍観します。この救いは私たちには関係ないと。この救いは、人類の罪のためとは言うが、しかしそこには自分の罪はない、と、十字架を観察するのです。もはやそこにいる「私」という存在は、「キリストの第二者」ではなくなり、第三者として、傍観する「私」となるのです。つまり人間とその罪を贖うキリストの繋がりとは、無関係なところに「私」を置く時、それは、「私」の罪を傍観する事になるのです。

 「人を裁くな」という命令は、他者に対する命令でありつつ、しかしそこに立っている自分自身を省みること、もう少し付け加えるならば、そこに立っている自分自身の「罪」を省みる事に他ならないのであります。あなたの罪を見ずして、他者の罪ばかりを見ようとすること。その事を言っているのです。だからこそ、自分の罪を棚に上げて人の罪ばかり見ようとする事に対して、主イエスは、目の中にある、大きな大きな丸太に気付かず、もしくはそれを見ずして、他者の小さな罪を指摘するな。「そのおが屑は、ああであり、こうである。」と述べる事はするな。と、主イエスはおっしゃっているのであります。
 人間の罪と、その罪が贖われるということが、まことに自分の問題であると感じるならば、人の罪ではなく、自分の罪を意識せずにはおれないと思うのです。

 ドイツの神学者カール・バルトが、晩年、刑務所で説教していた時、人にこう言ったそうです。あそこでは「あなた方は罪人です」と言う必要はありません。彼らはその事をよく承知しているからです。あそこで必要なのは、「皆さんに説教している、この私も罪人です」ということなのです、と、このように言ったといいます。(蓮見和夫、前掲書、129頁)
 ここに示されているのは、人間の間にある罪の問題は、神の前ではどれも等しく、罪人である、という事実だけが私たちの実存的な存在として立ち上がっているという事であります。それは、多かれ少なかれ、私たちは罪を犯すし、その違い、その差異に関して、どちらがどうであると罪の度合いを批評し合う事は、そこに神不在の状況を作り出す事になってしまう、という事なのです。私たちは全てが罪人です。しかしあの人の罪は大きい、しかし私の罪は小さい、というやり取りは、そこに神の恵みが立ち上がる事を拒む営みとなるのです。
 すなわち、私たちには、私たち人間という存在には、神の救いが必要なのであると祈り合う事。そして私たちの間には、キリストの罪の贖いが無くては、私たち自身が存在し得ない事を、共に認識し合う事。それなくして、我々人間同士の、本来的な交わりと、関係性は、築きえないと思うのです。

 人を裁く事は、裁き合う事の中には、イエス・キリストの十字架は立ちません。相手を愛し、その罪の中に共に生き、その罪が私の罪と共に贖われている事を、その相手と共有し、共にその恵みを受け取り合う時にのみ、そこにキリストの赦しと贖いの十字架が立ちうるのです。
 私たちは、人を評価し、批評し、主イエスと切り離された生き方を選び取るのではなく、主イエスと結び合わさっている時にこそ、真の意味で他者とも結び合わされる事を、今ここに覚えたいのです。隣人との繋がりは、キリストとの繋がりの中にこそ成り立つのであります。

 (浦和教会主日礼拝説教  2012年6月3日)

6月3日~9日

6月3日~6月9日の集会

◇旧浦和市教職者会(教団浦和東)  6月4日(月) 午前 10:00

◇浅羽姉訪問             6月6日(水) 午後 3:00

◇聖書の学びと祈り          6月6日(水) 午後 7:30
  Ⅰコリント16章1節~

◇聖書の学びと祈り          6月7日(木) 午前 10:00
  レビ記1章
◇生と死の学び

◇トレインキッズ            6月9日(土) 午前 11:00

6月3日~9日

6月3日~6月9日の集会

◇旧浦和市教職者会   6月4日(月) 午後10:00

◇浅羽姉訪問        6月6日(水) 午後 3:00

◇聖書の学びと祈り    6月6日(水) 午後  7:30
  Ⅰコリント16章1節

◇聖書の学びと祈り    6月7日(木) 午前10:00
  レビ記1章
◇生と死の学び

◇トレインキッズ      6月9日(土) 午前11:00

6月10日

  2012年6月10日(日)の礼拝

◇日 時:6月10日(日)午前10:30~

◇説 教:「求めよ。そうすれば与えられるであろう」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:エレミヤ書6章16節~21節
      マタイによる福音書7章7節~12節