8月30日の説教 ヨハネ福音書7章1節-9節

830日の説教から>
わたしの時はまだ来ていない

                  ヨハネによる福音書71節~9

                                 牧師 三輪地塩
 イエスの兄弟(主の兄弟)たちが批判的に描かれている。ここには主の兄弟が重んじられるという血統や家系を重んじるという「初代キリスト教会へのアンチ」が込められているのではないだろうか。ヨハネ福音書が書かれたAD90年頃は主の兄弟たちが重んじられる教会の政治体制、特に総本山としてのエルサレム教会に権威が集中しているあり方を批判しているのではないかと思われる。つまり我々の信仰とは、イエスの血筋であるから偉いとか、「イエスの兄弟であるから崇敬に値する」ということになった場合、そこにはキリストの福音に反する価値観による評価が起こってしまうと言おうとしているのではないだろうか。「私の親兄弟とは誰か、ここにいる者たち、御言葉に聞き従おうとして集まっている人たちが、私たちの本当の兄弟姉妹である」、と主イエスは言われた。それは我々の信仰が、御言葉に立っていることを示すものであり、神の救いが人間的な、家系、血族、家柄の中には無い ということを表わす言葉であろう。
 キリストは誰のために死なれたか。それは世のすべての者たちのためである。キリストと同じユダヤに生まれた者たちだけ族のためでもないし、イスラエル民族だけのためでもない。キリストは世を救うメシア、キリストであられた。十字架がそれを示している。しかし「イエスの兄弟たち」はそれが理解できなかった、最後まで目に見えるものや事柄に引っ張られていたのである。
 翻って我々現代に生きるキリスト者はどう生きることが求められるのか。それは「御言葉に立つ」という信仰の在り方である。我々は目に見える事柄に流される。奇跡的な出来事があると、そこに神の姿を見ようとしてしまう。しかし本当の神の姿は「素晴らしさ」の中にあるのではなく、「痛みと苦しみの中」にあったのだ。その命を捨ててまで我々を愛される姿の中に、本当の神の姿を見、その神こそが、我々を罪から救い、神と共に生きうるものとされる「贖い」があるのである。我々は教会において、神に愛される兄弟姉妹として共に生き、生かされたいと願う。

8月23日の説教

823日の説教から>
『実にひどい話だ。こんな話は聞いていられない。』
             ヨハネによる福音書660節~71
                                牧師 三輪地塩
「肉は何の役にも立たない」(63節)は心に突き刺さる。人類はその歴史の多くの場面でこの言葉が真実であることを否応なしに思い知らされてきた。
 86日に放映された「原爆は止められなかったのか」という番組(NHK)を観て、これは本当に人間の罪がなせる業だったことを思わされた。番組では、大日本帝国のかたくな な戦争への意と、米英露の戦後を見越した覇権争いが原爆の使用を促進させたという、これまでも何度も聞いてきた歴史観であったが、驚いたのはトルーマンの言葉である。「Beastたち(つまり日本人たち)に戦争を終結させるには原爆しかない」という意味の言葉を 時の大統領が残しているのである。ビーストとは「野獣」であり、この文脈から翻訳すると「あの日本のケダモノたち」とか「日本の畜生たちが」という感じになる。そして彼らは平和を語るのである。あのままにしておけばもっと戦死者が出たのだから原爆程度の犠牲者で済んでよかった、それがアメリカが成し得た最も平和的な解決だという論理である。当然ながら日本は、アジア全土で悲惨な殺戮を続け、大東亜共栄圏という理想郷を作り上げることが平和なのであると語っていたのだから、連合国側を批判できる立場にない。つまり、こっちが悪いあっちが悪い、という因果を超えて「人間の行いは悪い」ということに気づかされるのである。あの戦争によって我々は、人間の無し得ようとする「平和」が、人間の業とエゴの結晶化であることを示すのである。人類は肉的な思いに囚われ、肉的な考えと行動によって行いを進めれば、そこには殺戮と破壊、破滅と悲惨しか造り出せないということである。それが「肉のなす業である」ことを改めて思わされる。
「肉は何の役にも立たない」という言葉と共に「そこに神がおられなければ」という真理に出会うのである。
昨今の悲惨な事件や事故の数々は、我々人間の肉の業による最たるものであろう。そこに神がおられるのか。我々はこの真実の下で行動し、歩まねばならないのである。

8月2日の説教 ヨハネ6章52節-59節

              <82日の説教から>

        『パンを食べ葡萄酒を飲むというイエスの教え』
           ヨハネによる福音書652節~59
                              牧師 三輪地塩
この世には多くの宗教があり、「神」と呼ばれる存在は多くある。ギリシャ神話、ローマ神話、日本神話、アイヌやアメリカンネイティブの神話などに多くの「カミ」が登場する。その中で、神が英雄的に死んだという話もたくさんあるだろう。人間のために、人間を守るために神が身を捧げて英雄として死んでいった、これは何とも感動的で心を揺さぶる物語となる。
 ここにキリスト教独自の「信仰観」ないし「神観」がある。キリストは我々の救いのために死んでいった、というところまでは似ているが、しかし「救われる者たち」、すなわち救われるべき我々人間から、笑われ、あざけられ、身ぐるみはがされ、槍で突かれ、苦しみを受けて死んでいった、という神はこの世の中のどこにもいない。神が救おうとする者たちから反逆を受けているにも関わらず、その反逆する者を救う、という神話がどこにあるだろうか。
 それが私たちのキリスト教信仰の特筆すべき信仰である。そしてそれを端的に言い表わし、目で見て、舌で味わう御言葉として与えられたものこそが、聖餐式なのである。我々に聖餐が与えられている意味はそこにある。
 聖餐式の中で食されるパンとブドウ酒は、キリストの「肉」「血」そのもの(化学式的な実態としての肉と血)になるわけではない。しかし礼拝に一堂に会しているものたちが、キリストの現臨を祈り、聖霊において存在されるキリストと共に、このパンと杯を口にするのである。その時我々は、キリストによって救われている確信を得ることができるのである。

10月4日の礼拝

主 日 礼 拝    午前10:3
          【 聖 餐 式 】
奏楽
<神の招き> 
招 詞   エフェソの信徒への手紙514 b 
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編321節~5
*讃美歌   (21)12
 
<神の言葉>
聖 書   エゼキエル書479節~10
                 (旧約P.1375)
     ヨハネによる福音書737節~39
                         (新約P.179)
祈 り                                                                  <
b style="">     
                                                                                                                                 
*讃美歌   (21)458
  「渇いている人は誰でも
        私のところに来て飲みなさい」
                         
<神への応答>
*讃美歌   (21)483
*日本キリスト教会 信仰の告白 
 聖餐式
 讃美歌  (21)79
公 告
*献金感謝                               
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏    

9月27日の礼拝

主 日 礼 拝    午前10:3
奏楽
 
<神の招き> 
招 詞   マラキ書31  
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編381節~15
*讃美歌   (21)16【1-3】
 
<神の言葉>
聖 書   イザヤ書567節~8  (旧約P.1154)
     ヨハネによる福音書732節~36
                         (新約P.179)
祈 り             伊木 美穂子                                                                                                                                                                                            
*讃美歌   (21)444
 説  「わたしを捜しても、見つけることがない」
                         
 
<神への応答>
*讃美歌   (21)451
*十  戒  出エジプト記20章 
公 告
*献金感謝                               
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏