9月20日の説教から ヨハネによる福音書7章25節~31節

 
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『救い主はどこからくるのか』
              ヨハネによる福音書725節~31
                                牧師 三輪地塩
 
 この箇所は「キリスト告白」を主題としている。
 「人間の知」は未知を探求する。それは人間に備わった知恵であり、欲求である。それによって我々は新たな地平を得て行く。しかし「キリストを知る」ことは、我々に、「未知の神」が更に未知であることを明らかにすることを意味する。つまり我々は神を完全に知る事は出来ないし、キリストを自分のものとすることはできない。我々に与えられている神との関わりは「信仰告白」においてのみ可能となるのである。
 我々はキリストを告白する。もっと具体的には「キリストの救いを信じること」を告白するのである。我々は、自分で自分自身を救うことが出来ない。我々の中には絶対的な正義はなく、絶対的な知恵もない。良い判断、高い知識、正しいを思われる行いは出来るかもしれない。しかし「完全な」ものは我々には不可能である。これが聖書の語る人間存在である。
 このように考えると聖書の語る人間観は何とネガティブだろうかと思うかもしれない。しかしそうではない。なぜなら我々は、キリストを告白することが出来る存在」として創造されているからである。聖書は我々に限りなく明るく前向きな人間観を与える。それは「功績なくして罪を赦される」という御子との関わりが与えられているからである。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「人間は全的堕落の存在だ」と言った。人間が全ての部分において悪い方向に傾いているという意味である。だからこそ我々は信仰を告白せねばならない。だからこそ、神の正しさの内に生きなければならない。我々のうちに起こり得るただ一つの希望、ただ一つの慰めは、「神の希望の内に生きること」なのである。我々人間という存在は、神と共に生きる時、希望ある存在となるのである。
 そのためにいつも聖書と共に歩み、聖書から御言葉に聞くことが肝要である。聖書の言葉に耳を傾けそれに応答する生活こそが、我々の希望の生活となるのである。