浦和教会主日礼拝説教  マタイによる福音書9章1節-8節 2012年9月2日

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書9章1節-8節 『子よ、元気を出しなさい』①


 ガリラヤ湖を向こう岸に渡られたイエス一行は、湖の上で嵐を鎮める主イエスの業を目にし、ガダラ地方においては、悪霊に憑りつかれた2人の男に対して、豚の群れの中に悪霊を追い出すという驚くべき仕方によって、癒しの業を行ないました。この二つの出来事を終えて、一行はまたユダヤ地方に帰ってきたのです。
 そして帰るな否や、そこで中風を患った一人の人と出会いました。出会ったというよりも、むしろ人々が中風の人を床に寝かせたまま連れてきたのです。この人たちがどういう関係であるのか分かりません。親や子供などの肉親なのか、友人たちなのか、それともたまたま通りかかった人が中風を患っているのを不憫に思い、衝動的に連れて来たのか、それは分かりません。他の福音書の同じ並行箇所では、その人が4人であり全てが男たちであった、という事が書かれています。それから最も重要な出来事として、イエスが話をし、癒しの業を行なっている家の屋根の上に勝手に上がり、屋根を剥がして中風の人の床を吊り降ろすという行為に出ているという事も記されています。しかし今日の箇所では、床を担いできた人の人数、性別、中風の人との関係などに関して、一切何も語っていません。つまりこのような並行箇所との比較をしてみて明らかな事は、マタイ福音書の著者にとっては「誰に連れてこられたか」のも「屋根を剥がして吊り降ろされた」のも重要ではなく、むしろ枝葉の事であると暗に示しているのです。

 ではマタイ福音書のこの箇所において何が中心的なメッセージなのでしょうか。それが2節の言葉に示されています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。」

 この言葉は大変不思議な言葉であります。何が不思議かお分かりになるでしょうか。このやり取りを良く読んでみますと、まず数名の人が床を担いで来てイエスの前に現われ、そしてその信仰を見て、「あなたの罪は赦されると言った」のです。まずイエスは、「自分のところに連れてきた事が信仰である」、と理解しているのです。そしてその人の体の癒しではなく、罪の赦しに言及し、赦しの宣言をしているのです。普通に考えるならば、この4人の行動を見て、中風の人に癒しの業を与えるのが順当な行為であろうかと思いますが、しかしここで与えられたのは「癒し」ではなく「赦し」だったのです。

 ここで私たちは、信仰上最も根本的で重要な問いに辿り着くのです。それは、「一人の人間の生涯にとって、何がより重要であるのか。癒しか。罪の赦しか」。その問いを与えられるのです。
 主イエスが罪の赦しを宣言するのを聞いた律法学者たちは、こころの中で批判します。「この男は神を冒瀆している」と思う者がいたというのです。それはこの律法学者がそう考えるのも無理はないと思います。何故ならば、罪の赦しを行なえるのは神以外にありえないからです。イエスを『主である』と信じていない彼らにとって、それは神への冒瀆以外の何物でもなかったことでしょう。

 これに対して神の子イエス・キリストは、一つの重要な問いを投げかけます。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」この問いです。これは大変難しい言葉です。皆さんはどちらだとお思いになられるでしょうか。「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが簡単な事なのでしょう。

 これは全く議論の分かれるところであります。注目したいのは、赦されたと「言う」のと、起き上がれと「言う」のとどちらが易しいか、とあるように「言葉で言う」事についてどちらが易しいか、と問うているように理解できるということです。

 現実的に考えるなら「あなたの罪が赦されたと『口で言う』」方が簡単であるかもしれません。何故なら「赦された事」は確認が出来ないからです。その反対に「あなたの病気は治ったと『口で言う』」ためには、実際に体が治らなければその言葉はウソになってしまいます。動かない腕や足が動き、見えない目が見えるようになり、話せない口が言葉を持つようになる、という事は、実際に目で見て確認する事が出来る。しかし罪が赦される事は確認が出来ない。だから「あなたの罪は赦された、と、口で言う方が易しい」と理解する事も可能でありましょう。

 しかしこの箇所の文脈から言って、やはり癒されたというよりも、罪の赦しを宣言する方が難しいと捉える方が良いのかも知れません。それは罪の赦しが目に見えないからこそ、確認できないからこそ難しい、という理解であります。

 赦しの宣言が難しい、という事は、ともすれば私たちにとってなかなか腑に落ちないものかもしれません。何故なら、赦しを乞う人「加害者」に対して、被害者があなたを赦します、と宣言すれば、謝罪と赦しは成立するからです。ですから、どうしてイエス様は、この赦しの方が難しいと考えたのか。この事が問題となります。

 しかし罪の赦し、というのは、被害者と加害者との関係の中だけで行われる単純なものではありません。ときに罪の赦しは、誰に対して行えば良いのか分からない事も起こり得ますし、赦して欲しい人からの赦しを得られないという事を起こり得るのです。

 随分昔の事になりますが、ある女性の信徒から悩みを相談をされた事がありました。その女性は若い頃、所謂人工妊娠中絶を行なったというのです。それは悩みに悩み抜き、その時の自分に育てる事が出来ないから、という苦肉の決断であったという事でありました。しかし堕胎した事による罪の意識を何年経っても拭いきれず、毎日を苦しく過ごしているというのです。
 その方はクリスチャンではありませんでしたから、水子供養であったり、何らかのお祓いのようなものであったり、色々な民間信仰的な事を試してみたけれども、小さな命を人工的に奪ってしまった事への罪の意識が日に日に増すばかりであるというのです。そしてその女性は「誰もこの罪を赦してくれない」と、そう言って嘆いていたのでした。私はそれに対して、軽々しく赦される事を語る事は出来ませんでした。何故なら私自身に赦しの権威が
無いからです。又、もし私が神様の名において赦しを宣言したとしても、この女性が根本のところで赦しを実感する事は不可能だったと思うのです。

(②に続く)