8月9日の説教 『夕闇の迫る時にも』 ルカによる福音書24章13節‐35節 南純教師



        

              『夕闇の迫る時にも』

          ルカによる福音書2413節~35


                         教師  南 純

 


 



そこには、白内障で「目を遮られ」、前途に希望を見失い、「暗い顔」に沈んでいる者の姿がある。しかし、それでも彼らは夕暮れの道をなお進み行かなければならないのである。
 今、そのような彼らに、一人の同行者が加わる。死の闇を突き破って復活された主イエスであるが、彼らの目には残念ながら今はまだ見えていない。しかし、彼らが勇気を出して「一緒にお泊まり下さい(stay with us)」と願ったことにより、新しい展望が開かれる。彼はもはや同行者ではなく、食卓の主として立ち現われたからである。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ことによって、「遮られて」いた「二人の目は開け、イエスだと分かった」からである。
 聖書の説き明かしに加えてパンのしるしを受け、今や彼らの「暗い顔」が復活者イエスの光を浴びて輝き出し、夕闇の中を主の証人として遣わされて行くのである。そこから彼らのいわば第二の人生が始まるのである。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント第二、517節)となり、「闇を変えて光となす」(讃美歌7番)創造者の御業をわが身にまとうのである。
 讃美歌39番の「日くれて四方はくらく」は、エマオでの復活の主の顕現を歌ったものとして知られるが、各節の終りで「主よ、ともに宿りませ」を反復し、強調している。原詩では「生きる時も、死ぬ時も、主よ、共に宿りませ(inlife,in death,O Lord,abide with me)」と歌い上げている。この歌詞は『ハイデルベルク信仰問答』第一問の「唯一の慰め」に呼応する。私たちがほかの何者でもなくて「主のものである」ことこそ、人生の夕暮れと暗闇に立ち向かうための唯一の希望であり、慰めなのである。私たちも聖書の証言と宗教改革者たちの信仰告白に合わせて、「主よ、共にやどりませ」と歌いたいものである。